第6話

「山に行ってくる。」

 ある日、彼はそう言った。いつ準備したのか大きな荷物を背中に背負って。

 言葉が出なかった。彼はただ淡々と「両親が心配だから付き添いたいんだ。」と、そう言って。

 彼が室外へと足を踏み出す。私の脳にはフラッシュバックを起こすかのように、あの日見た夢が繰り返されていた。

 今までずっと、モザイクが掛けられていた、あの場所。今となっては、そんなものは無くなり、鮮明な映像が脳内へと流れ込む。

――山中で遺体が発見されたのは――

 ニュースキャスターが淡々と放った言葉。私の背中をぞわぞわと何かが這い上がる。震えが止まらなかった。吐き気すらした。そうか、私は、また、

「やだ、行っちゃ駄目、お願い行かないで、駄目、ねぇ……!」

 必死だった。家を出た彼を追い掛け、腕を掴んで彼を引き止める。私の焦りように彼は少し驚いていたようだけれど、それでもやはり「ごめん、行かなきゃ」と申し訳なさそうにしながら歩を進めた。

「駄目、やだ、死んじゃう、やだよやだやだやだっ」

 ひくりと喉が震える。どうすれば彼を止められるのか、何と言えば彼の気持ちを変えることが出来るのか、どうすれば彼を失わずに済むのか。

 頭が混乱した。とにかく必死だった。狂ったように嫌だを繰り返す私の背中を、彼は酷く優しく撫でて。

「どうした? 大丈夫だから、な?」

 尚も行こうとする彼。信じてもらえるかなんてわからなくても、彼を止められるならばそれで良い。

 思考回路があまり機能しなくなった私は、息を引き攣らせながらも必死で彼に言葉を投げ掛けた。

「私ね、予知夢が見えるの、信じてくれる?」

「あぁ、信じるよ」

 いつもそうだった。彼は疑いもせずすんなりと信じて、何を言ったって馬鹿にしたりなんかしない。全てを受け止めて真摯な心で向き合うのが彼だ。

「夢を見たの。貴方の遺体が山で発見されたって、そんな夢」

「死んじゃうかもしれないの、私はもう独りになりたくないの、幸せになりたいの」

「行かないで……!」

 ふ、と力なく彼は微笑んだ。鳥肌が立つ。嫌な予感しかしなかった。

 だって、彼の瞳は、恐ろしいほどに落ち着いていて。

「そうだな、死ぬかもしれない」

 さぁと頭から何かが消えていく。何も考えられない、考えたくない、理解したくない。彼が言った言葉の意味を理解しまいと私の脳が拒絶反応を起こせば良いのに、強制的に理解せざるを得ない身体の構造が怨めしい。

「ね、え」

 行かないで、嫌、生きていて、死なないで、私を独りにしないで、置いて逝かないで。

 口走りそうになる言葉は同じ物ばかりで。でも、どんなにこの言葉達を羅列させても、どんなに泣きながら懇願しても、彼は行ってしまうのだろう。

「ごめん、行かなきゃ」

 我慢していたわけではないのに、不思議と流れなかった涙が頬を伝った。堰を切ったかのように大量の水滴が次から次へと瞳から止めどなく溢れ続ける。

 止めても無駄だということは痛いほどわかってしまった。彼に何を言っても無駄だと、彼が意志を変えることなんて無いのだと。

「……やっ、だ、」

 ひくり、ひくりと喉が上下する。呼吸すらままならない。涙で顔はぐしゃぐしゃだろうし、私が発した声は途切れ途切れだったから聞き取りにくかったに違いない。

 彼は私がしつこく繰り返す否定的な言葉も優しく包み込むように微笑んだ。

「行ってくる」

 彼の腕を、胸の中へと。ぎゅうと強く抱き着いた私の背中を、彼は優しく撫でた。温かな温もりを、優しさを、彼の匂いを、声を、姿を忘れまいと、脳裏に焼き付けねばと、私の五感総てが彼へと向かう。

 ずっと、頬を涙が伝っていた。声を押し殺して、止まることのない嗚咽を抑えようと呼吸をして。

 すきが、愛してるが、胸から溢れ出して、この世界を埋め尽くしてしまいそうなほど、私は、


 彼に、恋をしていた。

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