第12話「それでも感謝する」
「やっと、いなくなった!」
ミスカーテたちの姿が掻き消え、空にいた魔族たちの気が全て消え失せたのを確認し、リンは両手を振り上げた。張り詰めていた糸が切れたような心地になる。全身にずしりとのしかかっていた重圧が、一挙になくなった。
そのまま大きく伸びをすると、視界の端にふらついたレーナの姿が入った。はっとしたリンは振り返る。だが見間違いではなく、目を瞑ったレーナは額を押さえていた。
そうだ、彼女は負傷していた。そんな事実さえ忘れかけていたことに気づかされ、リンは慌てた。
「レーナ!?」
急いで駆け寄っていったというのに、レーナが顔を上げる素振りはない。これは重症だ。
あの時リンはまだ遠くにいたが、その距離でも、大柄な魔族がレーナを背後から切りつけていたのが確認できた。その後も普段通りに動いていたから、てっきり何か特殊な技で防いだのかと思っていたのだが。そうではなかったのか。
「怪我ひどいの!?」
「いや、大したことではない」
「そんな風には見えないけどっ」
リンはそっとレーナの肩を掴んだ。そこへまた強い風が吹き込み、二人の髪を揺らす。目を瞑ってじっと何かに耐えるようなレーナの横顔は、どう考えても無事とは言いがたい。
リンはおろおろしながらレーナの背中を盗み見た。予想外にも、白い上着は無傷だった。では、やはり背中は平気なのか?
それならばレーナの不調の原因は何なのか。狼狽えながらも振り返ると、座り込んだ北斗にシンが手を差し出している姿が映る。北斗の横では、膝を抱えたサツバがうなだれたように俯いていた。
リンは眉根を寄せつつ、さらにその向こうへと視線を転じる。木々が生い茂るその先に、ぱらぱらと仲間たちの姿が見え隠れしていた。その中には待ちわびたジュリもいる。リンはほっと肩の力を抜いた。
「よかった、ジュリも来たわ」
「いや、これは怪我ではないからな。どうにもならん」
リンが手を離すと同時に、レーナは静かに吐き出した。そしてゆっくりと頭をもたげる。その慎重な動きが彼女の状態を象徴しているようだった。
辛そうに眉根を寄せながらこちらを見る眼差しは、いつもより力ない。その見慣れない様にリンは絶句した。これはただ事ではない。
「怪我じゃあないって……」
「ああ、そうだ。先にこれを渡しておく。ミスカーテが毒をばらまいていたから、かすかでも辺りに残っている可能性がある」
当惑しているリンへと、レーナは何かを押しつけてきた。自分のことはどうでもいいと言わんげだ。無理やり手のひらに握らされたのは、小さな革袋だった。いつの間に取り出したのか。それにしても見覚えがある物だと、リンは眉をひそめる。
「これってもしかして解毒剤?」
「そうだ。気が不安定になる者がいたら使ってくれ。毒といっても散ったせいで濃度は薄いから、おそらく大きな影響はないと思うが」
レーナはゆっくりとした口調で説明した。またミスカーテは毒を使っていたのか。顔を曇らせたリンは、辺りへ視線を巡らせる。
立ち上がった北斗が何か言いたげにこちらを見たが、リンが口を開きかけるときまり悪そうに顔を背けた。毒の件で何かあったのか? リンはおずおずとレーナに双眸を向ける。
「もしかして、レーナも浴びたの?」
「いや、浴びたという程の量ではない。ただ、その状況で大技を使ったのがまずかったな。たぶん負荷がかかってしまった」
わずかに頭を傾けたレーナは、苦笑をこぼした。これでようやくリンにも状況が掴めた。不調は精神の問題だったらしい。ミスカーテの毒はどうにもしつこい。しかも技の発現に影響が出るはずだ。それなのにきっとレーナは無茶をしたのだろう。
「リンさん!」
そこへようやくジュリが駆けつけてくる。ざくざくと固い雪を踏みしめる音が、林の中で反響した。しかしさすがのジュリでもこの問題は解決できないだろう。リンは困ったように微笑みながら、ジュリへと顔を向ける。
「無事だったんですね。よかった。あ、もしかしてレーナさん怪我ですか!?」
「それが……」
「背中やられてますね!?」
けれどもジュリは即座に別の点を指摘した。思わずリンは目を丸くする。ジュリはあの場にはいなかったのだから、刺されたことは確認しようがないはずだが。現にレーナの背中には特段の傷は見られない。
「いや、やられたというか……」
「服は何故か無事みたいですけど、背中火傷してません!? すぐに手当てしないと、後で熱出しますよっ」
何故か怒り口調で捲し立てたジュリは、そのままレーナに詰め寄っていった。その勢いに気圧されてリンは一歩後退する。こういう時のジュリには逆らわない方がよい。
何か言いづらそうに視線を逸らしたレーナの手を、ジュリは有無を言わさぬ調子で引いた。ぐらりと傾いだレーナはどうにか倒れるのだけは堪えたが、かなり動きは不安定だった。
これはこのままジュリに任せた方がよさそうだ。「お願いね」と声をかけたリンは、さらに近づいてくる気を感知する。
「アース……」
やってきたのは空からだ。ちょうどリンとシンや北斗たちの間、木々が途切れた雪面に、アースは降り立った。レーナの無事を確かめに来たのだろう。
どう声をかけるべきかはかりかねて、リンは頬を掻いた。まだアースとは気軽に話せる間柄でもない。
ジュリがレーナの背中を見ているということは、怪我をしている証拠のようなものだ。つまり、無事とは言いがたい状況だ。それをどう説明したらよいものかと考えていると、近づいてきたアースは何やら難しそうな顔をしながら口を開いた。
「レーナを助けてくれたこと、感謝する」
「……え?」
「お前がいなければ、あいつはもっと無茶をした」
リンは気の抜けた声を漏らした。思わぬことを言われて、咄嗟に返答が浮かばなかった。レーナを助けた? 何を言っているのだろう。助けられたのはこちらなのに。
「い、命拾いをしたのはこっちよ。私たちはレーナがいなかったら――」
「それでも感謝する」
慌てて首を振ったリンの言葉を遮り、アースはそう言い放った。ますますリンは閉口した。まさかアースに感謝されるとは思わなかった。
レーナが決定的な一撃を放ってくれなければ、ミスカーテを傷つけることはできなかった。つまりイーストに撤退を決断させることができなかった。これは動かしがたい事実だ。
どんなにリンたちが強くなったとはいっても、まだまだ直属級と呼ばれるような魔族を負傷させる力はない。レーナに頼り切りである状況に変わりはない。
それでもアースにしてみたら、リンの援護はわざわざ礼を口にするほどにありがたいものだったらしい。その気持ちは、なんとはなしに理解できた。
少し、ほんの少しでも力になれたら。そんな思いからの加勢だった。ミリカの町では、全く歯が立たなかった。しかし今回は違った。その差はアースにも伝わったということだろう。
「それに、あいつも」
「ああ、ジュリね」
ついでアースはちらと横を見遣った。ぐったり幹にもたれかかるようにしたレーナの背を、ジュリの手からこぼれる暖かい光が照らしていた。
本当は直接傷口を見た方が効果的であるはずだが、さすがにこの雪山で服を脱げというのは憚られるからだろう。
もっとも、あの薄い上着でこの寒さの中を動き回っているのだから、自分たちと同じ感覚で考えてはいけないのかもしれない。大体、アースなど半袖だ。いくら長い手袋をはめているとはいえ、見ているだけでも寒々しい。
「我々の中に、治癒の技が得意な者はいないからな」
と、わずかに視線を下げたアースは苦々しくそう吐き出した。そこに込められたやるせなさを感じ取り、リンもつい顔を歪める。
彼らは今までどれだけもどかしい思いをしてきたのだろう。レーナがどんなに負傷したところで、彼らには何もできなかったのだ。
「ジュリに任せておけば大丈夫よ。ああ、それでも精神の方の問題はどうしようもないけどね。それは、あなたの方が適任じゃない?」
だが彼らも完全に無力なわけではない。精神の回復に必要なのはまず安心できる環境だ。それは今のリンたちには提供できないものだった。どんなに大丈夫だと言葉を重ねても、きっとレーナは遠慮する。
「精神?」
「ミスカーテの毒を浴びた後に大技を使ったって。大分辛そうだったから、傍にいてあげたら? 信頼できる仲間が近くにいた方がいいでしょ」
そう言って笑顔で勧めてみれば、アースは何とも言いがたい複雑そうな面持ちで嘆息した。一体何が引っ掛かったのだろう? しかし文句も反論も口には出さず、彼は静かに歩き出した。傍に行くことには異論はないらしい。
風に揺れる髪を手で押さえながら、リンは肩の力を抜いた。ジュリがやってきた方角から、よつきの気が近づいてくるのにも気がつく。
顔を上げると、その向こうには他の仲間たちの姿もあった。走ってこられるくらいには皆無事らしい。怪我人がいたとしても、きっと既にジュリが手当してくれているのだろう。
これで後は基地に戻るだけと言いたいところだが、その前に一つ仕事が残っていた。おもむろに左手へと視線を転じれば、ちょうどシンがサツバの手を引いて立ち上がらせるところだった。
リンは上着の襟をぎゅっと手で握り、そして歩き出す。サツバが浮かない顔をしているのは近くで見なくとも明らかなことだった。気が全てを雄弁に語っている。その理由も、リンはおおよそ察していた。
「サツバ、怪我でもしたのか?」
「いや、それは別に……」
助け起こしたシンは、サツバの様子に困惑顔だった。あの時の気を感知していなかったから不思議に思っているのだろう。サツバの横に立っている北斗が何も言わないのは、同じ気持ちだからに違いない。
あえて強く雪を踏みしめつつリンが近づけば、シンがちらとこちらを見遣った。
「リン」
「ほら、よつきたちも来たことだし、まずは基地に向かいましょう。話はそれからよ。ここじゃあ寒すぎるわ」
辺りを見回しつつ微笑んだリンに、シンは曖昧に頷いた。暗に話があると伝えたことを疑問に思っているのだろう。だがそれをここで説明するのは駄目だ。声が届く距離でないとはいえ、向こうにレーナたちがいる。
「基地に戻ったら、すぐに温かいものでも飲まないとね」
できる限り軽い調子で告げた声は、冷たい風に乗って掻き消された。日が暮れる匂いが鼻先をかすめた気がして、リンはそっと瞳をすがめた。
灰色の塔から外を眺めている時間は、いつもひどく長く感じられる。それでも珍しくも高揚とした気分になれたおかげか、今日ばかりはあまり気にならなかった。
久しぶりの逢瀬はやはり楽しい。変化が明らかに見えるものというのは、滞留の中にいる彼らにとってはまたとない刺激だ。
イーストは静かに髪を耳へとかけた。自身の感情はそれとして、さほど楽観視はできない状況となったことを思い返すと、おのずと眉根が寄った。これだから部下の扱いというものは難しい。きっと何度でもそう感じるだろう。
小さく息を吐いたところで、背後に空間の歪みが生じた。イーストはつと振り返る。
「おかえり、レシガ」
薄闇に包まれた虚空から、見慣れた姿が現れる。深い赤の髪を揺らして一歩踏み出してきたレシガが、きつとこちらを見据えてきた。怒っていると即座にわかる表情だ。つまり、隠すつもりはないらしい。
「ずいぶんと暢気な顔をしているのね、イースト。こちらはおかげで散々だったわ」
眉をひそめた彼女へと、彼は相槌を打つ。文句を言いたい気分のようだが、本当に憤慨している時の気ではない。要するに半分は八つ当たりだ。
「やはり私は目立ちすぎるわ。来るなって言っても、誰かさんたちの配下が集まってくる。鬱陶しいったら仕方ない」
「それは君の復活を待ちわびていたからだろう? それに君は、もう直属がいないから」
まず口に出したのが部下たちの話だったので、彼女が一体何に困ったのかは容易に想像できた。
直属の配下を全て殺されている彼女の、その座を求めて群がる者たちは多い。彼らは気に入られようと必死に彼女のご機嫌を取るか、その意向を予想して華々しく動くか。どちらにせよ、何故か彼女が嫌っている態度を選ぶ。
「直属はもういらないって何度言っても理解できないようね。面白みのない、うざったいだけの部下なんて側においても意味がないのに」
言葉の端々には棘がある。彼女は直属の部下を失ってから、ことあるごとにこの問題に悩まされてきた。
準直属と呼ばれている魔族はまだ数名残っているが、その他の者たちは誰も特別扱いしないことを既に宣言済みだ。それなのに、諦めきれない者たちが大勢いた。それだけ彼女の側は魅惑的ということだ。
「また部下たちが悪さでもしたのかい?」
「いつものことよ。勝手に戦果を得ようとするものだから、撤退するのが大変だったわ。変な神は出てくるし」
うんざりとため息を吐いた彼女に、イーストは苦笑を向ける。その苦労は推して知るべしだ。確かに彼女には陽動側に回ってもらっていたが、だからといってどこまでも目立てばよいという話でもない。
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