第8話
「この空間のねじれ方、どうもややこしいことになってそうです。嫌な感じがします。私たちの見ているこの空は、本当に他の誰かが見ている空と同じでしょうか?」
梅花に倣って、リンももう一度頭上を仰いだ。太陽の見あたらないどこか無機質な印象を受けるこの空。梅花の指摘通りだとすれば、誰かが合図を放ったとしても気づかない可能性があるのか。
それでもこうして合流できるのだから、全くでたらめな空間というわけでもないだろう。全員には伝えられなくとも、誰かには届くと信じたい。
「怖いこと言うわね。でも、そうだとしたらのんびりともしてられないのか。こっちの方向で正しいかどうかはわからないけど、立ち止まってるよりはましよね。急ぎましょう」
「そうですね」
道に沿って歩いた方が、仲間と出会える可能性は高いだろう。目印になるのはこれくらいしかないから、皆そう判断するはずだ。
梅花が頷くのを確認して、リンは再び小道の方へと向き直った。萎えかけていた心に気力が戻ってくるのを感じる。単純だなと苦笑しつつ、リンは道の真ん中へと足を踏み出した。ちょうどその時だった。
今度は低く唸る獣の声が、左手から聞こえた。それまでなかった生き物の気配に、二人は同時に振り返る。梅花が現れた茂みとは逆の方だ。揺れる緑の向こう側で、赤い光が怪しく揺らめいている。
咄嗟の判断で、リンは横へと飛んだ。梅花は後方へ飛び退ったようだった。それとほぼ同時に、茂みから黒い影が躍り出てきた。軽い足音と共に、『それ』は着地する。
リンが飛び退いたまさにその場所に降り立った獣は、熊と虎を足して二で割ったような姿をしていた。大型犬程度の大きさだが、ちらりと見えた鋭い爪の殺傷力はそれなりのものだろう。黒々とした毛並みを横目に、リンは声を上げる。
「梅花!」
リンが呼ぶやいなや、梅花は右手を掲げた。意図は伝わったらしい。白い手のひらから空へと放たれたのは、赤い光弾だった。炎系だろう。
しかしリンには悠長にその様を観察している暇はなかった。再び飛び上がった黒い獣に向けて、左手を掲げる。
「何なのよっ」
生み出したのは結界だ。薄い透明な膜が防御壁となり、獣の爪を弾いた。
体勢を崩した獣は後ろ足から地に降りる。その前足が地面に触れる瞬間を狙って、リンは右手を振るった。手のひらから生み出された風の刃が黒い足を貫く。
獣は悲鳴を上げ、地面へと崩れ落ちた。だがまだその赤い瞳から闘争心は消えていない。切られた前足からは、不思議なことに血も滲んでいなかった。
結界を消し去ったリンは眉根を寄せる。立ち上がろうとしてもうまくいかずにのたうち回る獣は、低く唸り続けていた。一体この獣は何なのだろう?
リンがさらなる攻撃をと構えた時、梅花が動くのが視界の端に映った。白い腕から放たれたのは、見慣れない薄水色の刃だった。それは上体を起こそうとする獣の体を勢いよく貫く。
悲鳴が甲高くなった。赤い瞳が見開かれたと思った瞬間、その姿は唐突に消えた。光の粒子となって空へと溶け込み、跡形もなくなった。
「……え?」
リンは目を疑った。土の上には獣の死骸どころか、血の跡一つ見当たらなかった。辺りを見回せども、どこかへ移動した気配もない。まるで幻であったかのように消え去っていた。しかし道の真ん中には爪痕が残っている。
「どうなってるの?」
「消えましたね」
リンの傍へと梅花が近づいてくる。ちらりと横目で見ると、梅花も怪訝そうな顔をしていた。一体何が起こったのかリンには全く理解できないが、それは梅花も同様らしい。
「普通の生き物のようではなかったですよね」
「形からしてね。しかも最後は消えちゃうとか。どうなってるのよここは」
嘆息したリン髪を掻き上げる。空間がねじれて仲間とはぐれたと思ったら謎の獣と出くわすなど、想像もしていなかった。
警戒しなければならないのはアースたちだけではないようだ。他にも何が飛び出してくるかわからない。これは一刻でも早く他の仲間とも合流しなれば危険だ。
「こんな獣がいるだなんて、ラウジングさんは言ってなかったわよね」
「そういう話はありませんでしたね。隠していた……とは思いたくありませんが」
「そうだったら後で殴るわよ」
頭を傾けた梅花へと、リンは苦笑を向ける。いくら秘密主義の上でも、そんな大事な情報を隠していたとなれば文句も言いたくなる。神技隊の命を一体何だと思っているのか。リンは軽くジーンズのポケットを叩くと、梅花の腕を引いた。
「さ、こうなったら少しでも早くこの場を離れるべきね」
「ちょっとリン先輩」
「合図したのに動くのかって? アースたちにも見つかっちゃうかもしれないわよ? 何かが起きたことだけ伝えておけばいいのよ。あの獣の仲間が近くにいないとも限らないし」
戦うにしてはこの道は狭すぎる。何匹もあんな獣を相手にするのは避けたかった。リンがやや強引に歩き出すと、それ以上梅花は抵抗しなかった。文句も言わずに手を引かれている様には、どことなく慣れが感じられる。
すぐに身動きが取れる状況にしておいた方がいいだろうと、リンは手を離した。いくらウィンの旋風とジナルの神童が揃っているとはいえ、油断していられる状況でもなかった。
「そうだ、梅花。さっきの技は精神系?」
道に沿って歩きながら、振り返らずにリンは問いかけた。話には聞いているし知識はあるが、まじまじと精神系の技を見たのは初めてのことだ。
技には色々な種類がある。炎系や水系は一般的だが、精神系の使い手は珍しかった。技の気配は他のものと大差がないように思えるし、見た目は水系の技に似ていたが。
「はい。精神系の簡単な技ですよ。あれがあんなによく効くなんて変ですね」
「……どうして?」
「知ってるとは思いますが、精神系は直接体にダメージを与えるわけじゃあないんです。精神系はその名の通り、精神とそれに関連するものにしか影響しませんから」
「関連するものねえ」
早足で進みながら、リンは梅花の方を一瞥する。斜め後ろをついてきている梅花は、考え込んでいるのかやや顔をしかめていた。その黒い双眸は道の前方へと向けられている。
梅花の説明を、リンは頭の中で繰り返した。「精神」というものの実態も掴みづらいが、「精神に関連するもの」という表現は実に曖昧だった。
「確か、人間だったら一般的には動けなくなったりする感じよね」
どうやら「関連するもの」の中に、体を動かす何かが含まれているらしい。理屈はよくわからないが、リンはそう教えられていた。すると梅花が頷く気配がする。
「そうですね。強い技であれば、気を失います」
命に関わる怪我を負わせることなく確実に相手の動きを封じることができる、そういう意味では精神系の技は重宝している。
また、どうやら空間に関わるものも精神系の使い手は得意としているようだった。こちらの理屈もいまいちはっきりしていない。とにかくよくわからない技の種類だ。
「どちらにしても、いきなり生き物が消えたりしないわよね」
「そうなんです。……この空間と何か関係しているんでしょうか」
「だったらあのラウジングさんを後で問い詰めるわ」
訝しげな梅花の声を聞き、リンは決意を固めた。ラウジングにはきっちり説明してもらわなければ気が済まない。調べろというのは、まさかこの獣たちのことだったのではないか? そんな予感さえしてくる。
こんな危険なところに何も知らせずに放り出し、自分は姿を消してしまっているのだから、とんでもなくたちが悪かった。やはり上の者は当てにならない。
「そんな風に宣言できるのはリン先輩くらいですよ」
憤りながら歩いていると、梅花の苦笑が耳に届いた。肩越しに振り返ると、彼女は笑っていた。わずかに細められた黒い瞳の柔らかさに、思わずリンも口角を上げる。
「なーんだ、笑えるじゃない。そっちの方が魅力的よ、絶対」
湧き上がっていた苛立ちまで和らいだようで、リンは頬を緩めた。苛立つことばかりで気落ちしそうになるが、悪いことばかりでもないと思い直す。
途中経過がどうであれ、最終的には皆が無事に目的を果たして帰れたらいいのだ。リンはそう自らに言い聞かせた。苦楽をともにするのは、打ち解けるいい機会にもなり得る。
そのためにもまずは仲間たちと落ち合うことが先決だ。強く土を蹴り上げて、リンは空を見上げた。先ほどと何ら変わりない青空では、やはり白い雲が穏やかに流れているばかりだった。
先頭を歩いていた滝が立ち止まった理由は、問わずともわかった。滝の横へと並んだ青葉は、おもむろに耳の後ろを掻く。
青葉たちの前に立ちはだかったのはカイキだった。前触れもなく空から勢いよく降りてきたカイキは、その後何故だか固まっている。
行く手を遮ってはいるが、戦いを挑んでくる気配はない。アサキと同じ顔が青ざめている様を見るのは、不思議な心地だった。
しかしこの状況を一体どうすればいいのだろう? 相手が襲いかかってこないのにこちらから攻撃するというのも変な話だ。青葉たちは戦いたいわけではない。
「あー最悪。どうして見つけたのがこういう奴らかな。まずいだろ、これ、絶対」
その場を動くことなく、カイキはぶつぶつと呟く。その視線は一度青葉たちへ向けられた後、落ち着かなく辺りを彷徨っていた。
どうも逃げ出す機会をうかがっているようにも思えた。意外だ。だが青葉たちが判断に迷っているのは、そのせいだけではない。
考えてみると、アースたちをおびき出してどうするのかというのを聞いていなかった。ラウジングが何か仕掛けるのではと勝手に思っていたのだが、その当人はいない。
「どう考えても巡り合わせが悪すぎるだろう。一旦退却か。いや、アースに知られたら何言われるかわからないし」
浮かない顔でひたすら文句を言っているカイキは、心ここにあらずな状態だ。困った青葉たちは顔を見合わせた。滝もシンも困惑の色を瞳に浮かべている。
こういった事態はさすがに想定していない。カイキを無視して通り過ぎるべきじゃないかという間の抜けた案が、青葉の中で浮上してきた。見なかったことにすればいい。その方がこの場合は双方のためになるような気がする。今のカイキならきっと何もなかったことにしてくれるだろう。きっとそれが正しい選択に違いない。
しかし、事はそう上手くは運ばなかった。再び青葉たちが目と目を見交わせた時、不意に左手の枝が揺れた。風もないのに葉擦れの音が広がる。青葉が慌てて辺りの気配に意識を向けると同時に、カイキの愚痴が途切れた。
「レーナ!」
左上を仰いだカイキの顔が、喜びに彩られた。虚ろだった深い紫の双眸に光が灯る。
「来てくれたのか!」
すとんと木から地へ降り立ったのはレーナだ。一本に結わえられた髪を背中へと払い、彼女はちらりと青葉たちを見やる。そして余裕の滲む笑顔のまま、軽い足取りでカイキの横に並んだ。
梅花と同じく体格は華奢だし、気を隠しているから威圧感もないのに、カイキよりも彼女の方が強そうに見える。たたずまいのせいなのか? カイキは彼女へと目を向け、愛想笑いを浮かべた。
「いやぁ、レーナ助かったよ。オレ一人じゃどうしようもなさそうで、正直どうしようかと思ってて」
照れくさそうな、ばつの悪そうな声音だった。頭を掻くカイキの方は一顧だにせず、レーナは深々と相槌を打つ。
彼女の視線はどこにも定まっていなかったが、それは周囲を探っているようにも思えた。口角は悪戯っぽく上がっているのに、視線の強さからは抜かりない印象を受ける。
「情けない顔をするな。今にもこの世の終わりみたいな気配を感じたので来てみたのだが、正解だったな」
「あれ? 気は隠してたはずだけど?」
「それでも伝わってくるような悲しみだったぞ」
レーナはくすりと笑った。カイキの言葉に嘘はない。目の前にいる青葉たちにも感じられないくらい、カイキはしっかり気を隠していた。
それでは一体、彼女は何を感じ取って来たというのか? 青葉はぞっとする。まさか気を隠していても、彼女の前では無意味なのか?
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