ゆみめた白い腕

ギイ、ギイ、と頭上から音がする。見上げた先にはシミだらけの天井と、下に伸びていくロープ。「だから言ったよね? ここに来たらいけないって、言ったよね?」そうだね、私は小さく返事をする。


おかしな方向に首を傾げながら、ケラケラと笑うこどもたち。顔のない死体を踏みつけながら、歌う少女。睡眠薬を飲むと、必ずといっていいほど見る異常な夢。獣のような息遣いをすぐ近くで感じる。食いちぎられる身体が、飛び出した眼球が、くびれたように伸びる首が。私は何?


 母親が溜息を吐く。あなたはいつもそうね。お願いだからバカなことをこれ以上言わないでちょうだい。頭がおかしくなるわ。すべての声を聞き終える前に自室のドアを開けて中に籠る。ベッドの上で膝を抱えて座る。


教室の中に入る。自分の席を探し、引き出しを開けて、鞄に入っている教科書やノートやプリントを移していく。「ノエミ、おはよう」後ろから声が聞こえる。振り返ると、メグリが笑顔で手を振っていた。「ああ、メグリ」おはよう、と私も返す。そうするとメグリは、可愛らしい顔で笑うので、私は思わず目を瞑った。石鹸の匂いがする。毎日お風呂に入って髪と身体を執拗に洗っている私もメグリみたいな良い匂いがしているのだろうか。とてもそうは思えない。私からはきっと、死臭がする。


この狭い箱に押し込められた生徒たちを哀れに思う。


メグリは時々、「今日は私の家に来たらだめだよ。何があっても、ノックもしないで」と言う。何もわからない私はそれでも頷く。メグリと私はお互いの家を行き来するような仲の良い関係だけれど、時折見せるメグリの怯えたような、凍りついたような表情を見ると、胸がざわざわと不穏な空気に包まれる。これ以上は聞いたらいけない。だから私は今の日常に溶け込もうとする。例え腕や脚がボロボロに崩れても。


今日はメグリの誕生日だ。だけど彼女はここ何日か学校を休んでいる。ラッピングされたプレゼントをどうしても渡したくて、私は学校が終わるとメグリの家に向かった。


ギイ、ギイ、と天井が軋む音がする。見上げると真っ直ぐに伸びたロープが。その下に続く、メグリの腫れた顔。汚れた死体。「今日は来たらだめだって、行ったじゃない」そうだったね。ごめんなさい。私は口だけを動かす。


私はベッドの上に寝そべり、パラパラと雑誌をめくる。メグリはカーペットの上に足を軽く崩して座ってノートに何かを書いている。「何書いてるの? 課題?」「ああ、手紙だよ。今までお世話になった人たちへの、手紙」 ふうん、と私は鼻から息を吐いて、そのことについては特に気にしなかった。最近、手紙を書くことがなくなったなぁ、小学生の頃は手紙交換、なんていったものが流行っていて、可愛らしい便箋に書かれたものを女子生徒の間でわざわざ手渡しで交換していたなぁ、なんて、そんなことを能天気に思い出していた。それをずっと後悔している。


宙に浮かぶ足。ぶらぶらと揺れる身体。ギイギイと軋む天井。どれだけ後悔しても、もう遅かった。


湯船から身体を引き上げて、椅子に腰かける。石鹸を泡立てたタオルで嫌悪しながらあちこちを擦る。髪を濡らす。シャンプーをつけて爪を立てないように指の腹で洗う。排水溝に詰まっていく黒く長い髪の毛。


メグリがわらっている。彼女の笑顔をずっと見ていたいと思う。それが叶わない願いだとしても、私は祈り続ける。


小鳥が中庭で死んでいた。埋めてあげようよ。私はそう言うけれど、目の前の少女は羽をむしりながら両手を血塗れにする。どうして?


間違えたのならやり直したら良いよと、手首に赤いリボンを巻き付ける。やり直そうよ。もう一度、作り直そう。悲鳴、さけびごえ。引き攣った頬。大きく見開いた目。腕に浮いた血管がひくひくと独立した生き物のように蠢く。


母親が浴室を掃除している。ヒッ、と息をのむ音と悲鳴が聞こえてきた。「何? この長い髪の毛」ノエミ、知らない? 大きな声で私を呼ぶ。それを無視して、教科書とノートを広げて数式を解く。何も知らない母親のことを、少しだけかわいそうだと思った。


授業中はいつも眠い。先生の低くてくぐもった声を聞いていると、もういいや、眠ろう、と開き直ってしまう。隣を見ると、メグリが真っ直ぐに背を伸ばした状態で椅子に座って、真剣な表情で授業を聞いている。黒板の文字をノートに書き写している。えらいな、と思う。私には真似できない。だから私は目を瞑る。


「さっき、寝てたでしょ」メグリが笑っている。「え、ああ、うん。寝てた」何も言い訳が思いつかった。「だめだよ、授業はちゃんと聞かなきゃ」「うーん、まあ、そうだよね」メグリとこうして喋っていることが、夢のように感じる。だからこれは夢だ。私がこんなにも穏やかに生きられる筈がないのだから。


目を開けることができない。なんだか、気味が悪くて。嫌な映像を延々と見せられているみたいで。気持ちが悪い。ゴボッ、と濁った音がして気がついた時にはもう、干からびた花や虫を吐いていた。最終的には嫌な音をさせながら、えずくだけで胃液すらも出なくなった。


ああ、ねえ、わたし、どうして。


ロープがちぎれて床に落ちたメグリの死体に、家の外に干してあったシーツを被せる。血が滲んでいく。目がよく見えなくて、霞んでいく。身体が遠ざかっていく。手を伸ばしてもどこにも届かない。私ってこんなに小さかった?


皮膚が崩れていく。薬を塗っても治らないどころか、日に日に酷くなっていくみたい。


メグリが口から血を流しながら壁にもたれかかっていた。「だから来たらだめだって言ったじゃない」こちらを見る目が痛々しい。腕に巻かれた包帯。メグリはわらっていた。しかたないなあ、と言いたげに、困ったように、わらっていた。傷口から血液が溢れていく。


なにこれ? 頭おかいしいんじゃないの。ほら見てよ。頭おかしいってこれ。ゲラゲラ笑いながら男子生徒が、誰かの顔が描かれた絵本の表紙を見せつけてくるので、肩を押して思い切り突き飛ばした。「頭がおかしいのはお前だよ」拡散していく悲鳴と、血で濡れた頭。


「今日は来たらだめだよ」メグリの声がする。わかった、と私は返事をする。放課後、どうやって過ごそうかな、なんて考えながらふと目線を上げると、そこには誰もいなかった。机の上には何かのキャラクターや、漫画に出てくる台詞などの落書きが彫られている。なんかこれ気持ち悪いな、と机を横にずらして自分の身体から離す。


 メグリの手首には無数の躊躇い傷が残されていた。何もできなかった。助けられなかった。救えなかった。私も行きたい。メグリのそばに、行きたい。


「あなたじゃなくてよかった」母親の声は水気を含んでいて重たい。偽善者。自分のことしか考えていない愚か者。私も何も声に出さずに自室に籠る。背後から聞こえてくる大きなため息。


お母さん、私の腕にも傷があるんだよ。


「だから、言ったよね? 来たらだめだって」

私は、そうだね、とだけ呟く。ぎい、ぎい、と音がする。私は、メグリを助けたかったんだよ。それは本当だよ。信じてくれなくても、いいよ。私は、メグリを守りたかった。ぎい、ぎい、と天井が軋む音がする。


メグリの家の前まで来た。ラッピングされたプレゼントが、かさりと音を立てる。ドアを叩いてから、インターフォンの存在に気付いた。白いボタンを押す。はぁい、と女の人の声が微かに聞こえる。だけど誰も出てこない。おかしいな、と思いながらドアノブを掴んで回す。かちゃ、と音がした。鍵は? そう思うと同時に、私は家の中に入っていた。


最後にメグリの笑顔を見たのはいつだっただろう。どうしてかな。何も思い出せない。記憶に残っているのは、メグリの涙で濡れた頬、青白いくらいの。


ごめんなさい。本当にごめんなさい。私は同じ言葉を繰り返しながら俯く。何度も頷いているせいか、首が痛い。床に散らばったプレゼントの中身。もうどうでもいい。こんなものは不要だ。意味がない。私は頷くのをやめると、ポケットからカッターナイフを取り出して、切っ先を首に当てる。大丈夫。怖くない。大丈夫。バタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。サイレンの音もする。大丈夫。怖くない。大丈夫。


真っ黒な目をしたメグリが佇んでいるのをたしかに見た。それから私はずっと白い部屋の中にいる。ごめんね、メグリ、ごめんね。


私の声はどこにも届かない。


(20240921)

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