第6話
「いくら私でも、ここでそんなことは言わないわよ」
さすがにそれは止められると学習したのか。だがようやく通じたと喜んでいいのかどうか、青葉には判断できなかった。ここまで来るのが長かった。彼が継ぐべき言葉を選んでいると、梅花はおずおず口を開く。
「一緒に、来てくれるんでしょう?」
端的な確認の問いかけに、青葉は一瞬息を止めた。「もちろん」と即答すべきなのか「そういうのは相談してからにしろ」と怒るべきなのか、ますますわからなくなった。
彼は乱雑に髪を掻きむしってから肩の力を抜く。このタイミングでこんなことを言ってくるなんてずるい。それでも背後で漏らされたアサキの笑い声が後押しとなった。
「当たり前だろ」
状況を考えればどうしようもない。それ以上の良案が、青葉には思い浮かばない。ならば返答は一つだ。梅花の小さな頭にぽんと手を乗せ、彼は微苦笑を浮かべる。
すると気恥ずかしいのか困惑しているのか不安なのか、梅花はつと視線を逸らした。そこはかとなくばつが悪そうなのは「巻き込んだ」とでも思っているのか。
「すぐにシンにいたちを迎えに行こう。ってことで滝にい、ラウジングさん、オレたち行きます。ここはよろしく頼みます」
手を離した青葉は軽く頭を下げた。その際ほんのわずかな間だけ、滝と目が合った。彼の双眸には「任せる」と書いてあった。
顔を上げた青葉は相槌を打ち、アサキたちの方へ振り返る。ラウジングはいまだ複雑そうな気を放っていたが、無言のままだったので素知らぬ振りをした。
「行くか」
「行きましょーう!」
場違いに元気なアサキの返事に、青葉は笑みをこぼした。それにつられてか、遠くから「いってらっしゃーい」というラフトたちの明朗な声が響く。どことなく気の抜けた掛け合いが、重くなりがちだった空気を揺らした。
歩き始めた青葉は少し歩調を落とし、梅花に先頭を譲る。彼ではどこへどう進めばいいのか全くわからないので仕方がない。本当なら横に並びたいところだが、道にもなっていない下生えを掻き分けなければならないのでそうもいかなかった。
「――ありがとう」
振り向くことなく、梅花は一言そう告げた。それを素直に受け取るのは何か間違っている気がして、青葉は考え込む。今ここで必要な言葉は何なのだろう。
「いや、仕方ないだろ。他にいい案があるわけでもないし。……シンにいたちが危ないかもしれないんだろう?」
梅花とて我が儘を言いたいわけではないはず。だがそう動かざるを得ない理由があるに違いない。引っかかっているのはそこだった。
どうして突然そこまで気にかけ始めたのか。何故ラウジングは言い淀んだのか。まだまだ青葉の知らない上の秘密がありそうだ。
「そもそも、そのラウジングさんたち以外の上ってどういうことだよ」
青葉が率直に尋ねると、梅花は少しだけ後方を気にして――おそらくラウジングとの距離だろう――から、長い髪を耳にかけた。
「どうも、上がごたついてるみたいなの。たぶん、もう一つの陣営が動き出してるんだわ」
「もう一つの陣営?」
「ラウジングさんたちじゃあない方。滅多に『下』に来ることはないんだけど、どうも今回のは相当危機感を持ってるみたいね。動き出してるらしいってミケルダさんも言ってたし。そっちの陣営は、こう言っちゃうと怒られるかもしれないけど、私たちのことあまり気に掛けてくれないのよ」
上にも勢力図みたいなものがあるようだ。今までは漠然と、誰か一人の意志で全てが決定されているように思っていたが、そう簡単なものでもないのか。
と、納得しかけたところで聞き覚えのない名が登場したことに気づき、青葉は首を捻った。話の流れからすると上の者のようだが。
「ミケルダって誰だ?」
怪訝に思って尋ねると、「あっ」と梅花は声を漏らす。青葉が知らないのを失念していたと言わんばかりの声音だった。彼女としては珍しい。宮殿ではそれだけ身近な存在なのか。
動揺したらしく彼女は思い切り小枝を踏みつけたようで、ぱきりと乾いた音がする。
「上の中で、頻繁に下にも来てる人よ。カルマラさんたちの知り合い」
実に淡泊な説明に、青葉は気のない声を返した。なるほど、やはり宮殿内ではよく見かける上の者ということか。
「じゃあそのミケルダって人もラウジングさん側なんだな」
「そうね。上の派閥が実際にどうなってるのかは私も知らないんだけど、仲は良さそうだからそうだと思うわ」
上の者が仲良くしていると聞くと、どうも違和感があった。先ほどのラウジングの態度が頭に残っているせいかもしれない。
青葉が小さく唸っていると、ようが後ろで「面白いねー」と言って笑う声が響いた。脳天気なのは相変わらずだ。思わず気が抜けて肩をすくめると、「どこが面白いんだよ」とサイゾウが悪態を吐く。予想外の事態続きでサイゾウも苛立っているらしい。
「ところで梅花はどこに向かってるんでぇーすかぁ?」
口喧嘩が始まるのを恐れたのだろうか。アサキが一際陽気な調子でそう質問した。速度を上げつつあった梅花は肩越しに振り返り、右手を指さす。
「もちろん、気が集まっているところよ」
気など集まっているだろうか? そう言われて急いで青葉も精神を集中させてみる。
先ほどのように妙な結界に阻まれることはないため、把握しやすい……はずだった。しかし感じ取れたのは朧気な気配だけで、つい眉間に皺が寄る。よくこれに気がついたものだ。
「――オレには漠然としか感じ取れないんだが」
「アサキは全くわかりませぇーん」
「僕はちょっとだけ、ちょっとだけ!」
「オレにはさっぱりだよ」
青葉に続いてアサキ、よう、サイゾウが口々に申告する。
梅花は何とも言いがたい曖昧な微苦笑を浮かべ、また前方へ視線を戻した。「慣れの問題よ」と囁いているのが聞こえるが、そうではないだろう。彼女が嘘を吐いているとは誰も思わないところが、それを裏付けている。気の察知能力の差だ。
何故青葉たちには気の集まりが感じ取れなかったのか。それは森の中を進んでいくにつれわかった。
あるところを境に、急激に結界の気配が濃厚になった。『晴れ渡っていた』のが嘘のようにどんよりと曇り、妙な気配が辺りに満ちる。この先に誰かがいたとしても、明瞭に把握できるわけがなかった。
「こっちの方はひどいねぇ」
先ほどまで陽気に鼻歌を奏でていたようでさえ、沈んだ声を出し始める。アサキとサイゾウに至っては先ほどからずっと無言だった。
漂う気配と空間の歪みから来る圧迫感のせいだろう。青葉もどことなく体が重くなったような錯覚に襲われている。
ようまで口を開かなくなると、痛々しい沈黙が辺りを覆った。単調な靴音に、時折葉擦れの音が混じるくらいだ。
ますます息が詰まりそうになり、青葉は片眉を跳ね上げた。この息苦しさは何なのだろう。気持ちの問題か、はたまた歪みのせいなのか。
と、不意に梅花が足を止めた。よそ見をしていた青葉は、その背にぶつかりそうになり慌てて立ち止まる。だが文句をつける気にはなれなかった。彼女から張り詰めた緊張感が如実に伝わってくる。彼は固唾を呑んだ。
「……梅花?」
「気配が、あるんだけど。妙ね。何かおかしいの」
辺りをうかがう梅花の言葉が、途切れ途切れにしか聞こえない。説明するというよりもほぼ独り言だ。いつも以上に精神を集中させているに違いなかった。青葉もそれに倣い、意識を研ぎ澄ませる。
いや、そうしようとしたところで忽然と異変に襲われた。ぐんと体を引き延ばされるような錯覚に陥り、目眩に襲われる。
「まずいわっ」
しかしふらついている場合ではなかった。弾かれたように走り出そうとする梅花の手を、青葉は咄嗟に掴む。ほとんど反射的な行動だった。反動で腕の中に倒れ込む形になった彼女を抱き留め、彼は瞳をすがめる。
「おい――」
「見てあそこ!」
それでも不平も言わず、梅花は右手を指さした。青葉が視線を向けると、深い緑に覆われた世界でちらとだけ白く瞬くものが見える。布のようだった。
それが何者かの後ろ姿であることに思い至ると、急に血の気が引いていく。神技隊の誰かではない。ラウジングたちでもなさそうだ。
「危ないわ。あっちにはスピリット先輩たちが」
どうも音の聞こえが変だ。耳に水が入った時とも微妙に違う、妙なこもり方をしている。それでも梅花の言葉はどうにか聞き取れた。
青葉は奥歯に力を入れると、背後にいるアサキたちの様子をうかがう。倒れそうになったようを、アサキとサイゾウが支えているところだった。動揺はしているが、まだすぐに動き出せる体勢だ。青葉は意を決して息を吸い込み、声を張り上げる。
「走るぞっ!」
叫びは三人にも届いたと信じる。走りにくさには目をつぶり、青葉は梅花の手を引いて駆け出した。風や音の響き方は妙だが、幸いにも踏みしめた土の感触は今まで通りだった。これなら転ばずにすみそうだ。
青葉は草を掻き分けつつ、前へ前へ進んでいく。だが白い後ろ姿は見当たらなかった。
「青葉、手離して」
「え?」
梅花が口にした言葉が頭に入るより早く、彼女はあいている方の手を前方へ伸ばした。同時に、細い指先から技が放たれる。
それは空気の流れを制御するものだったらしい。前方から吹き付ける風が弱まり、伸び放題の下生えが自然と左右へ分かれた。何が起こったのか理解するのは簡単だが、やってのけるのは難しい類の技だ。
「リン先輩の真似よ」
青葉が何か言いたげなことに気づいたのか、梅花はそう独りごちて前を見据えた。そこでようやく彼女の手を解放した彼は、頷きながら速度を上げる。
道ができたおかげでかなり走りやすくなった。それでも先ほど見た怪しい白い姿は見当たらないが。
視界が開けたのは、まもなくのことだった。見覚えがある――いや、それよりも大きいか――泉の前に、スピリットとピークスの姿が見えた。ここまで来れば青葉でも彼らの気が感じられる。
それはあちらも同じであるはずなのに、青葉たちの方を振り向くことはなかった。呆然とした顔で左方を見上げたまま硬直している。速度を落とした青葉は、皆の視線を追うように左へ双眸を向けた。
「……え?」
また視覚がおかしくなったのかと、青葉は瞬きをした。それでも目に映るものは変わらない。隣に立った梅花が息を呑むのがわかり、それでようやく自分が目にしているのが現実の光景だと確信できた。
巨木がひび割れていた。そうとしか彼には表現できなかった。自然にできたものとしてはあり得ない大きさ、角度に幹がざっくりと切られている。
いや、刃物で切ったのならこんな風にガタガタにはならないだろう。幼い子どもが紙をくり貫こうとして鋏を用いたときの、失敗作を連想させた。
「青葉、どうしたんでぇーす――」
追いついてきたアサキの、疑問の声も不自然に途切れる。揃わぬ足音が止むと、揺れる木々の葉の悲鳴だけが周囲を埋め尽くした。
「空間が、裂けてる」
現状を最も端的に告げたのは梅花だ。その声でようやくスピリットやピークスも、青葉たちの存在に気づいたようだった。ぎこちない動きで振り返ったリンと目が合う。
「誰かの後ろ姿が見えたと思ったら、急に」
どうやら視線で問いかけていたらしい。説明しようとするリンの声に、異音が重なった。
まるで硝子がひび割れた時のような、耳障りな音だった。薄い氷を踏んだ時の音にも似ている。高音で軽く、それなのに不安定な気持ちにさせる音。
青葉は固唾を呑みながら眼を見開いた。幹の亀裂はどんどんと広がっている。その向こう側は重く暗く、濁った色をしていた。
「――来る」
梅花が構えた。と同時に、轟音が鼓膜をつんざいた。幹から吹き付けてきた風は、全てのものをなぎ倒そうとした。
かろうじてその場に留まった青葉は、腕を掲げて顔を庇う。片目を開けているのが精一杯だ。涙で歪んだ視界の中、ひしゃげた木の向こうに何者かの姿を認める。
初めはただの黒い影に見えた。しかし次第にそれは人らしい姿をなしていく。濁った闇の中からぬらりと輪郭が露わになり、そこから気が膨らんでいった。青葉は瞳を瞬かせて、生理的に滲んだ涙を目尻へ追いやる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます