真嶋 堅一(まじま けんいち)の場合(2/3)

 大通りから外れた道とは言え、商店街から港へと続く主要道路は、朝6時前でも人通りはあった。

 いや、正確にはと言うのは語弊ごへいがある。

 道をうろうろしている人影の何割かは、明らかにゾンビだった。


 バイクを降り、エンジンを切って、アキラくんは物陰に待機する。

 ぼくは一つうなずいて、ひっそりとしている交番へ駆け込んだ。


「すみません! 外にゾンビが居るんです! 助けてください!」


 我ながら何のひねりもない言い方だ。

 これでは「子供のいたずら」とおまわりさんに一蹴されても仕方がない。

 何の答えも返してくれない交番の中を見回して、ぼくは机に突っ伏して眠っているおまわりさんを見つけた。


「起きてください! ねぇ! すみませんってば!」


 大声を出しているのに、おまわりさんはピクリとも動かない。

 ぼくはとりあえず交番から外に顔を出して、アキラくんに行くように合図を出した。


 交番の中に戻り、おまわりさんの方に回り込む。

 肩をゆすろうとして一歩踏み出すと、足元でぴちゃ……と湿った音がした。

 慌てて体を引き、足を持ち上げる。

 白いランニングシューズの底から、どす黒い血が床に糸を引いた。


「……えっ?」


 あんなに大声を出しても身じろぎもしなかったのに、ぼくのその小さな驚きの声に、おまわりさんはブルルッと震える。

 片足を持ち上げた状態で見つめるぼくの前で、頬の肉のない骸骨そのものの顔をしたおまわりさんのゾンビは、ゆっくりと体を起こし、白く濁った眼でぼくを見た。


「う……うわぁぁぁぁ!!」


 叫び声に反応して、ゾンビがぼくにつかみかかる。

 片足を持ち上げていたぼくは簡単にバランスを崩し、ゾンビと一緒に床に転がった。

 狭い交番の中、後頭部をスチール製のロッカーにぶつけて、目の前に星が飛ぶ。

 頭がくらくらして身動きが取れないぼくに向かって、ゾンビはパカッと口を開いた。


「ざっけんなゴラァ!!」


 声と共に、ゾンビの顔がゆがむ。

 吹き飛ぶゾンビと、飛んできたアキラくんの蹴りは、ぼくの鼻先を勢いよく通り過ぎた。


「ざけんじゃねぇ! 警官は市民を守るんじゃねぇのかよ! いざと言うとき守るかわりに、普段は偉そうにしてんじゃねぇのかよ!」


 体重を乗せた蹴りが、ゾンビの顔面に何度も何度も振り下ろされる。

 そのたびに「めきっ」「みしっ」と言う嫌な音を立てていたゾンビの頭は、最後に「ぐしゃ」と湿った音を立てて、床に落とした半熟のゆで卵のようにつぶれた。

 それでもアキラくんは蹴り続ける。

 衝撃から立ち直ったぼくは、ふらふらする頭を押さえながら、アキラくんの肩に手を置いた。


「アキラくん、もう……死んでる」


 肩で息をしながらゾンビに唾を吐きかけたアキラくんが袖口そでぐちで顔を拭く。

 泣いていたのかもしれない。

 ぼくはその意味が分からなくて、とにかく「ありがとう」とお礼を言った。


 ゾンビを見下ろし、息を整えたアキラくんは「おう」と返事をする。

 そのあと少しの間をおいて、おまわりさんのゾンビを見下ろしたまま口を開いた。


「……俺の親父よ、警官だったんだ。柔道で全国何位かになったこともある。でも中身は腐った男でよ、交番じゃどうかは知らねぇけど、家じゃ酒を飲んでは俺をぶん殴る最低の人間だった。酔うと必ず『俺は命をかけて市民を守ってるんだ』ってわめき散らしてよ。まぁ俺はそれでも我慢してたぜ。金は運んで来てたし、酔ってないときはまぁ……案外まともだったしな」


 そこまで話して、アキラくんはもう一度、ゾンビの頭を踏みつける。

 ぼくは何も言えず、それを見ていた。


「だけどよ、去年、とうとうあいつは妹を殴りやがった。まだ小学校2年生の女の子だぜ? その日も俺は殴られてて、それをかばった妹の顔をあいつはグーパンで殴りやがったんだ。妹の口と鼻から血が流れてるのを見て、俺はキレちまった。……へっ、あんなにデカくて強いと思っていた親父も、その辺のシャバ僧どもと一緒だったぜ。おふくろと妹たちに止められるまでボコったら、カメみたいに頭を抱えて壁際にうずくまってやがった。それからしばらくは酒も飲まずにおとなしくしてたんだけどよ、結局、おふくろと二人で俺たちを置いて逃げたって訳だ。マジでよ、腐ってやがるぜ」


 ゾンビに向かって……いや、おまわりさんの制服に向かって、だろうか?

 アキラくんは唾を吐きかけ、イライラしたように踏みつける。

 その姿を見たぼくは、なんだか心の中がもやもやして、アキラくんの肩に手を置いた。


「やめなよ、アキラくん」


「……んだよ? お前を殺そうとしたゾンビだぜ?」


「違うよ……違う」


「何が違うってんだよ」


「そのおまわりさんは……アキラくんのお父さんじゃないってこと」


 アキラくんの表情が変わる。

 肩に載せていた手を跳ね除けられ、襟首をつかんで勢いよく壁に叩き付けられたぼくは、息が詰まって声も出せなくなった。

 そのままものすごい力で押しつけられ、壁際で吊り上げられる。

 自分の体重で絞まる首を両手で押さえたぼくは、下から睨みつけるアキラくんの目が恐ろしくて、目をつむった。


「堅一……てめぇ、チョーシくれてっとそのクソゾンビと同じ姿にすんぞ?」


 アキラくんなら本当にそうできるだけの力があると思った。

 背中を冷たい汗が流れる。

 謝って、懇願して、許してもらおうと、もう一度アキラくんの目を見た瞬間、ぼくのその考えは頭から吹き飛んだ。


 アキラくんは、泣きそうな目をしていたんだ。


 大好きなお父さんだったんだろうと思う。

 強くあってほしかったんだと思う。

 市民を守るっていう重圧から逃げたお父さんを、お父さんの尊厳を傷つけてしまった自分自身を、アキラくんは許せていないんだろう。

 でも、だからこそ、なにもかもを……それこそ思い出までも嫌いになって欲しくはなかった。


「アキラくん……ほんとは……警察……好きなんでしょ? ほんとは……お父さんのこと……好きなんでしょ?」


 目を見つめながら、やっとそれだけの言葉を絞り出す。

 アキラくんは目を見開き、ブルっと体を震わせると、ぼくを投げ捨てて後ろを向いた。

 空気を求めて喘ぎ、気管がつまって大きくむせ返ったぼくは、目の前に転がっているゾンビに気づき、慌てて立ち上がる。

 これ以上怒らせたら、今度こそ本当にこのゾンビと同じ目にあわされるかもしれない。

 そんな恐怖はまだあったけど、黙ったまま後ろを向いているアキラくんの背中が小さく見えたから、ぼくはありったけの勇気を出して口を開いた。


「……ほんとは、アキラくんが優しくて、正義感が強いのをぼくは知ってるよ。通りすがっただけのぼくを命をかけて助けてくれたし、妹さんたちのことをちゃんと養ってるのも、本当に正しいことを知ってるから……だもんね」


 ぼくをカツアゲしたけど。と、心の中で付け足して、ぼくは小さく息を吐く。

 アキラくんはゆっくりと振り返って、ぼくを見た。


「だからアキラくんには……そんなふうに死体に暴力を振るってほしくなくて……えっと……八つ当たりはダメだと思うし……あの、ちゃんと……正しいと思うように……あれ? なんだろ……? おかしいな」


 アキラくんの目が優しくて、ぼくは結局自分でも何が言いたかったのか分からなくなってしまう。

 ぬっと腕が伸ばされ、思わず肩をすくめたぼくの首を引き寄せる。

 アキラくんの腕は力強くて、温かくて、ぼくの頭はほんとうに何も考えられなくなってしまった。


「……わぁったよ。だから泣くな」


「え?」


 言われて初めて、ぼくは自分が泣いていることに気づいた。

 あわてて目をこすり、涙を拭く。

 肩を組んだまま交番を出て、ぼくらはバイクに乗ってアキラくんの家を目指した。


 通りのゾンビの数は増え、バイクの音にふらふらと方向を変えたけど、アキラくんのバイクに追いつけるようなゾンビは居ない。

 ぼくたちはつつがなく、アキラくんの妹たちが待つ小さなアパートの前にある、砂利の駐車場に乗り入れることが出来た。


 静まり返ったアパートの周囲にゾンビの姿はなく、アキラくんは安堵あんどのため息をつく。

 錆だらけの階段を駆け上がる「カンカンカン」と言う音に気づいてゾンビが現れるんじゃないかと辺りを警戒しながら、ぼくもその後を追った。

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