その羊をわたしの祭壇に奉げなさい Ⅰ

 丸い踵に亀裂が奔った。紅い流れは黒ずんだ栗鼠皮に染みを残す間もなく涸れるのに、じくじくとした疼きはいつまでも治まらない。ほんの僅かながらに少女らしいまろみを乗せた胸と同じだ。

 父が死して以来幾度となく目にしてきた、そしてこれから己が手が作り出す惨状の残影は眼裏にこびり付いていて離れない。引き抜いても引き抜いても、頑なに芽を出し葉を広げる雑草が付けるのは、赤黒い毒の花だ。滴る毒がこの双眸を灼けば、いっそ楽になれるだろうか。臓器のぬらぬらとしたおぞましい光沢は、骨が浮いた背を戦慄かせる。

 光を手放す恐怖と引きかえに、忌まわしい苦辛から解放されるなら。

 数か月前の、父を喪ったばかりのツァレならば前者を選んだだろう。しかし今はむしろ、翳りゆく頼りない太陽よりも、父母やきょうだいたちがその一部となった永久の闇を慕わしく感じることがあった。

 獰猛な冷気を遮らぬ、擦り切れみすぼらしい衣服と薄い腹の合間には、ツァレの体温を吸って温もった木片がある。

 固く締めた帯が挟む茶色の表面には粗くささくれた窪みがあった。幼児が気まぐれにのみを振るったとしても、これよりはまっとうな出来になるだろうと呆れてしまう、粗雑な葡萄。幾つかの丸を並べただけの単純な房は荒々しい剣によって引き裂かれていた。

 五つの、砕かれた葡萄。それはまさしくツァレがもぎ取る生命の象徴なのだ。 

 脈打つ心臓とも捉えられる果樹の稚拙さは原始に通じるがゆえに生々しく少女に迫る。だからこそ自分は、洞窟中に湿った打音を響かせた板を投げ込んだ者を、追求しようともしなかったのだろうか。昨日、ツァレは午睡を貪っていた。和らぐ気配など欠片もない冷気から逃れるべく、父の名残などとうに消え失せた山羊皮に包まった少女を襲ったのは、うつつに切迫した悪夢だった。

 脳裏に、憶えのある毒の花弁が散らばる。紅い紅い一片は鮮血滴る肉塊と化した。頬は張られても打たれてもいないのに、乾いた口内は鉄錆の苦味でむせ返る。

 雪に埋もれる通りは城壁の内側――聖なる都の一部だというのにしんと静まり返っていて、人の気配は無いに等しい。ツァレを人間の少年だと勘違いして豊満な胸元を曝け出した娼婦たちも、衣の青を葡萄酒の赤や吐瀉物の濁った黄色で汚していた神官たちも皆どこかに行ってしまった。名も知らぬ、言葉を交わしたこともない彼ら彼女らの幾人かと再会を果たした場は未だ遠い。

 ふと頤をあげて仰いだ、ツァレの瞳そっくりの灰色を切り取り狭める石は風雪に削られ、胃の腑からせり上がり喉をひりつかせる酸そのもの黄に変じている。白き気高き峰は、濃い靄に覆われていて見えなかった。

 ツァレと太陽から炎を盗み出した英雄が繋がれる山々――そこには迫りくる蛮族を討伐すべく、彼の地に向かった少年がいるはずだった――を分かつのは途方もない隔たりだ。天上の神々にとっては一歩に等しい道は、時にその険しさで卑小なる地上の生き物の生命を奪う。

『だから、ツァレも生きていて。……どんなことがあっても、絶対に』

 光の加減によって蜂蜜の深い金を纏う白茶の髪は牧草の芳しさを漂わせている。優しい曲線で構成された桃色の唇には苦痛の呻きなど似合わない。

 ――名を呼ぶことすら赦されぬ至高神。あるいは大神ヤシャリよ。

 凍てついた陽光は厚い雲に遮られてもなお直視に耐えず、少女はそっと目蓋を降ろした。 

 あたしは、まだ耐えられる。だから、どうか、ルヴァシュの痛みをあたしに。

 舌に乗せられることのない祈りは、風にまかれもせず、凍り付いて大地に堕ちもせず、ふわふわと虚空を彷徨い久遠の彼方に飛んでゆく。ひしと閉ざされた眼は己が願いの行き着く先を見据えることも、細い肩を掠めたぬくもりの主を感じることもなく。

 曇った天空を宿した虹彩は、踏み荒らされ汚された雪を映して怪訝そうに細められる。

「……え?」

 うらぶれた通りに点々と散乱する靴跡。ほとんどが成人の大きさを示す薄青い窪溜まりには、憶えのある少年のものが混じっていた。


 ◇


 汚泥を啜った靴の底から寒気が這いのぼる。刃のように肉を刺す冷たさは厭わしいが、ルヴァシュはこの刺激を歓迎した。節々を苛む不快な熱を鎮めてくれるものなら、何だってありがたい。

「大丈夫? 君、こっぴどくやられちゃってたもんね」

 吐き捨てた言葉とは裏腹に、心配など欠片もしていないことを隠そうともしない青年の表情は場違いに明るい。歓声をあげて口笛でも吹きそうなくらいだ。

 役に立たぬ虚勢を張ろうとしたが、身体中を蝕む疼痛がそれを許さなかった。

 ほんの一歩足を進めるだけで、割れんばかりの痛みが奔る。心臓から肺にかけてはちくちくと痺れ、脇腹は針が押し込まれているのかと錯覚するほどに引き攣れた。押し殺そうにも殺しきれない咳は喉をひりつかせる。縮こまるばかりの舌では持て余す血の味は、切れた口内から広がっているのだろう。

「まだ痛むんだろ? 良かったら、肩を貸してあげようか?」

 ばん、とわざとらしく大げさに――彼が自分に向ける敵愾から察するに、実際にわざとなのだろうが――背を叩く手は、千々に乱れる頭を覆う靄を切り裂いた。

 視界を掠める痛んだ銀は、いかにも冷たげな光沢を放っている。

 ツァレは、頬を張られ鳩尾には拳を沈められ、腿を踵や爪先で抉られてもなお前に進もうとしていた。ルヴァシュは、たったの数発で立ち上がれなくなったのに。あの少女が舐めた苦杯の足元にも及ばぬ、比べることすらおこがましい痛みの残滓は、緑の眼を霞ませる。

 こんな、ほんのちょっとの痛みで弱音を吐いてはいけない。だって、ツァレはもっと苦しかったのだから。

「……結構、です」

 癖のある前髪から滴る汗は痛々しく腫れあがった頬を撫で、噛みしめすぎて切れた口の端をひりつかせた。

「そう? でも、」

 乱れたルヴァシュの衣服とは対照的な、細かな刺繍が施された外套の隠しに嫋やかな指が伸びる。

「これで君はもうお尋ね者だ」

 しなやかに長い白皙は黄ばんだ一葉を挟んでいた。ルヴァシュたちペテルデの民のほんの一握りは親しんでいても、異邦人の目には幼子の落書きに等しい文字の連なり。

 要塞はどこに設けられ、兵力はどれ程分散されているのか。弱点となり得る地形は。

 ルヴァシュの故郷のような小村の租税収入から都を囲む城壁の補強工事の記録までを、仔細漏らさず書き留めた紙の束。

 本来は神殿の奥深くに秘め隠されているはずの羊皮紙の束に記されているのは、ペテルデの最重要機密だった。


 過行く過去と巡りくる未来の狭間。旧い年の恙ない終わりと新たな年の幸福な始まりを願う人々や神官の目を盗んで、ルヴァシュがあるべき場所から盗み出した文書の喪失が発覚した次の日の朝。

「ルヴァシュ・スタヴィリ」

 ツァレに偽りの別れを告げ、まんじりともせずに夜を明かした少年に突き付けられた刃は鋭かった。

 惨めな敗戦を重ね、民草の不満を逸らすべく次々に処刑を重ねる神殿において、もはや驚かれることすらなくなった光景。街々にたむろする娼婦たちや戒律を破った神官たちを至高神の下に送り届けた贄の役目が、とうとう我が身に降りかかってきた。 

「大神官様がお呼びだ」

 ――別に、殺されてもいいじゃないか。だって僕は、それに相応しい罪を犯したんだから。

 決心を固めていたはずのルヴァシュの足を普段の倍以上の速さで動かし、神殿兵の隙をついて逃走させたのは、銀髪の少女との約束だった。

 ルヴァシュは生きなければいけない。この国が滅びても、数え切れぬ罪のない人々が異国の兵の剣の露となっても。

『そっか。じゃあ、あたし、待ってる』

 木々にぶつけた肩が軋んでも、鋼の切先や柘榴の棘に裂かれた皮膚から粘ついた赤が流れていても、走らなければならない。

『ずっと、ルヴァシュのこと、待ってるよ』

 ツァレを幸福にするために。あの無垢な笑顔を守るためにはどんなことでもすると誓ったのだから。

 生え際から滲み出た透明な珠が、額を伝って首筋まで流れ落ちる。行方のあてもなくがむしゃらに、ただひたすらに神殿から――死から離れるべく酷使した脚はふらつき、己が体重を支えようともしなくなった。

 人気のない、薄暗い路地に身を隠し、荒れ狂う心臓を宥める。睫毛に絡まる汗が不快で、ごしごしと目を擦ると、ぼやけた視界が鮮明になった。

「……ここは」

 疼痛の面紗を取り払った緑の前に現れたのは、馴染みのある「羊の門」前の街並み。幾度となくツァレと並んで歩み、イオネと出会ったこの通りには、隊商宿があるはずだ。イオネに連れられ訪れた、ゼドニヤ率いる隊商――と身を偽った密偵のしばしの住まいが。

 皮が擦れ、肉刺が潰れた足はもう無理をさせるなと訴える。ルヴァシュは声なき叫びを退け、記憶の澱に残る道筋を這いまわった。

 ツァレは、もっと、苦しかった。

 胸の奥深くに大切に仕舞い込んだ少女の笑顔は生を命じるのだ。己が欲するのは希望ではなく、むしろ絶望に近しいものだと分かっていてもなお。

 なけなしの、葡萄酒の搾り粕さながらにぐずぐずに崩れた体力と気力を振り絞り、かつて叩いた扉を殴打する。

「おや、ルヴァシュ。久しぶりだね」

 イオネではない従者に付き添われたゼドニヤは、顔中に細かな擦り傷を刻んだルヴァシュを一瞥すらもしなかった。

「僕はもう二度と君に会いたくなかったよ」

 整った唇から謳うように紡がれたのは性質の悪い戯れか、偽らざる心情なのかは判然としない。

「……分かって、ました」 

 けれどもルヴァシュは、差し出された冷たい手を取らずにはいられなかったのだ。 


「もう、後戻りはできないね」

 研ぎ澄まされた悪意は猫の爪のように少年の心に食い込む。尖った指先が熱を帯びた部位を撫でると、くぐもった悲鳴が零れ落ちた。

 曖昧な微笑を湛える面には嗜虐の影が射している。 

「別に、もう、構いません」

 仄暗く歪な愉悦は音もなく忍び寄る蛇。それと気づいた瞬間には時すでに遅く、四肢に絡みつく毒は既に心臓にまで回っているのだろう。

「僕は、とっくに罪深い身だったから。これ以上どんなに神を裏切っても同じなんです」

「ふうん。異端にしては殊勝な心掛けだね」

 そっと仰いだ空は暗雲で埋め尽くされている。ツァレの双眸そのものの鉛の天蓋は穏やかに凪いでいるが、嵐の予兆を漂わせてもいた。

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