灰の蛇
色と幾分かの艶を失ってもなお豊かな頭髪を隠す布は、鮮やかな紅で意匠化された薔薇が描かれていてもなお、その下の顔色の悪さを隠しきれてはいない。
「お祖母さま……」
むしろ主たる魂が飛び立った躯の蒼白さを際立たせるばかりで、娘はほんの数瞬前までは大好きな祖母であったはずの亡骸から、目を逸らさずにはいられなかった。しかしその先には、十年前に身罷った祖父から受け継いだ商いを力を合わせて盛り上げていた父と叔父の、幼子さながらに泣き崩れた姿があって。
言葉なく――大いなる悲しみのうねりに言葉など押し流されてしまったのだとばかりに啼泣する父と叔父は、逸れた母を懸命に呼ぶ獣の仔のようでもある。時に口先で反発することはあっても、心の奥底では愛し敬っている偉大なる父の子供じみた悲嘆に誘われたのか。娘の細く切れ上がった眦からとめどなく溢れる悲嘆は炎だった。
熱病に罹患したのでもあるまいにひりついた薄い頬をそっと撫で、熱を静める指は細く、かさついてしまっている。
最愛の伴侶たる夫に先立たれてもなお。孫娘の成長が何よりの楽しみだと、あなたが立派な方に嫁ぐまでは、と穏やかに微笑んでいた祖母。しかし忍び寄る病魔と老いには勝てず、ついに死が振るう大鎌に息の根を刈り取られてしまった女の世話を主に担っていたのは、実の孫娘ではなく嫁であったのだ。
「お祖母さまは本当に強い方だったわね……」
冷涼な草原からやってきたかつての支配者たる蒼き狼の裔に、大陸の中部と東部に跨る大河を北上してきた南方の民。加えて厳冬を迎えれば厚い氷に閉ざされる港の向こうからはるばる船を駆って訪れる、大陸中部北方――両手の指の数は容易に越える種々雑多な民族と言語がひしめき合う都の貿易商人の娘として生まれ、有する血は違えど同じ商人の男に嫁いだ母は、赤みを帯びた紫を潤ませながら呟いた。
「……誰よりもお辛かったのはお義母さま自身だったでしょうに、最期まで残される私たちのことを気にかけてくださって……」
母は二年前に、義理の母のみならず実の母をも喪ってしまっている。
――私は既に他の家の女だから、と苦しむ母さんを兄さんと手伝い女に任せてばかりだったわ。
母方の祖母の葬儀の夜。ひび割れた薄い唇を噛みしめた母は、その悔いを糧にしているかのごとく献身的に祖母を看病していた。娘の目から見ても、母もまた立派だったと思う。けれども今の母は、商路を拡張せんとの打算ゆえに結ばれてはいるが仲睦まじい伴侶同様に、幼子に返ってしまっていた。
高熱に魘されているらしき祖母を案じ、幽かながら拭い去りがたい死の影に覆われた床を目指した娘の細い目に飛び込んだのは、夜闇に覆われていてもなお明らかな錯乱であった。
「主よ、お答えください。わたしのあの子は一体どこにいるのですか!?」
一つに纏め、母が選んだ刺繍入りの布で覆われた細やかな髪を振り乱し、老女が慟哭している。深い皺が刻まれてはいるが品のよい、よく手入れされた銀細工を連想させる美しい面を歪めて。
善良ではあるが凡庸な祖父。また互いに祖父に酷似し、心根から滲み出る誠実を除いてはさしたる特徴を有さない、平凡な面立ちの父と叔父。二人の息子とは異なり、若かりし頃の祖母は類まれな美人であったらしい。
「なぜあなたはあの子をわたしに返し、そして再び奪ったのです!?」
であるがゆえに、雨に打たれた白い花のごとき儚く神秘的な美の名残をぐしゃりと崩し泣き叫ぶ老女は、かつて彼女が孫娘を寝かしつけるために紡いだお伽噺の
「わたしの可愛いあの子をお返しください! それすらも赦されぬというのなら、せめて居場所だけでも……」
こんな祖母の姿を知りたくはなかった。また、知るべきではなかったし、祖母は己の狂乱を孫娘に知られることを望んではいなかっただろう。だから母は、わたしだってお祖母さまの頭巾に刺繍する以外にも役に立てるわ、との申し出を頑なに跳ねのけていたのではないか。
直ちにこの場から、大いなる者への激昂の影に潜む悲哀を隠し切れぬ扉の側から立ち去るべきなのだと分かっているのに、萎えた脚は主の意を一笑に伏して跳ね除ける。
「お義母さま」
小さな、黄を帯びた白い面を引き攣らせた女は、旋風さながらに蹲る娘の側を通り過ぎる。母は、娘が路傍に転がる石であるかのごとく、震える我が子を一顧だにしなかった。そも解いた黒髪で顔を覆った、暗闇のさなかにあっては漆黒と見紛う紺を纏った自分は、焦燥する母の視界には映っていないのかもしれない。だからこそ母は、弛み病苦に絞られた汗が浮かぶ胸を暴いたのだろう。
一体何をなさるの、と驚愕に息を殺した、しかしこれからの一切を見逃してはならぬと瞠った泉の青の前で掲げられた巾着には覚えがあった。
「お義母さまの息子は“ここ”にいらっしゃるでしょう?」
母は痛みと苦味が混じった笑みを口元に刷き、慣れた調子で皺と染みに埋め尽くされていてもなお嫋やかな手に袋を握らせる。
「……ええ、そうだったわ。そうだったわね……」
すると啼泣する老女は傷心のあまり狂気に奔った鬼婆から、優しく慈しみ深い祖母に戻った。
「……どうして、」
踏みしめた長い裾の柔らかさから娘の存在に感づいた母、に刃か鏃めいた鋭い糾弾を投げかけられたのは致し方ない。後で追求と叱責は存分に受けよう。だが加齢と共にくすみ曇りがちになったが澄み切った、自分のそれとそっくり同じ一対の淡青には気づかれてはいけない。
「あなたにはいつも迷惑を掛けているわね」
はしたないと自覚しつつ、けれどもどうせ誰も通りはしないのだからと開き直りながら四つん這いで歩んだためか。祖母が吐いた自責と自嘲には、この場にはいないはずの孫娘の影を見出した驚きは混じっていなかった。
何故だか足音を殺して駆けこんだ居間で、自分よりも背が高い娘を仰ぎながら嘆息した母は、戸惑いながらももはや還らぬ過去を手繰り寄せる。
「これはお義父さまに教えていただいたことなのだけれど、お義母さまには、あなたのお父さまと叔父さまの他にもう一人息子がいたのよ」
青みを帯びた黒の下の蟀谷を揉みながら形にするのが、自らの在りし日ならばともかく、例え母と仰ぐ者であっても他者のものであっては。
「お義父さまと結婚される前、お義母さまが奴隷であった頃の主――私と同じ草原の民の男との子供らしいわ。でもお義母さまの主は横暴な男で、お義母さまや子供に暴力を振るっていた……」
そしてそれが流した激痛の紅蓮と絶望の漆黒に染め抜かれたものならば、糸紡ぎは鈍重なまでに慎重に、またぎこちなくならざるを得ないだろう。
祖母がかつて奴隷であったとは一度耳にしていたが、当時の主との間に子を産んでいたとは。
「お義母さまの長男は、目が赤い、でも顔立ちはお義母さまによく似て美しい少年だったとお義父さまはおっしゃっていたわ。だけど、その方は……」
その先を語る必要はないと、母は娘の沈黙から察したのだろう。
冷ややかな白銀の光の下に引きずり出された日々の悲惨さに伏せられた母と娘の目は、嵌めこまれた色彩は異なれども眦は共に吊り上がっている。蒼き狼の裔たる証の一つたる孫娘の目元に、病床に伏す前の祖母は幾度も接吻したものだった。
「お祖母さまがいつも懐に入れて大切にされている袋の中身は、あなたの伯父さまの遺髪なのよ。……私も一度だけ見せていただいたことがあるわ。こう言ってはなんだけど、蛇みたいにつやつやしてて綺麗な髪だった」
きっと、お義母さまが長年大事に手入れしていたのでしょうね。
静かに独り言ち、母は喪われた少年を悼む。長い睫毛を沈痛に伏せた娘もまた。まだ片手の指の数にも満たぬ幼児であった自分が、戯れに暴いては祖母に窘められていた喪失を偲んで。
「少し、三人だけにしてあげましょう。……お義母さまと、お父さまと、叔父さまの、親子三人だけに……」
途切れ途切れに押し出された提案に従ったのは、その対象である娘ではなく、母の年が離れた兄であった。
「一体どこに……」
「どこって……。僕は君の提案に従おうとしているだけなんだから、そんなに睨まなくったっていいだろう」
切れ長の目尻が特徴的な彫が浅い造作と黄がかった肌。時に青みを帯びる黒髪と赤い虹彩に続く草原の民の証たる
「……お義母さまの臨終に付き添ってくださったのはありがたいですけれど、だからといって葬儀をすっぽかすのを許す訳にはいきません。せめて埋葬が終わるまでは、」
「……僕はいつ君の義母の葬儀にすら欠席する冷血漢になったんだ? 良ければ僕に教えてくれないかい?」
ともすれば軽薄ともとれる調子で呟いた男は、東方の民特有の幼い顔立ちゆえに若く見えるが、その実娘の父よりも十近くも年上であった。母とは親子であってもおかしくない齢の差を有する伯父と、母の関係は良好であるのか険悪であるのか判然としない。言い換えれば、常にその間を行ったり来たりしていて掴みどころがないのだ。
「兄さんは母さんの時も、葬儀が終わったらそそくさと旅に出ていたでしょう!? 私を詰る前に、過去の自分の振る舞いを振り返ってみて、」
今にも怒鳴らんとしていた母が、しかし急に引き結んだ薄い唇を噛みしめたのは何故なのだろう。
「私の結婚式はすっぽかした上に、生まれた姪の顔を見に来たのはこの子が生まれた時と五歳になってからのただ二回だけ。これであなたを信頼できるはずはないでしょう……?」
はっと上げられた紫の目は、縋るような光に濡れていて。まさしく年端もいかない幼女そのものであった。
「……あなたは、そんなに私のことが気に入らないのですか……?」
「そんなことはないし、僕の行いゆえに君に誤解をさせていたのなら申し訳なく思う。だけど、分かるだろう?」
柘榴の双眸で物言わぬ躯をちらと見やり、伯父は肩を震わせる女の傍らを通り過ぎた。
「お母さまはお父さまたちの側にいてあげて」
慌てて逞しい背に垂れる黒の三つ編みを掴まんとした母を制し、娘は袍の後を追いかける。
「……伯父さま、」
庭で佇み彼方を見つめていた伯父の横顔はどこか張りつめていて、何をしているのと手を伸ばすのも躊躇われる。
「お母さまのおっしゃる通りよ。どうして今まで、どんなに誘ってもうちに遊びに来てくださらなかったの?」
千々に乱れる脳裏から絞り出した文句は、形にしてしまえば糾弾めいていた。しかし彫像と化した男は、失敗したと掌に薄紅の爪を食い込ませる娘を振り返る。
「私はもちろん、お母さまやお父さまたちも、伯父さまのことを待っていたのよ? もしも遠慮をなさっていたのなら、伯父さまはお母さまのたった一人のきょうだいなのだから、」
遠慮なんてしなくてもよかったのにと開きかけた唇は、紅の双眸のあまりの翳りゆえに再び閉ざされる。
「……君は、一体どこまで教えられているんだい?」
「え……?」
けれどもぐしゃりと歪めた顔を大きな筋張った手で覆った男は、娘に無言を許さなかった。
「君のお祖母さまが奴隷であったことは? かつての主との間に子供を産んだけど、その子供はもういないことは知っている?」
「どうして……?」
孫娘である自分にすらつい最近まで秘められていた祖母の過去を、どうして祖母とは血の繋がらぬ伯父が把握しているのか。疑念に寄せた柳眉に、男は慈しみが入り混じる嘲笑を浴びせたのだった。
「……ここまで言っても分からないかなあ? 僕はこれでも気を使ってたんだよ。初めて顔を合わせた時の、君のお祖母さまの様子の理由は、少しじっくり考えたら分かったから。例え他人とはいえ、自分を虐げて犯していた男と同じ名前の、同じ民族の男なんて、君のお祖母さまは顔を見るのも厭だろう、ってね」
伯父が躊躇いなく吐き捨てたのは、娘が直視を避けていた傷口であった。類まれな美少女であったという祖母は貧困ゆえに両親に売られた挙句、異民族の男に買われ、そうして無理やりに身体を暴かれ身籠ったのだろう。それでも、子の母として相応しく扱われるならばともかく、祖母とその息子は主人であり父である男の酒代を購うために売られてしまったとくれば。祖母がかつての苦難と恥辱に塗れた日々を封印したいと願うのは当然なのだが、祖母は気丈な女性だった。
「……それは違うわ! その、お祖母さまは思い出してしまっただけで、伯父さまのことはきっと……」
だから娘は薄い胸を張る。焦るあまり言葉足らずになってしまったけれど、
「お祖母さまの最初の息子って人のことを思い出して、その人が生きていたら、伯父さまみたいになっていたのかと考えて、哀しくなってしまっただけで……」
混乱する頭からは次に発すべき単語を引きずり出すのも困難だった。しどろもどろになりながらも想いの丈を曝け出した娘は、がくりと膝を折った男に手を差し伸べる。
「そう……」
しかしか細い指先を包んだのは、硬い掌ではなく湿った吐息に他ならなかった。
「だったら僕は、なおのこと君のお祖母さまに悪いことをしていたんだよ」
自嘲と自責にくぐもりひび割れた前置きに続いたのは、瞠目して注視せずにはいられない、糜爛した生々しい亀裂であって。
海を越えた西方の帝国のくびきに繋がれ、貢納国との焼き印を押された羊として囲われる、大陸中部南方のとある国。奴隷であった頃の祖母も流れ付いた山岳地帯で、貧しいながらも幸福に暮らしていた少年の故郷は突然に王の軍勢に焼き払われた。家族は奪われ、自身は奴隷とされた少年は、鼠を狙う猫よりも用心深く復讐の機会を窺う。
暗黒に落とされた彼の希求は異教徒の帝国の侵略という助けもあり叶えられた。宿願を果たし、襲い来る盗賊や追剥の血に塗れ、彼らの財によって己を養いながら故郷を目指していた少年は、山賊を撃退した腕を買われある商人一家に雇われ、やがて男児に恵まれなかった夫妻の子として迎えられた。
「僕は、本当は君の母さんの兄でもなんでもないんだ。だのに、のうのうと君たちの間に居座るなんてできやしない」
血が滲むまでに掌に爪を食い込ませた男は、彼が詳らかにした半生に関わらず自分の伯父である。
今からでも家に戻りましょうとほころびかけた微笑は、鮮血滴る慟哭に散らされた。
「随分長いこと気づかなかったし、君のお祖母さまは兄憎しで嫁をいびるような人じゃないから、僕がここに寄りつかなければいいだけだと思っていた。でも君が生まれて、あいつにそっくりな君の顔を見て、初めて……」
伯父の裡では一枚の完全な織物を成しているであろう連なりは、娘にとっては千々に割かれた断片でしかなくて。
「一つ、教えてくれないか……? 君のお祖母さんが死ぬまで握り締めてたあの袋、中身は……」
「……綺麗な灰色の髪の三つ編みだったわ」
娘の、祖母によく似た面差しに、伯父は誰の影を重ねているのだろう。
「――僕は殺した! 殺したんだ! あの娘だけじゃなくて、あいつも、君の祖母さんの息子をも殺したんだ!」
だから、僕を赦さないでくれ。お願いだから……。
とうとう大地に伏した男の絶叫は、狼の遠吠えめいていて悲痛だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます