第8話「大丈夫、ちゃんと、戻るから」

「オリジナルは、下がっていろ。われが、とどめを、さす」

 すると、レーナが立ち上がろうとする気配があった。梅花にはどうしても無理をさせたくないらしい。同じく梅花もこれ以上レーナに無茶をさせるつもりはないのだが。ならば一体どうしたらよいのだろう?

 ちりちりと、胸の奥が焦げるような感触がする。張り詰めた精神がまるで弾けそうな錯覚に陥る。生み出した青い刃が風に煽られたように揺れた。梅花の精神も影響を受けているのだろうか? それとも感情が安定していないせいなのか?

 レーナを救う方法はあるはずだと、梅花は必死に胸中で繰り返した。「普通は死ぬ」だなどとミスカーテは言ったが、こちらを揺さぶるつもりなのだろう。だから今、心を乱してはいけない。

「レーナ!」

 そこで突として、背後から力強い声が響いた。青葉とよく似ているが、彼はすぐ側にいる。――つまり、アースだ。

「おせーんだよ」

 青葉は悪態を吐いたが、基地から飛んできたのならば仕方がない。ここまではかなり距離がある。レーナのように転移ができるわけではないのだから、どうしたって限界はある。

「ああ、申し子がまた増えるね」

 ミスカーテがさらに後退った。その右手に黒い刃が生み出されたのを、梅花は信じがたい思いで見つめた。これだけ気が揺らいでいるというのに、まだ戦うつもりなのか。こんな状況でも、五腹心は動かないのか?

 そうしている間も、青い霧がさらに薄まっていく。アースの気が近づいてくるのを感知しながら、梅花はまだ刃を消せないでいた。

 ミスカーテが本調子でないとしても、油断すれば死ぬのはこちらだ。青い霧が完全に消えたら結界を解けるのだが、そうでなければ二つの技を使用し続けることになる。その精度で、ミスカーテにどれだけの傷を負わせることができるだろう。

「何があった!?」

 駆けつけてきたアースの怒声が空気を震わせた。ミスカーテをアースに任せた方がよいのか、それともレーナを任せた方がよいのか。迷いつつも梅花は肩越しに振り返る。

「結界を。この霧が危険みたい」

 とりあえず最低限の忠告を口にすれば、すぐにアースは結界を生み出した。彼がこちらの話を聞き入れるくらいには冷静であることに、梅花は安堵する。

 それはどうやらレーナも同感だったらしい。かすかに笑みを浮かべた彼女は、どうにか立ち上がろうとした。

「状況は!?」

 アースはそのまま、ふらつくレーナへと寄った。彼女の様子を見るだけで、今までにない事態が生じていることは彼も察しただろう。

 ここで何をどう口にすべきか、梅花は判断に窮する。今の彼女には不確定なことしか言えない。

「さて、死んでもらおうか」

 梅花が口を開くより早く、ミスカーテの気が膨らんだ。弾かれたように振り返った梅花は、もうどうしようもないと覚悟を決める。

 やはりここはミスカーテにとどめを刺すしかない。できるかできないかではなく、やらなければ。――五腹心が動く前に。

「オリジナルは、だめ、だからな」

 が、かすれかけた声でレーナがそう囁いた。声量はないが、断固たる意志を感じさせる口調だった。振り返りたくなる衝動を堪えて、梅花は唇を引き結ぶ。ここまできてもレーナは止めようとするのか。

「わかった」

 黙する梅花の代わりに、答えたのはアースだった。その意味を尋ねる前に、ぐいと肩を掴まれる感触がする。

「アース?」

 そのまま無理やり後ろへ突き飛ばされるように追いやられ、梅花は瞠目した。はっとして右手へと一瞥をくれれば、レーナを押しつけられた青葉が目を丸くしている。

「レーナを見ていろ。ちゃんと見てろよ、いいな?」

 そう言い残したアースは、長剣を引き抜いて跳躍した。今の一言は誰に向けたものだったのか。だがそんなことは些末な問題だ。重要なのは、彼が選んだという事実。――レーナの思いを優先することを。

「来たね、最初の申し子」

 にたりと笑ったミスカーテへ、アースの刃が迫る。いくらレーナが作った剣とはいえ、高位の魔族が生み出した破壊系の刃に敵うものなのか?

 そんな梅花の危惧は、しかしすぐに意味のないものとなった。鋭い銀の一閃が、黒い刃ごとミスカーテの衣を裂く。ミスカーテの気に喫驚の色が滲んだ。やはりそれは異例なことらしい。

 それと同時に、動きのなかった五腹心レシガの気がぶわりと広がった。――否、隠されていたものが露わとなっただけだろう。先日の戦いで、イーストから感じたものと似ている。

 まずい事態だ。五腹心とミスカーテを相手取るのは、さすがにアースにも無理だろう。もちろん梅花たちにも。

「青葉はレーナをお願い」

 それでもやらなければならない。判断が遅れては取り返しのつかないことになる。梅花は精神を集中させ、屋根の上に立つかの魔族をねめつけた。転移で現れたらいつでも技を放てるようにと、最良の機会をうかがう。もう迷ってはいられない。

「おい、梅花が無茶をしたら意味がっ」

 そう青葉が声を上げた時だった。動き出そうとしたレシガの前に、忽然と気が現れた。海のように深く、青いこの気に、覚えはあった。

「シリウスさん!?」

 茶色い屋根の上に降り立ったのは青い髪の男性。――シリウスだ。地球での異変を察知したのか? それとも五腹心の動きを感知して追ってきたのか? 

 宇宙は大丈夫なのか気に掛かるところだが、今は正直助かった。これで五腹心レシガもそう簡単には動けまい。少なくとも、即座には無理だ。

 息を吐いた梅花は、ミスカーテの方へと視線を向けた。彼らの意識も一瞬、五腹心たちの方へと向けられていたようだった。当然だろう。だがシリウスが現れたことで、再び彼らは乱入者を気にする必要がなくなった。

「レシガ様!」

 ミスカーテの切羽詰まった声が、緊迫した空気を震わせる。その声音にあるのが懸念の色であったことは、梅花にとっては意外だった。彼も誰かを案じるということがあるらしい。それだけ五腹心という存在が重大なのか。

 しかしミスカーテの前にはアースがいる。ほとんど青い霧が目立たなくなった中、右手へ飛んだミスカーテへとアースがさらに剣を振るった。

 接近戦ならアースの方が長けている。ミスカーテが本調子でないことも影響しているだろう。

 アースの迷いなき剣が、再びミスカーテの黒衣を切り裂く。ついで横凪ぎに繰り出されたものは、かろうじて生み出された結界に弾かれた。耳慣れない不協和音が、梅花の鼓膜をつんざかんとする。

 と、ミスカーテの黒い刃がひときわ大きくなった。揺らいでいた気が、不安定なまま一気に膨張する。――何か仕掛けてくる。しかし、アースは怯まなかった。大ぶりな一太刀が振り下ろされる前に、息つく暇を与えずに踏み込む。

 いや、そう見せかけて放ったのは、炎だった。うねるように進んだ赤い筋が、ミスカーテの足に巻き付く。

 ミスカーテが瞠目するのが、梅花にも見えた。それが何故なのかはわからなかったが、その一瞬はアースにとっては十分な好機だった。ミスカーテが動きを止めたのは、ほんのわずかな間。その隙を突くように、アースは懐へと飛び込む。

 悲鳴は漏れなかった。音もしなかった。ただ薄青の霧の中で、銀の光が黒い胴を突き刺すのが見えた。これだけの至近距離では、結界では刃を弾けない。

 アースはそのまま剣を引き抜くと、とどめとばかりに斜めに斬り上げた。噴き出た血が二人の黒い衣を染める。それでも、ミスカーテは笑っていた。

「彼の……申し子に殺されるなら、それも仕方ないか」

 満足そうに口角を上げたミスカーテは、そのまま後ろへと一歩下がった。唇から溢れる血の鮮やかさが、妙に現実離れして梅花の目に映る。

 よろめいたミスカーテの気が、さらに歪に膨れた。ふわりと空気を含んだ豊かな髪が、風に煽られて弾む。

「ねえ――」

 赤く濡れた唇が、最後に何かを紡ぎ出す。しかし、その声は梅花には届かなかった。

 かすかに手を伸ばしたミスカーテは、そのまま白い光の粒となって空気へと溶けた。

 信じがたい光景を見ているようで、梅花は何度も瞬きを繰り返す。それでもミスカーテの姿はもうどこにもなかった。彼の気も、どこにもなかった。

「ミスカーテが、死んだ?」

 呆然とした青葉の声が鼓膜を揺らした。そこには全く実感がこもっていなかった。梅花はこくりと首を縦に振る。

 あれだけ強烈で、絶対に勝てないと思い知らされた相手だ。その魔族がまさかここで消えるとは、本気で思っていなかったのだと自覚させられる。

 夢でも見ているような心地で、梅花はついで屋根の方へと双眸を向けた。すると案の定、五腹心レシガの姿もいつの間にか見当たらなくなっていた。

 気を隠しただけではないのは、頭を掻くシリウスの後ろ姿を見ていてもわかる。おそらくここにいる意味がなくなったのだろう。本当に何のためにやってきたのかわからないが。

「レーナっ」

 現実感が戻ってきたのは、アースの声が響いたからだった。剣を手にしたまま駆け戻ってきたアースは、ずいぶんと返り血を浴びている。

 その点を指摘すべきかどうか躊躇している間に、彼は半ば無理やり青葉の腕からレーナを引きはがした。

 勝手に押しつけられ強引に奪われた形となった青葉は顔をしかめたが、状況が状況なのでそれ以上の文句は口にしない。されるがままのレーナは、最早意識を保っているのかどうかも怪しかった。

 ミスカーテが消えたせいか、それとも単に効力が失われる時間だったのか、青い霧がすっかり消え去っていることに、梅花は気がついた。

 もう結界を張る必要はない。そう思って解くと同時に、どっと体が重く感じられる。これは疲労か、それとも緊張の糸が切れたのか。

 ふらつく頭を押さえていると、背後に突然気配が生じた。梅花はすぐに振り返る。予想通り、そこに現れたのはシリウスだった。困惑を表情にも気にもありありと乗せた彼は、問いかけるようこちらを見る。

「シリウスさん」

「一体何がどうなっている?」

「それは……」

 当惑した梅花はシリウスとレーナを交互に見た。先ほどミスカーテから耳にしたことを、うまく説明できる自信はなかった。

 いつの間にかアースに抱き上げられていたレーナは、青い顔で懸命に深い呼吸を繰り返している。まるでそうしなければ何かが壊れてしまうような、そんな印象を受ける。

「ミスカーテが、何かしたみたいなんですけど……」

「核の情報を、流し込んできた。まったく、この期に及んで、とんでもない、ことを」

 梅花が首を捻ると、今にも消え入りそうなレーナの声がした。意識はあったらしい。梅花が慌てて近づけども、レーナは緩く目を瞑ったまま。血の気のない唇がかすかに震えるばかりだった。今のは無理やり絞り出したようなものだったのか。

「それってどういうこと!? だ、大丈夫なの?」

「大丈夫なわけがあるか」

 取り乱しそうになる梅花の頭上から、シリウスの硬い声が降り落ちてきた。その残酷な響きに、縋るような思いで梅花は振り向く。

 見上げたシリウスの面持ちは、希望的観測を織り交ぜて見ても深刻だった。冷静な視点からだと、悲壮とも受け取れるかもしれない。そのような表情など、もちろん梅花は今まで見たことがなかった。

「あの変態魔族は自殺でもするつもりだったのか? いや、心中か?」

「シリウス、気持ち悪い、ことを、言わないでくれ。死ぬつもりは、ない」

 吐き捨てるシリウスへと、レーナはゆっくり頭を振る。少しだけ強がりの滲んだ、しかし彼女らしい意志のこもった一言だった。たったそれだけの否定で、梅花の胸の奥にすとんと何かが落ちる。

 レーナはまだ死ぬつもりはない。

 それだけのことで、波立った胸中が凪いでいった。レーナがそのつもりであるなら、梅花にもまだできることがある。きっとある。

「大丈夫、ちゃんと、戻るから。だから――」

「わかった。わかっているからもういい。それまで神技隊のことは心配するな。私が守る」

 震えるレーナの声に被せて、シリウスはそう宣言した。ふっとレーナの気が緩んだような気がするのは錯覚だろうか? こんな時でも、彼女はやはり梅花たちのことだけを考えているようだ。

 その事実をどう受け取ってよいのかわからず、梅花はそっとアースの表情を盗み見た。険しい顔をした彼は、何かを堪えるようにただ一つ、深いため息を吐いた。

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