若者よ、渡ってきなさい  Ⅱ

 水晶のごとく澄んだ冷気が濁る。黄金に引き裂かれた鉛の天蓋が滴らせる涙はいつしか大粒の真珠に成り代わっていた。触れれば消え去る、決して手に入らぬ雫に。びょうびょうと荒れ狂う大風の咆哮は鞭の撓りの余韻にも、いつか耳にした女の嗚咽にも似ている。

 愛し子の命を流行り病に刈り取られた母親の狂乱は、葬送の輪を外側から窺う幼き日のツァレの足を乾燥した大地に縫い止めたものだった。人もけものも、皆全てが等しく行き着く寝床に――悪しき女神の住居に吸い込まれる嘆きは、ついに枯れ果てることなく……。

 眼に飛び込む幻の悲嘆は、儚い白にすり替わっていた。幽けき花弁を撒きこみ吹き荒ぶうねりが全てを覆う。少女の震える指が掴む首も、ぬくもりを喪い凍る紅も。けものの狂乱に騒めく青の群れも、何もかもを。

 降り注ぐ雪は紗幕のようで、少女を外界から隔てた。白と紅のみで構成された世界にいるのは、呆然と立ちすくむ少女と少年のみ。灰色は悲嘆を零し続ける空そのものなのに乾いている。

 戦慄く唇は薄く、仄かに赤い。飛び散った飛沫に彩られた少年の唇は、ツァレのそれよりも艶のある、淡い薔薇色をしていたのに、

「ルヴァ、シュ」

 未だ柔らかな花弁は蒼ざめ、一切の血の気配が失われていた。ほんの数瞬前まで、生命と熱が流れていたのだとは信じられないほどに。

 春の日差しか小川のせせらぎのような高音を紡いでいた喉は、己が手で断ち切ってしまった。だからもう、この唇は動かないのだ。親しげに自分の名を呼ぶことも、哀しみに打ちひしがれて緩やかな曲線を頑なに引き結ぶこともない。目蓋の奥の苔の緑の双眸はもう永遠に自分を映さず、あの星の輝きを見つめることもできない。

 ツァレが焦がれた、彼がこの世にある泡沫の合間だけでもいいから自分のものにしたいと望んだ唯一は、破壊されてしまってもう戻らない。

「ぜったい、いきて、もどる……て、いった」

 銀の睫毛から白皙の頬に滑り落ちる氷片は熱と激情を啜って蕩けるのに、茶の長い睫毛に絡まるそれはいつまでもそのままで。

「うそ、つき」 

 悲嘆と困惑、そして僅かな――裏切られた怒りがないまぜになったうねりを、まろい曲線を描く頬にぶつける。生命ある時よりもなお蝋めいて滑らかな肌の冷たさと弾力には、ぞっとせずにはいられなかった。肌理細やかな皮膚を破る爪は赤に濡れず、亀裂は艶めかしい桃色を晒すのみ。

「……こたえてよ」

 半ば意味を成さぬ問いに応えはなく、ひび割れた喘ぎは虚無に吸い込まれ消えてゆく。

「ねえ!」

 己が役割を放棄し冷たき褥の上にへたり込んだ脚の末端は悴み、もはや氷と化している。このまま雪の一部になるのではないかと不安になるほどに。久方ぶりに顔を出した太陽はやはり面紗を被ったままで頼りないのに、柘榴の枯れ枝から垂れる氷柱の光は凍てついていた。実体を備えぬ白金の矢は、どこかあの柘榴の棘と思い起こさせる。

 ほんの数か月前なのに、遠い昔のように現在と隔てられた夕べに刺さった、聖なる樹の棘。もはやツァレの一部になった苦痛は、微かに膨らんだ胸部を、僅かばかりの脂肪と筋肉、脆い骨に守られた肉塊をも貫いた。

 がんがんと、己の裡で奏でられる狂った破鐘の音が、過去と現在の間に聳える城壁を打ち壊す。槌も石もなく崩壊する石の山。少女が握った断片は、懐かしく慕わしい父と共に積み上げたものだった。


「ねえ、おとうさん」

 在りし日の自分の、稚ない笑いが脳内を掻き乱す。

「どうした? まだ訊きたいことがあるのか?」

 むずがる赤子にそうするように、がっしりとした父の腕に抱えられたツァレは笑っていたのだ。

 同胞であるはずの女の、家事によって荒れ果てていてもなお嫋やかな指で押し込まれた氷。あるいは柘榴の棘は父の愛とぬくもりによって融かされたのだと信じて。自分と同じ灰の双眸に過った翳りに気づこうともせず、無邪気に。

「……あたしたちがこれ以上罰をうけなくてもいいことはわかったけど、」

 何とはなしに解き放った蟠りが、逞しい胸をどれ程切り裂くかなど、考えもせずに。

「人間は、何をやったらあたしたちと同じになるの? “わるいこと”ってどんなことなの?」

 成長し断末魔の絶叫や脈打つ心臓の滑りと、己が手が血に染まるたびに生じる胸の軋みを知ったツァレならば、これがどんなに残酷な言葉だったのか理解できる。そして、一切の逡巡なしに無分別な幼子の口を封じている。何も知らぬお前が知ったような口を利くな、と。

「どうしてそんなことが気になるんだ?」

「なんとなく」

「お前は変なところで知りたがりだな。そんなところもネリに似てるよ」

 それでも、もはやツァレの記憶の中にしか存在しえない父は、穏やかに口角を吊り上げ、娘の銀の髪を掻き乱した。

「これは俺の考えだけど、神様の懐は広いから、ちょっとぐらいの盗みだったら正直に申し出て謝ればきっと許してくれる。喧嘩して、その気はなかったのに相手に怪我をさせても、ちゃんと手当をして謝れば、多分。……ま、取り返しのつく怪我だったらの話だけどな」

「じゃあ、なにをやったらだめなの?」

「人殺し」

「ひとごろし?」

 けれどもうっすらと加齢と疲労の証を刻んだ面に張りついた笑みは苦く、引き攣れていた。

「人間は、人間を殺したら人間じゃなくなる。それが、俺の答えだ」  

 いずれ己の後を継いで処刑場に立つ娘を守るために、父がついた優しい嘘と秘められた真意を、幼子は見抜けなかった。

 自分は、やはり愚か者であったのだ。だからこの侘しい終焉の場に牽かれる者たちはけものではないのだと、たとえ恐ろしい罪を犯しても人間であるのだと分からなかった。

「何も怖い事はないんだぞ。処刑は罪人を救うためのたった一つの方法なんだ。お前がもしも人間だったら、何度も生まれ直して、自分が自分だったことも忘れるぐらい長くこの世を彷徨うよりかは、ちょっと痛い思いをして楽園に行く方がいいだろ?」

 この処刑場に牽かれては、非情な刃の紅い露となって散っていた生命が人間のものであるからこそ、自分たちは神殿に飼われているのに。永劫に等しい生まれ直しの責苦から罪深き子羊を解放するためだけに、存在を赦されていたのに。耳と心に快い言葉だけを胸に留めて。本当に父が伝えたかったであろう真実を忘却の淵に投げ捨てて。

『でも僕は、世話をしていた羊が殺されると悲しかったな』

 いつかのルヴァシュの呟きの陰に潜む真実にも、この悪しき世で蠢く生ある者たちの繁栄の刻を待たずに帰ってきた少年からも、ほんの少しの勇気と知恵があれば感づけたはずの一切から目を背けて、

「……あたしが、ころした」

 ツァレはルヴァシュを屠った。ルヴァシュだけではない、両の手足の指の数を越える人間たちを。これが己に課された贖いであるからと。運命という不確かな代物を、それがあれば全ての業が清められる護符のように振りかざして。

 己を想う者たちの慈悲を払いのけ拒絶した傲慢の代償が、震える腕の中の強張った首なのだ。

 生前同様に柔和で優しげな面には苦悶の痕はない。口元の赤錆を除けば。だがその事実は、ツァレがルヴァシュを殺したという罪の償いにはならないのだ。

 ――主を傷つけた家畜は罰せられなければならない。

 強風に嬲られる毛髪ではない銀色が、か細い首に突き付けられる。そしてそれはそのまま白皙の皮膚にめり込んだ。

 数多の人間たちに与えてきた感覚を実感したのは、ほんの瞬きほどの間だけだった。迸る熱は手元からすり抜け、強風に嬲られどこかに飛んで行ってしまって。

 少女が鞭の一振り二振りや、燃える鉄の焼き印でなお贖えぬ咎の代償に差し出したのは、己が生命。鋼鉄の切先が柔な肉から引き抜かれ、青く透ける管から紅蓮が噴き出した。

 上質な葡萄酒のように。いつか大切な少年と並んで眺めた夕陽のように鮮やかな流れは、黒ずみ雪と入り混じった赤と交わり、一つになる。滴り落ちた雫の幾つかは大地に啜られることなく凝って地表に留まったが、ふらつく足は己が生命をも踏みつぶし砕いた。

 焼き鏝を押し当てられたのかと錯覚する昂ぶりが項から上腕までを濡らす。指先まで伝う苦悶の源は激しく脈打っていたが、その勢いもじきに治まった。痛みの波は他のあらゆる感覚と共に彼方に退いてゆく。

 幾度となく骨が浮いた背を戦慄かせた冷気は、ツァレには縁遠いものになった。両の耳殻は無意味な飾りと化し、熱に浮かされた頭に風の音すら伝えない。鋭敏な鼻と舌はむせ返る鉄錆を感知する役目を放棄した。小さな顔に据えられた一対の虚無は――光の白と闇の黒の狭間でせめぎ合う無彩色は、緩やかに暗澹に呑みこまれる。

 ついに用をなさなくなった四肢はぐらりと傾ぎ、胴は冷ややかな褥に受け止められた。常ならばツァレを苛めていたはずの衝撃ももはやない。少女はあえかな微笑を浮かべるが、徒花は実を結ばぬまま散っていった。

 もうすぐ、ツァレは還るのだ。いつか思い描いた色鮮やかな宵闇ではなく、始まりの混沌に。父母やきょうだいたちがその一部となった温かで賑やかな冥暗ではなく、輝かんばかりに白く冷たい、侘しい闇へと。

 ツァレは魂を宿さぬけものである。死した後も至高神の楽園での再会が約束されている人間とは異なり、息絶え原始に還元されればもう二度とルヴァシュと会うことは叶わない。

 ずっと伝えたかった想いを聞く者はこの世にいない。彼の肉体はこの場に、ツァレの腕の中にあれども、心は。魂は。

 おおよその生命を吐き出した身は強張るばかりで、劫火の河に向かっているはずの少年を呼び止める力など残されてはおらず、舌は強張るばかりで悔恨を形にすることすらできない。

 それでもなおツァレにできるのは、赦されているのは――

 ぼやけ霞む眼は暗黒に侵食されていたが、眼裏に焼き付いた笑顔は色褪せない。

 人間は、こうやって……。

 そっと重ね合わせた唇はかねて思い描いていたように柔らかかったが、雪のように冷え切っていた。最初で最後のくちづけは血の味がした。己のものとも彼のものともつかぬ鉄錆は苦かった。

 薄い目蓋に凍った天空の涙が降り積もる。ぬくもりを手放した白皙はもはや氷を融かさない。淡く開いた唇の合間から忍び込む冷気の塊に堰き止められずとも、か細い息の根は途絶えるだろう。そしてツァレとルヴァシュは分かたれるのだ。

 だが、白い死はやがて訪れる永遠の別離が齎す悔恨と絶望に比べれば、優しく温かだった。

 もしもツァレが人間だったら。ルヴァシュと再会できるのなら。きっと、彼の足元に頭を垂れて己の罪を乞うだろう。彼が天上界で幸福を掴む様をこっそりと見守るだろう。だがそれらは、二つ脚であるツァレには叶えられぬ望みなのだ。

 だから少女は、無に呑みこまれる生命の、消えかけた残り火をかき集める。己にできる最も美しい笑顔で旅だつ彼を見送るために。

 ――あたしはルヴァシュのことが好きだよ。ずっと、ずっと。もしかしたら、出会った時から。あたしが人間だったら伝えられたかもしれないのに。伝えたかったのに。

 さよなら、ルヴァシュ。

 永遠に彼に届かぬと知悉してなお手向けられた華が、少女とも少年ともつかない面を無垢に、娘らしく彩る。最期の笑みはそれを受け取るべき者と共に、深々と降り積もる白に埋もれて消え去った。

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