第5話

「一体何が起きてるの?」

 呻くラウジングの肩をさすりながら、レンカは独りごちた。先ほどから続けざまに『空』から降りてきた気。その正体には全く心当たりがなかった。

 治癒そのものは終了し、後はラウジングの回復を待つばかり。本当なら誰かにこの場を任せてレンカも飛び出したいところだった。しかし任せるような者は見当たらず、かといってこの場に彼を一人置き去りにするわけにもいかない。

 結果、ひたすら周囲の気を探る状況が続いていた。

 魔獣弾と戦っているのは滝だ。その傍にカイキとイレイがいるのも把握している。一時、カイキとイレイの気に危うい揺れが感じられたが、滝が積極的に動き出すことで安定してきた。おそらく精神消費量が減ったためだろう。

「滝が無理しなきゃいいんだけど」

 レンカは静かに息を吐く。責任感で動いてしまうし動けてしまうのが、滝のよいところでも悪いところでもある。しかし彼の精神量、体力も無尽蔵ではない。いくら上からの武器があるとはいえ、それを頼みの綱とするのも危険だ。

 だが、かといって彼が何かしなければあの局面を打開できそうにないことはわかっている。リンがその場を離れたことで、それは決定的となった。

 そのリンはというと、これまた困難な状況のまっただ中にいるようだった。断定できないのは、気のみでは状況がさっぱり読めないからだ。

 強烈な気がリンのすぐ傍に降り立ったところまでは把握できたが、以降の流れが不明瞭だった。あまりに圧倒的な存在が続けざまに現れたため、布越しに何かを探るような不確かさがある。

「みんな、無事でいて」

 レンカはそっと目を伏せた。不自然な痙攣が止んだラウジングの指先は、今は土を引っ掻こうとしたところで静止している。誰もが満身創痍だ。

 だからこそレンカは一刻も早く動きたかった。彼女はまだ負傷していない。持久力があるわけではないが、精神容量はある方だと自負していた。だからまだ精神系の技も使える。

「動いて、しまおうかしら」

 もう一度ラウジングの顔を見下ろし、レンカは口をつぐんだ。青い顔で固く目を瞑ったまま、腕を投げ出しているラウジング。美しい緑の髪も衣服も、今は土にまみれて無残な姿になっていた。

 どうにかしてあげたいという気持ちはあるが、得体の知れない技による負傷を癒すことは不可能だ。傷を塞ぎ精神を安定させるまでが彼女にできる全てだった。

 後で上の者に何を言われるかわかったものではないが、しかしそれは今を乗り越えなければやってこない未来の話である。

 誰かが死んだら。皆がいなくなったら。町がなくなったら。当たり前にあるものが失われる恐怖を、皆は知っている。だから誰も彼もが必死になっている。

 しかしレンカはそれを知らなかった。彼女は生まれながらにそういったものを失っていたから、何かが当たり前にあるという経験を持っていない。あるとすれば、それはあのリシヤの森だけか。

「そうね」

 あの森が失われる光景を思い描くと、胃の底が冷えた。生まれ育ったあの場所が、滝と出会ったあの場所が、消えてなくなる日を想像するだけで心が凍る。これ以上奪われたくはない。それは、きっと仲間たちも同じなのだろう。

「わかったわ」

 決意した彼女が立ち上がった、その時だった。巻き上がる砂塵の向こう、右手から近づいてくる小さな気配を感じ取った。はっとしたレンカはすぐさま振り返り、土煙へと目を凝らす。

「たく! コスミ!」

 走り寄って来たのはピークスのたくとコスミだ。近くに来るまで気を隠していたのだろうか? 走り方はぎこちないし、土まみれなところを見ると元気とは言い難いが、それでも覇気を失った顔をしていなかった。血の臭いもしない。

「レンカ先輩!」

 二人の声が綺麗に重なった。頷いたレンカのもとに、二人は駆け寄ってきた。ぜいぜいと荒い息を吐く二人の肩をさするようにして、レンカはおもむろに問いかける。

「何かあったの?」

「ち、違うんです」

「隊長から、ラウジングさんを運んでくるようにって言われまして」

「それで来ましたっ」

 息を整えつつ口々に説明する二人を、レンカはまじまじと見つめた。まさかこのタイミングで来てくれるとは想像しなかった。まるで自分の思いが届いたかのようだ。

「……そうだったのね」

 ピークスにも余裕はなかったはずだが、魔神弾の動きが変化したからだろうか。縦横無尽にミリカの町を荒らしていた魔神弾の鞭が、先刻から止まっていた。魔神弾の傍にいる梅花たちが何かしたのかもしれない。

「じゃあラウジングさんは任せるわ」

 二人は大丈夫なのか。体力や精神は残っているのか。確認したいことはある。仲間たちの安否についても問いかけたい。

 けれども今はもっと優先しなければならないことがあった。――仲間は誰一人欠けて欲しくない。ここに駆けつけてきてくれたこの二人の思いも、きっと同じに違いない。

「私は戦場に戻るから」

 まずは滝のところだ。あの強烈な気の持ち主たちを追い返すよりも、魔獣弾に退却してもらう方が現実的だった。精神系の技は効果があるから、勝機は必ずあるはずだ。いくら魔獣弾でも体力は無限ではないと思いたい。

「はいっ」

「頑張ってください!」

 朗らかに響く二人の声援に、レンカは首を縦に振った。祈るように見上げた先の空は、やはり灰色だった。




「ずいぶんと嫌われてしまったな」

 地へ降りたアスファルトの自嘲気味な苦笑が、耳に痛かった。傷が塞がりきらず血が滲む脇腹を押さえながら、レーナは瞳をすがめる。

 隙を見て少しでも治癒の技を使わなければ、後で取り返しのつかない事態を引き起こすだろう。だから時間稼ぎだとすぐにばれるのだとしても、言葉を交わす試みは意地でも続ける。

 目の前にいるアースがちらとこちらへ視線を寄越したのに気づくが、黙るつもりはなかった。

「嫌われるのは慣れてるんじゃないのか?」

 揶揄にも似た物言いは、いつだったかアスファルト自身が口にしていたものだ。それに気づいたのだろう。彼は右の口角だけを上げた歪な笑みを浮かべ、左の肩をすくめた。

 その脳裏をよぎった人物は、おそらく彼女が予想したのと違わないだろう。

「言うようになったな」

 緑の双眸に宿っているのは、何故か納得の色だった。驚いてはいない。その反応から、もう十分に「彼女の噂」を耳にしていたことを確信する。

 こうして顔を合わせるまでは半信半疑だったのだろう。自分の言動が彼の知る頃と大きく異なっている自覚は、レーナの中にもあった。

 アスファルトの挙動に注意を払いながら、彼女は周囲の気の把握にも努める。彼の繰り出す光弾を避けるうちにミスカーテたちと離れつつあるのが一番の気がかりだ。あの場に技使いを置き去りにする意味は重い。

 ――もっとも、そこに一つの気が近づきつつあることはわかっていたが。

「本当に戻ってくるつもりはないのか?」

 静かにアスファルトが右手を上げると、その動きに合わせて白衣が揺れた。アースが低く構えて警戒を露わにする。レーナは思わず小さなため息を吐いた。

 アースはこの状況も「戻ってくる」の意味もよくわかっていないはずだ。アスファルトの名や何者なのかは以前に伝えてあったが、彼女たちが研究所を離れることになった経緯については話していない。

 そこにある複雑な事情を理解してもらうには、彼らの知識はあまりに乏しかった。

「今のわれが戻る意味、わかってるのか?」

 ただ突っぱねても無意味だろうと、レーナは問いかけの方向を変える。脇腹の傷は少しはましになったようだが、左腕の痺れはまだまだ残っている。わずかに体勢を変えるだけで、左肩の重みが増したような気がした。

 もうしばらくはまともに動きそうにない。この問答でどれだけ時間を稼いでも、それだけでは回復しないだろう。ミスカーテの使う雷系の技は精神系に近いから、当然の結果だった。

「それはお前が重ねてきた所業についての話か? それなら聞いている。相当噂になってるぞ。それとも、ラグナの件か?」

 と、アスファルトは声を漏らして笑った。やはりこれまでの多種多様な『名声』は彼の耳にも届いているらしい。その度に彼が顔をしかめる様が容易に想像できた。もっとも魔族の間に広がる噂ならば彼もかなりのものなのだが。

「……両者かな」

 答えは曖昧になった。レーナが積み重ねてきたものは、もはやどれとどれのように切り分けることができるものではない。ラグナの件は、その始まりになっただけだ。

「それならどちらも今さらだろう。大体、プレインが不在だ」

 右手を掲げたまま、アスファルトは軽く肩をすくめた。左右不均等な力の入り方、皮肉そうに首を捻る仕草は相変わらずで、心がぐらりと過去に引き戻されそうになる。

 だが研究所にはもう帰れない。それでは何のためにここまで来たのかわからなくなるし、神技隊を守れなくなる。それに彼のためにもならない。ここはどうにかして撤退してもらわなければ。

 レーナは右手を脇腹から離した。血で汚れた手のひらから、柔らかな光が掻き消える。

「そうだな、プレインは今はいない。しかし、ここにはオリジナルたちがいる」

「そうか、仕方ないな。力ずくか」

 アスファルトのため息が耳に痛かった。諦めてくれたらいいのにと思う一方で、彼が今になって動いた理由も予測がついている。

『その時』が訪れたことを知ったからだ。こちらがどれだけ好き勝手していても無視を決め込んでいた彼でさえ、『その時』となれば話は変わる。

「アスファルトこそ早く帰ってくれ。ここは神の巣だぞ?」

 それでも最後まで抗うのがレーナだ。精神を張り詰め、周囲の気を丹念に探りつつも、一縷の望みを託して言葉を紡ぐ。緩やかな風に乗って運ばれてくる砂塵が、辺りで渦を巻いた。

「私の心配をしてくれるのか?」

 すると何か面白がるようにアスファルトは口の端を上げた。嘲笑にも見えるのにその声音には安堵も滲み出ていて、レーナは何と返すべきか逡巡する。

 前にいるアースの気に苦い色が混じっているのもわかった。アースが全てを覚えていたらと、詮のないことが脳裏をよぎる。自分はどれだけ甘いのか。

「そうだな」

 レーナは静かに奥歯を噛んだ。いつかこんな日が来ることを理解していたつもりだったが、いざ現実となると息苦しさを覚えるのだから、まだ覚悟が足りなかったらしい。

 だがこのままというわけにはいかない。一刻でも早くアスファルトを追い返し、ミスカーテの方をどうにかしなければ。神技隊に何かあってからでは遅い。

「神だって馬鹿ではない。直属級二人が進入してくるような事態を静観しているわけがないだろう?」

 だから速やかに帰れと暗に告げながら、レーナは手のひらから白い刃を生み出した。ある程度傷は癒えたのでもう十分だ。これ以上の長話はただいたずらに時を過ごすだけ。

 お互い説得に応じるような性格ではないことは、よくわかっていた。

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