第6話 夏だ! 海だ! ミサゴさんだ!
6-01 夏と、真逆の季節の出会い
それは、わたしが中学生の頃の、とある冬。
空は灰色の雲に覆われて、雪が静かに降り積もっていた。その日は休日で、わたしは例によって『野鳥公園』にやってきた。
「うぅ……寒い」
建物の中とはいえ、暖房もない木製の建物は、ひんやりとした空気に包まれていた。
身震いをひとつし、手袋を外して、受付に置かれた名簿表に自分の名前を書く。かじかんだ指先では、思うようにペンが動かせない。一つ上の欄に書かれた自分の名前も、「な」の丸い部分が無骨に
名前を書き終え、建物の中心にある階段へ行った。靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて、二階へと上る。
顔を上げると、その先に見える窓には、厚い雲。
でも、その下に広がる海にはきっと、スズガモやホシハジロ、キンクロハジロといったたくさんの冬鳥たちが羽を休めているはず。
期待に胸を踊らせて、首から
最後の一段を上りきる。
真っ直ぐに、窓へ向かおうとした。
その時。
部屋の隅、わたしの斜め前方に、知らない人が立っていた。
ドクッと、心臓が跳ねた。一瞬、息が止まった。
駐車場に車はなかった。受付の名簿にも名前はなかった。階段の下にも靴は置かれてなかった。
わたし以外、この建物に人がいるとは思っていなかった。
当時中学生のわたしよりも年上っぽく、大学生くらいの、若い男の人。
背丈はわたしよりも頭一つ分以上高い。雪のような銀色の髪に、ブラウンのバンダナをはちまきのようにして髪の上に巻いている。背中を向けているから、顔は見えない。茶色の薄汚れたコートを着ていて、足もとを見ると、靴を履いたままだった。
その人はこちらに気付いていない様子で、ずっと、窓に顔を向けていた。
「あ、あの」
わたしは、一歩、二歩とその人に近づいた。二階が土足厳禁であることを伝えようと、声を掛けた。
別にわたしは、ここの管理者じゃない。でもここは、わたしの大好きな場所だ。ルールは守ってほしい。そう思って、その人に伝えようとした。
彼が、こちらへ振り返る。
その瞬間。
「ッ!?」
わたしを見た彼の目が、大きく見開かれた。
無言のまま、二、三歩と大股でわたしへ近づく。
そして突然、軍手をはめた手をわたしの顔に向かって伸ばしてきた。
「きゃっ!?」
わたしはその手を避け、彼の反対側へと逃げた。
壁に背を付けて、彼と向かい合う。
怖くて、身体全体がすくんだ。前が見られず、キュッと目を閉じた。
当時、町では不審者の目撃情報が相次いでいた。その日の前日にも、学校の先生が注意するようにと呼びかけていたのを思い出した。
ここは海沿いで、周りに民家もない無人の施設だ。こんな場所でなにかあったら、だれも助けてくれない。
どうしよう。どうしよう……。
考えれば考えるほど、頭が真っ白になっていった。身体が強張っていった。
けれど、ふと気がついた。
なにも、してこない……?
わたしは、恐る恐る目を開き、前を見た。
彼は、階段の降り口手前に立っていた。わたしのことは見ていない。さっきわたしへ伸ばした、自分の右手を見つめている。
どうしていいかわからず、わたしはその場で立ち尽くしていた。
このまま逃げたほうがいいのはわかっている。けれども、階段の前に彼がいて、退路は
それに、彼の様子が、なんだか……。
「ぁ……」
その時、ため息を吐くような声が聞こえた。
右手が緩み、下ろされる。彼は顔を上げ、肩の力を抜いた。
その顔は、先ほどまでと違う。穏やかで、でもどこか、悲しげだった。
「ごめん、な……。おジョウ、ちゃん……」
優しいというよりは弱々しく、ささやくような声。
片言の日本語のようで、どこかイントネーションに違和感があった。ここらへんの
わたしは、なにも声が出せずに、ただ首を横に振った。
謝ってきたし、悪そうな人には見えない。それでも、まだ心臓が高鳴っていた。恐怖心が消えたわけでもない。
やっぱり、どうしていいかわからずに、固まったまま彼を見つめる。
彼は数秒、わたしの顔をじっと見ていた。そして、ふぅっと息を吐いて、目をおもむろに閉じる。再び目を開けた時は、もうわたしのことを見ていなくて、階段の下へ目線が行っていた。
彼はなにも言わずに、足を前に出した。階段を、降りていく。
トンッ、トンッ、トンッ……。
靴音が、建物の中に響く。
わたしは、とっさに声を出した。
「あっ……、あのっ」
足を前へ出し、降り口の手前まで行った。
彼は、階段の中程にいた。片足を一段下へ降ろして、足を止め、こちらへ振り向いた。
「こ、ここ、二階は土足厳禁なんです。だから、次来る時は、靴を脱いで上がってきてくださいね?」
震える声で、そう、彼に伝える。
別に、どうしても注意したかったわけじゃない。
ただ、なぜか……。どうしても……。
どうしても、彼に、声を掛けたかった。
「……そうか。ごめん、な」
彼はわたしを見上げたまま、静かにそう言った。
「ここ、ハジめてキてん……。よう、わからんくてな……」
ここにはごくたまに、町歩きの観光している人が立ち寄ることがある。海沿いをドライブしていて、トイレ休憩に入ってくる人もいる。この人も、ここがどんな場所か知らずに、ふらりと入ってきたのかな。
「ここは、『野鳥公園』っていって、鳥を観察する施設なんです」
「トリ……?」
「はい。今の時期は、渡り鳥のカモとか、いろんな鳥が観察できるんですよ?」
言いながら、わたしは後ろを振り返り、今日初めて窓の外を見た。
海の上には、ゴマを散らしたみたいにたくさんのカモ類が浮いている。
あれは、ホシハジロだろうか、キンクロだろうか、スズガモか、それまたヒドリガモか!? あぁっ、早く観察したいっ!
衝動を抑えきれず、双眼鏡を持ち上げる。
「おジョウちゃん、トリ、スきなんか?」
足もとからの声に、ハッと我に返った。
そうだ、話し中だった。振り返り、階段にいる彼に向かって、声を上げる。
「はい! 大好きです!」
双眼鏡を持つ手に力を込めた。
彼はなにも言わず、口を少し開けたまま、じっとわたしを見つめた。
不意に恥ずかしい気持ちが込み上がってきた。見ず知らずの人に、自分の気持ちをぶつけてしまった。目を泳がせて、取り繕う言葉を探す。
その時、声が聞こえた。
「そうか……。ありがとな……」
その意味を
「ワシ、このチカくに、コしてきた、ばかりでな……。ヨかったら、オシえてくれんか? このマチのこと……。それと、トリのこと……」
最後の一言に、胸が高鳴った。身体が震え、キュッと力が入った。
でもそれは、さきほどまでの恐怖とは違う。
「はい! もちろんです!」
この後わたしは、日が沈み暗くなるまで鳥レクチャーを披露し、彼を軟禁させてしまった。
それからも、彼はよく『野鳥公園』へ来るようになった。
わたしは彼のことを「お兄さん」と呼んでいた。彼はわたしのことを「お嬢ちゃん」と呼ぶ。
鳥のことしか頭になかったわたしは、お兄さんの名前も、どこに住んでいるかも訊きそびれていた。お兄さんも、なぜか名簿に名前も書かず、個人的なことはあまり言わなかった。それに、わたしのことを訊き出すこともしなかった。
会うのは決まって、『野鳥公園』。わたしは鳥について知っていることを、お兄さんに教えた。お兄さんは、相づちを打ったり質問をしながら、わたしの話を熱心に聞いてくれた。
たまにわたしが興奮して詰め寄ると、お兄さんは笑いながらそっと距離をとる。いつもイス一つ分のスペースを空けて、わたしとお兄さんは隣り合わせだった。
「よう。お嬢ちゃん、今日も来たんか?」
「お兄さん、こんにちは。どうしたんですか、その
季節が春に変わる頃になると、お兄さんの印象は、最初に会った時とまったく変わっていた。言葉づかいが
「これか? ちょっとこの建物、掃除しよう思うてな。いつも世話になっとるし、きれいになったら、来る客も増えるやろ?」
「いいですね。わたしも手伝いますよ?」
「ありがとな。あっ、そういや今日、珍しい鳥見たで? たぶん、クロツラヘラサギやと思うんやけど」
「ほ、本当ですか!? やっぱり鳥見ます! クロツラ見てから掃除します!」
「言うと思ったわ。まだおるといいな?」
そう話して、お互いに笑い合う。わたしたちは、すっかり仲良しになっていた。
わたしにとってお兄さんは、数少ない、いや、たった一人の鳥仲間だった。鳥について熱く語り合える、大切な人。そう思っていた。
それなのに――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます