第8話 翠さん(前編)

 高校生になると、ボクを取り巻く環境は大きく変化した。同じ中学校から進学してきた同級生はわずか20名ばかりだったし、その連中はいわゆるガテンな有馬や山下とは傾向の違う連中だったから、ただの顔見知りでしかなく、ボクは進学を機に全く新しい友達を見つけ、何か違うことを始めてみようと思っていた。


 中学時代、訳のわからない内臓疾患疑惑で部活を止めてしまっていたので、今さら運動部に入る気にはなれず、かといって妙な声を出して発声練習する合唱部も嫌だ。楽器はできない。絵心もない。理科は大嫌い。そうなると、自ずと演劇部とか文芸部ということになるが、文芸部に入部するには毬栗頭が気になったので、消去法の挙句、ボクは演劇部に入ることにした。


「演劇部…… なんかかっこよくね?」


 数少ない中学からの友人である健太郎に入部動機を語ると、健太郎は即座に否定した。


「演劇部って思想がかった連中が多いから止めとけって兄貴が言ってたぞ」


 どうしてボクが選ぶ部活にはこうもケチが付くのだろう。中学の時は野球部を選ぼうとして、あそこは不良の巣窟だと脅されて止めてしまった。今度は思想犯である。そもそも、この時代に思想犯なんているのかよ、と思ったものの、健太郎の兄貴がそう言うんだと仕方ない。何しろ学年1番とか2番の秀才だ。そんな偉人の意見を聴かない法などない。

 とはいえ、一応雰囲気だけは見ておきたいと思ったボクは、旧校舎3階の角にあった演劇部の部室の前をウロウロしていた。


「入部希望?」


 軽やかな声だった。いや、単に軽やかというのではなく、ざわざわした森の中でもひときわ大きな声量で他を圧倒するウグイスを思わせる、そんな感じの声だった。


「い、いや、その、見学というか……」


 ボクはまだ1年生だ。5月末くらいまではどの部活に入るか、お試し期間があったはずだ。おどおどする必要はない。だが、なぜかこのウグイスに気後れしてしまった。


「やりたかったらやる、ダメならやめる、簡単なことだよ。まぁ、いいから入りなよ」


 高校の先輩女子というのはこんな感じなんだろうか? ボクは正直驚いた。多分、ひとつ年上か、せいぜいふたつしか違わないはずなのに、高校生というより、大人の女性がセーラー服着ているような感じがした。


 部室は教室の四分の一程度の広さで、真ん中に工作室にあるような大きなテーブルがあった。その周りにパイプ椅子がやたらと置いてある。片方の壁には、台本らしき冊子類がずらりと並んでいて、意外に整理整頓の行き届いた綺麗な部屋だった。


(ここで思想教育でもされるのかな……?)


「吾妻翠、よろしく」


 いきなり自己紹介と右手を差し出され、ボクはドキドキした。小学校のフォークダンス以来、女子の手など握った記憶がない。ミエちゃんとも結局キスどころか手も握らぬまま、自然消滅してしまいそうだったから、この翠さんの手を握っていいものやらどうやら戸惑っていると、彼女がじれったそうにボクの右手を勝手に握り、力強く上下に数回振った。


「キミ、名前」


「あっ…… 神原です。神原俊哉です。1年2組です」


「カンバラね、了解。神原、経験者?」


「演劇ですか?」


「ハハ、そうだよ」


「…… ないですけど」


「だろうね。あっ、でも心配ないよ。経験者なんていないから」


「そうですか……」


「なんでここを選んだの? 何かしたいことでもある? 役者志望?」


「いや…… 特に。でも、運動できないし、音楽もダメなんで、その消極的な理由というか……」


「アハハハハ、消極的理由で演劇部選ぶなんて、うちもメジャーになったなぁ」


 言葉遣いはちょっと乱暴な感じがしないでもないが、翠さんは爽やかで、一緒にいてとてもリラックスできる不思議な雰囲気の持ち主だった。ボクは最初に抱いた気後れが嘘のようになくなっていくのを感じた。


「演劇部はね、2年の2学期の文化祭で事実上の引退なんだ。3年になると時々気が向いた連中が練習を見に来るだけ。だから、私もたまたま寄ってみただけで、部長は2年の藤原だから。そのうち来ると思うけど」


「そうなんですか……」


「キミ…… ちょっともぞもぞ言っててよく聞き取れないな。発声練習しなきゃかな」


 彼女は意味ありげにニヤニヤしながらボクを見ている。こんなにじっと顔を見られたのは何年振りだろう。ボクは視線を外そうとしたのに、彼女の淡いブラウンの瞳に吸い込まれたように、視線を外せなかった。


「脚本とか……」


 思わずそう言っていた。


「脚本! 自信家だなぁ、キミ、神原か、ごめん」


 彼女は大袈裟に声を上げた。


「ごめんごめん。良かったら読むよ。何か書いてる?」


「…… いいえ」


「な~んだ、脅かさないでよ。ここにはさ、時々作家志望の人もいてさ、よくわからないうちに批判めいたこと言うと、もうすごい勢いで怒られるからさ、キミもそんなタイプかと思ってちょっとビビった、アハハハ」


 ボクはなぜごめん、というのか最初はわからなかったが、そういう打ち明け話をしてくれる翠さんはごく普通のいい人なんだと思うと、とても親近感が湧いた。


「本当に書いたら読んでくれますか?」


 なぜそんなことを申し出たのか、よくわからない。初対面の先輩だ。ボクはどちらかというと人見知りで引っ込み思案だ。そのボクがこの2つ年上の女性には、なぜかこっちから近づいてもいい気がした。彼女は決して否定しない、そんな気がしたのだ。


「うん、読むよ。ちゃんと読む」


 ボクは翠さんにボクの小説を読んでもらおうと思った。彼女なら、ボクの書いたものをちゃんと読んでくれる気がした。これまで、密かに書いても、書いていること自体誰にも打ち明けられなかったけど、彼女はちゃんと読んでくれる気がした。


「じゃあ、入部します」


「アハハハ、キミ、意外と単純?」


「いえ、真面目なだけです……」


「自分で真面目っていう奴にロクな奴いなかったけどね、アハハハハハハ」


 翠さんは快活に笑った。ふんぞり返らんばかりに大笑いした。でも、それが彼女の品位を下げるどころか、ボクにはますます地上に降り立った天使に見えた。



 その翌日、ボクは部室を訪れ、キャプテンと呼ばれている部長の藤原さんに入部届を出した。なんと、その時点で新入部員はボクだけらしく、そもそも、こんなふうに正式に入部してくる1年生は普通皆無と聞いて、ボクは吹き出してしまった。


「文化祭の前になると、暇な帰宅部をスカウトしてくるんだよ、適当に。集まった人数によって、登場人物の数と一致する台本を選ぶ。ほら、過去に諸先輩が書いたものがあるだろ、そこに。左端から2人用から10人用までちゃんと並べてある」


 キャプテンは自慢げにそう話した。何の自慢だ?


 要するに、文化祭のお祭り騒ぎに舞台は欠かせないだろ、ということで存続を許されている部活だったのだ。演劇論をぶち上げるような、そういう高尚なものでもないし、まして思想犯を養成しているわけでもなかった。ボクはホッとした。


「でもね、文化祭が終わると居心地よくて、そのまま部員になる人もいるんだよ。今は2年生が3人。あと神原と、翠さんが時々来るな。翠さんには会ったんでしょ?」


 翠さんよりよほど丁寧な言葉づかいでキャプテンは部の現状を教えてくれた。


「はい」


「じゃあ、文化祭までは時間もまだあるし、神原も適当に意見出してよ」


「えっ? 意見ですか?」


「何かしたいことがあって演劇部選んだんだろ? それを考えてやればいいんだよ」


 ボクは喉元まで脚本書きたいです、と言いかけたが、翠さんの反応でそれが思った以上に大それたことというのは体験済みだから、ここはちょっと我慢して様子を見ることにした。


「あの~…… 翠さんは今日は?…… 」


「さあ? なんか用事?」


「いえ…… その…… 3年生はいつもは来られないと聞いていたから」


「ああ、そうだね。みんな受験勉強でしょ。翠さんはどこで勉強してるのかな。帰ってるんじゃないの、もう家に」


「そうですか…… 」


「…… ひょっとして…… 一目惚れとか?」


 キャプテンがニヤニヤしながら顔を覗く。ボクはきっと全身真っ赤だったと思う。


「翠さんはちょっと感じいいからなぁ。わかるよ、若人。恋したまえ! アハハハハ」


 こんな感じで、ボクの一目惚れは公認になった。

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