その羊をわたしの祭壇に奉げなさい Ⅲ

 都を護る黄褐色の凝灰岩が切り出された採石場の跡地が、いつから牢獄として用いられるようになったかは判然としなかった。この都がペテルデの中心と定められてからずっと、と耳にした憶えもある。しかし一方で、ぽっかりと開いたままだった虚無の口に犠牲が奉じられ始めたのは、つい最近のことだったとも思うのだ。都の牢獄は既に憤る民衆に捧げられる羊でひしめき合っていて、これ以上はもう入りそうにない。

 なけなしの気力で保つ意識は、ともすればぷつりと千切れる。細い細い糸を切断するのは、眩暈や吐き気だったりした。ルヴァシュのいる牢に閉じ込められた咎人は両手の指の数を優に超えている。ただでさえ希少な空気を彼らと分かち合うと、ルヴァシュに配分される量は自ずから少なくなる。

 音もなく這い寄る蛇さながらの眠気を振り払うべく、深く深く息を吸う。うらぶれ荒んだ顔をした男達や自分から発散される据えた臭いと黴臭さには、既に慣れた。人工的な岩窟はとてつもなく狭量で、己が獲物に身体を横たえることさえ許さない。小柄なルヴァシュでさえ息苦しさを覚えるのだから、成人した、相応の背丈と肉を蓄えた男にとってはなおさらだろう。

「しっかりしろよ、坊主」

 ルヴァシュに声をかけるのは、一番の古株の男。穀物を扱う商人であった彼は、秤に細工を施し不正に利を貪ったために、この陰惨な暗がりに放り込まれたと聞いた。

「……あなたこそ」

 そう言葉少なに己が来歴を詳らかにした男は、ルヴァシュがここにやって来た・・・・・日はまだ新顔だった。だが彼や自分より先にいた罪人たちは皆、外に引きずり出され、二度と戻ってこなかった。

 暗闇に馴染んだ目にとっては、厚い雲に遮られた朧な光でさえも凶器になる。ぎらぎらと冷徹に伸びる一筋は、己が首と命を断ち切る鉄斧の煌めきだ。

 獄はじめじめと湿って悪臭が蔓延しているが、温かい。石の扉ががたがたと軋み、清浄だが凍てついた風に頬を撫でられると、粘つく汗で濡れる背筋は慄き歯は騒めく。今日は、物々しく武装した神殿兵に肩を掴まれずに済んだと安堵しても、その一瞬後に湧き起こる明日は我が身との恐怖は拭い難い。   

 もしも、身を寄せ合い互いを支え合う者もなく、たった独りでこの冥闇に閉じ込められていたら。

「怪我は治ったか?」

「ええ。おかげさまで」

 ルヴァシュはきっと、とうに狂い果てて自分を喪っていただろう。

 強張った頬を持ち上げると、傍らの男が笑ったことが気配で――熱を孕んだ大気の動きで察せられた。

「そうか、良かったなあ」

 野太い呟きに滲むのは、偽りのない善意だった。明日も知れぬ身に傷が増えても構いはしない。むしろ、それが自分に相応しい裁きなのだ。ずっとずっと、声なき悲痛な叫びに耳を傾けつつも少女に救済の手を差し伸べなかったルヴァシュは、ここにいる誰よりも罪深い。

『私はただの旅の商人ですが、あなた方が探す罪人を偶然に発見したので』

 だから、ゼドニヤに背かれ神殿に売られ裁きの間まで牽かれ、

『悪魔の力に魅入られた者の末路は憐れなものだな』 

 涜神罪を言い渡されても仕方がなかった。

 全てを諦め、華奢な四肢に圧し掛かる盗人の重みを受け入れようとしたルヴァシュを救ったのは、名も知らぬ男だった。以来、ルヴァシュは故郷に残した父や兄とどことなく似た彼の側にいる。身も心も弱いルヴァシュは、他者の力を借りなければ自分を守れない。何度も何度も突き付けられた事実の切れ味は、相も変わらず鋭く薄い胸を抉った。

「あの時のお前、酷かったもんなあ」

 ざらついた指先が、白さと滑らかさを取り戻した頬に触れる。

「あなたがいてくれたから、平気でしたよ」

 愛撫を不快に感じないのは、彼が確かな血肉とぬくもりを備えているからだろう。死した男の薄汚れた――自分を含めて、この洞にいる者は皆そうだが――指に顎を掴まれ、無精髭と濃い体毛のざらつきに身体を弄られた際などは、嫌悪のあまり全身が粟立って、嘔吐感まで催したのに。

「でも、なあ。……俺は、神殿も、こんなガキをよくここまで痛めつけるもんだと呆れたよ」

「それは今更でしょう?」

「そりゃ、そうだ」  

 がははと軽快な雄叫びは水滴滴る天上に虚しく反響して消えてゆくばかり。死と断罪を待つばかりの、がくりと頭を垂れる男達は、身じろぎ一つせずに彼方を見つめている。笑いは燦燦と陽光降り注ぐ青空の下で奏でられてこそ、人の心を賑わせ華やがせるのだ。

「俺のガキの時もそうだったもんなあ」

 ルヴァシュはこの人が良い男が神が定めた則を越えなければならなかった理由を知っている。

 やはり穀物を商う商人の下に生まれた彼は、長じてからは父の生業を引き継ぎ、やがて相応しい妻をった。長年待ち望み神殿への寄進を重ねてようやく得た一人息子はひどく病弱で、男はやがて薬代や医師への礼金の工面に頭を悩ませるようになった。そうして彼は己が心に住まう悪魔に膝を折って……。

 神殿兵は、病に喘ぐ身に鞭打って自分を庇う息子までをも連行したのだと男は嘆く。

「……でも、もしかしたら、」

「お前の気持ちはありがたいけど、慰めはもういらねえよ」

 ――恐らくあの子にはもう二度と会えまい。零される吐息は埃に塗れ縺れる毛先をそよがせた。溜息は吹き荒ぶ木枯らしよりも優しいのに、哀しかった。

 ぐしゃりと白茶の頭を掻き乱す掌は大きく、硬い。

「それより、お前の方はどうなんだ? その銀髪のかわいこちゃんと、一回ぐらいは接吻したりしたんだろ?」

「……な、なに言ってるんですか!?」

 ルヴァシュが憧れ、焦がれた大人の男の屈強さが旋毛から爪先までに染み渡る。

「僕たちは、全然、そういうのじゃないんです!」 

 じわじわと膜を張る涙を誤魔化すために声を張り上げると、忍び笑いが降ってきた。

「そんな風にムキになって否定するのは、“僕はあの子のことが好きです”って答えてるようなもんだぞ」

「ちちちち違います! 僕は、ただ、」

 日に一度差し出される麺麭と葡萄酒もないのに身体が燃える。頬が、両脇の耳殻までもがみるみるうちに紅潮し、左胸の器官が跳ねる音が煩かった。

「自分が死んでもいいから、その子を幸せにしてあげたかったんだろ? 惚れてもない女のために、そんなことはできねえだろ」

「……そうかもしれません。でも、」 

 少年は長い睫毛に囲まれた緑の眼を伏せ、擦り切れ穴だらけの牛皮の向こうにいる少女を想う。

 寒さに凍えていないか、ちゃんと食べているのか。とめどなく溢れ出て来る心配のせき止め方は、ルヴァシュには分からない。 

「でも?」

「僕は、ツァレがいつか結婚して子供を産んで幸せになってくれるのなら、ツァレに忘れられてもいい」

 自嘲を滲ませた苦笑が刻まれた口元を覆う手の甲には紅い線が奔っている。この傷を得た夕べ、ルヴァシュはツァレと新たな宣誓を交わした。あの誓いを果たす日は、永遠にやってこないだろう。唐突に愛する者との断絶の刃を突き付けられた男と同様、ルヴァシュもツァレに挨拶一つ手向けられぬまま死んでゆくのだ。

「お前は、その子がいつか他の男のものになって、他の男のガキ産んでも本当に喜べるのか?」

「……ええ」

 ルヴァシュは、中性的な面を娘らしく彩る無垢な微笑みを向けられるに値しない。ツァレには、力強く逞しい男の腕こそが必要なのだ。あの細く痩せた身体を持ち上げることさえ叶わない自分は、彼女を守れない。むしろ、負担になるだけだ。だから自分はいっそこのまま彼女の目の前から消えてしまった方がいい。

 結果的にツァレを欺くことになったのは申し訳ないが、あの子はぼんやりしていても存外に鋭いから、来るべき刻が巡れば自ずと理解してくれるだろう。ルヴァシュはもうこの世にいないのだと。死した者との約束など、忘却してしまっても構わないのだと。

 入牢した直後は何としてでもここから出て、ツァレに別れを告げなけばならないと脱獄を計った。両手の爪全てが剥がれ落ち、柔な拳がひび割れても頑なに聳える石の扉に挑んでいた。だが、今では全てを受け入れている。

 ツァレは――父親を喪って以来独りきりで世界と戦ってきた少女は、ルヴァシュのような怯懦で惰弱な人間を待ち続けるほど愚かではない。だから、もう大丈夫なのだ。

「ツァレは、僕がいなくても幸せになれる――幸せになるべき人間・・だから」 

 己の裡から吹き出る望みを吐き出すと、何故だか身が軽くなった。頭には眩暈が巣食い、四肢の末端が痺れているのは同じなのに、心持ち一つで鬱鬱とした圧迫感を漂わせる穴さえも慕わしく目に映る。人の手によって拵えられたのか自然の力によるものかの違いはあるが、今この瞬間、ルヴァシュもツァレも洞の中にいるのは同じだ。

 自分はもう決して良い夢など見られそうにないが、彼女にはどうか温かで幸福な夢を。  

 跪いて手短に祈りを捧げる。緩やかに目蓋を開くと、目を潤ませて鼻を啜るやつれた面が飛び込んできた。

「そうか。……お前、偉いなあ」

 どんなに少なく見積もっても中年に差し掛かっているはずの男の仕草は少年めいていて、不思議な愛嬌があった。 

「よしよし。お父さんが抱っこしてやるからな」

「やめてください。誰がお父さんですか」

「俺に決まってるだろ」

「僕のお父さんは七十を超えた羊飼いで、四十半ばの商人ではありません」

「そんな細かい事気にするな」

 もっと早くに、こんな人と出会っていたかった。この人と、もっと話がしたい。

 長く顔を合わせていなかった親子のように夜通し語り合った男と少年にも、やがて別離の刻は訪れる。

「来い」

 腰に剣を佩き甲冑に身を包んだ神殿兵が掴んだのは、狭苦しい黄褐色の檻でひしめく羊の中で、ただ一匹の若仔。

「……さようなら」

 久方ぶりに直視した空はツァレの瞳だった。灰色は嵐の気配を纏いつつも、小康を保っている。べたつく髪を、垢で汚れた衣服を、飢えよろめく手足を清める白はない。

 泥跳ねが目立つ皮靴の下で、柘榴の小枝が乾いた悲鳴を上げる。刈り取られる者として眺める処刑場。ここで彼女と出会ってから、まだ一年も経っていないのに、自分を取り巻く環境は何と目まぐるしく変転したことだろう。

「飲め」

 手渡され薬湯は濁っていて、とても口を付ける気にはならなかった。繁茂する藻のようなどろりとした緑にぼんやりと映る少年の顔はやつれていて、俄かには自分だと認識できなかった。

 少年は眦の雫を恥じ、乱雑に目を擦る。潤む視界はゆっくりと――だが確実にこちらに歩み寄る人影を捉えた。苔の緑の双眸は零れ落ちんばかりに見開かれる。

 神殿で飼われる幾つかの処刑用のけものの中で、たった一人の子供。少年とも少女ともつかぬ、性の区分が曖昧な、未発達な身体の線は、間違いなく……。

 曇天の下にあっても見事な、凍てついた白銀が眼裏に、魂に突き刺さる。自分があの子を見間違えるはずはない。

 垂れ込める雪雲に覆われた灰色の天をも超えた楽園で坐す神が齎した邂逅は、少年にとっては絶望でしかなかった。大いなる者の意図は卑小なる身で察するには尊すぎるが、これはあまりにも無慈悲で残酷すぎる。

 確かに自分は、あの子にもう一度会いたいと希った。だが、こんな再会は望んでいない。今はまだ春ではない。蟻もいない。全てが早すぎるのに、もう手遅れだ。

 逃げなければ。この処刑場から、自らの背信に下された神の罰から。己を取り巻く全てから。

 反射的に導いた答えは、異変を察知した兵の拳によって妨げられた。

 ――来ないで。

 千々に乱れる意識は鳩尾に食い込んだ一撃と薬湯の苦味に呑みこまれる。そうしてだらりと垂れる肢体は処刑台に据えられた。

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