虎だ! 虎になるんだ!

公爵家と言っても、あたしの家はそれほどたいしたものではないらしい。


北の帝国が台頭するまでは、我が王国も繁栄を極めていたようだけど……

――軍事力は到底及びがつかないみたいで、近隣諸国も北の帝国の顔色をうかがっている。

今では経済の要だった金山も枯渇し、都ではどこも閑古鳥が鳴いていた。


国内の勢力争いでも、温厚な父はかやの外に追いやられているようで、「名ばかり公爵」の呼び名がすっかり定着している。


そんなある日、国王が我が家に目を付け、最近貿易で栄えてきた小国の王子との政略結婚を勝手に決めた。


年老いてからのひとりっ子だったあたしにそんな話が舞いこんだから、さすがの父も奮闘して話をもみ消そうとしたらしいけど……


所詮名ばかり公爵では、国王の決定に背く事なんてできなかった。


そして、婚約の式典で王子に出会い。

――あたしは恋に落ちた。


そこからは夢のような毎日だった。

前世の記憶が戻り、ここがゲームの世界だと知り、あたしが悪役令嬢だと気付くまでは。


バッドエンド回避のために全力を注いだけど、ネット小説みたいに上手く行かない。

前世の知識だって、普通の10代の女の子じゃたいしたものは無いし。

結末が分かってても、ひとつの国の政治や経済の流れを変えることなんか、所詮不可能だった。


ストレスで過食に走り、すっかり体重も増え……

自暴自棄になって、ゲームで悪役令嬢がやった悪魔召喚のまねごとをしたら。


――あの男があらわれた。



◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇



「虎だ! 虎になるんだ!」


ダイエットとストレス発散のためにと……

――奴が進めてきたのは、ボクシングだった。


その昔、尋問や処罰のために使われていたらしい、薄暗い地下室が……

――今では妙に明るいボクシングジムだ。


道具は、幼い頃からあたしに仕えてくれていた家令のディグリルが集めてくれたり。

中には、自作したものも多いらしい。

今もあたしがサンドバッグ代わりにパンチを打ち込んでいるのは、ディグリルが手作業で縫ってくれたクッションの塊だ。


「アゴを引け! 脇を締めろ! ステップが止まってるぞ!」

指示を出すあの男は、なぜか片方の目に黒い眼帯を付けている。


「よし! そこで明日のためのワン・ツーだ!!」

元ネタがなにか分かんないけど…… 絶対あたしで遊んでると思う。


「お嬢様、お疲れ様でした」

タオルを渡してくれるディグリルは、満面の笑顔だ。


「ありがとう」

あたしが汗をぬぐうと。


「本当にお元気になられて、ディグリルは嬉しゅうございます。

これもシンイチ様のおかげ……」


「こら、セバスチャン! ポンコツを甘やかしてはいけない!!

私が作った食事メニューはちゃんと守らせてるか?

またこっそり、ケーキを食べさせたりしてないだろうな」


奴が文句を言ってきた。

――まるで世話好きのおかんだ。


「め、滅相もございません。シンイチ様」


この2ヶ月間……

毎晩のようにあらわれた奴は、すっかり我が家に馴染んでいる。


ディグリルのことをなぜかセバスチャンと呼び、お父様のことをプーちゃんと呼ぶが、2人ともそれを容認しているばかりか、嬉しそうに反応する。


「まだまだ絞りたいところだが…… うむ。

合格点は出してやろう。

学園の卒業式…… 例の婚約破棄イベントまで、後5日か。

王子様とは何日会ってないんだ?」


「……1月半以上ね」

婚約者をほったらかして、ヒロイン様とデート三昧なのかな。

あたしが、少し寂しそうな顔をしたら。


「ああ、その方が良いな。

今のポンコツを見たら王子様も驚くだろう。

――驚きは、大きければ大きいほど良い。

成功率がずっと上がるからな。

計画は順調に進んでる。 ――だから、そんな顔をしなくても良い」

その大きな手で、あたしの頭をガシガシと撫ぜた。


「計画と言えば…… シンイチ様。

旦那様が例の件で相談があると仰っておりました。この後、お時間いただければ」


「なんだセバスチャン。アレが手に入ったのか?」

「ええ、そのようでして」


2人して、悪そうな顔で笑う。



間違えて呼び出してしまったこのおっさんは、自称する通り……

――悪魔より悪魔だった。


お父様は奴の助言で、国内での地位を急速に取り戻し始め。

近隣諸国の弱みを握り、北の帝国との密輸入まで始めだした。


その成果は、荒れた大地に芽を伸ばし始めた芋類だったり。

遅々として進まなかった治水工事の成功だったり。


どれも、あたしがやりたくてできなかったことだし。

あたしが想像していた以上のことが起きてる。


「――じゃあ、そろそろ仕上げに入ろう。

ポンコツ、リングに上がれ! 必殺技の伝授だ。

やっぱりここは王道のデンプシー・ロールかな?

いやいや、オリジナルを貫くならクロス・カウンターか……

どっちが良い?」


真剣に悩む顔は、神秘的で人間離れした美貌。

言ってることは、支離滅裂。

態度は、厚顔不遜で……

おまけに、だいじな所にズカズカと勝手に踏み込んでくる。


「どっちでもいいわよ、そんなの」


さっきの手の感触が、まだ離れない。

インターバルで休息を入れたのに、心がダンスを踊ったままだ。



ああ、やっぱりこのおっさんは……

――悪魔より、悪魔だ。

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