第11話 アフターヌーンティーと記憶
夏が終わり、秋となり、さらに冬になって、とうとう3月。
もう数日で幼稚園生活が終わりというところにきていた。
『星の王子様』はあれから何度も繰り返し読んだ。
ひとつひとつ単語を調べ、ノートに書き出した。
フランス語は少しだけ英語やスペイン語に似ている単語があった。
発音が全くわからないから、兄や貴也、たまにパパに聞いたりした。
新しくフランス語の先生もついた。
フランス語の会話レッスンは月曜だが、それを狙ったかのように貴也が火曜日にフランス語で話しかけてくる。
フランス語を話す貴也はそれはそれはフランス映画のワンシーンに出てくる子供のように愛らしいのだが、たまに人が聞き取れないのをいいことに、笑顔でとんでもないことを言っているようだ。
貴也に言われたことをメモして、フランス語の先生に聞いたら、硬直して教えてくれなかった。
一体何を言ったんだ?
あの腹黒悪魔め。
クリスマスには貴也が新しく『Les larmes de l'assassin』というフランス語の児童書をくれた。
タイトルを訳したら『殺人者の涙』だった。
6歳でこのチョイス。
貴也のことが少し心配になったのはいうまでもない。
悠希と貴也とはあれから家を行き来する仲になった。
基本的に行き来する際には母親たちが付き添う。
母親たちは意気投合したようで、すっかり仲良くなり、両家の交流が盛んに行なわれていた。
この日、ゆりかと母は外資系の某高級ホテルのカフェに2人でいた。
「ゆりかちゃん、卒園式の日、和田様たちと卒園のお祝いにお食事に行くことになったのよ」
アフターヌンティーを楽しんでいたとき、不意に言われる。
「でね、その日のために、これからお洋服を揃えにいきましょう」
ティーカップを片手に母がにこやかに笑った。
今日は、近頃マダムの間で美味しいと評判のアフターヌーンティーを食べさせてくれるということでここにきた。
買い物のためではない。
正直母の買い物に付き合うのは苦手だ。
ゆりかをお人形のように洋服を取っ替え引っ替えし、色んなお店を何件も連れまわす。
その為、普段は我が家に直接来てくれるデパートの外商にお任せしていた。
ゆりかのサイズでゆりかに似合う服を持ってきてくれる。
そこから選ぶだけで、今のところ十分満足している。
なので母の買い物の提案に、想像しただけでうんざりである。
「ゆりかちゃん!
良家の子女ともあろうものが、身だしなみに興味を持たずどうするの?
普段利用するデパートの外商だけじゃなくて、
銀座のブティックも見てみなくちゃ!」
ゆりかのやる気のなさに母が喝を入れるが、散財の仕方を教えるだけじゃないかとゆりかは考えてしまう。
こうゆうところは庶民派なのだ。
いや、デパートの外商を利用するところでもはや庶民ではないが、必要最低限を揃えるにはそれで十分。
高円寺グループの子女として身の丈に合った暮らしをしているつもりだった。
それでもまだ母がくどくど話すので、仕方なく買い物に行く了承はした。
母は意気揚々と嬉しそうにゆりかを連れてカフェから出ると、母の秘書兼護衛の高橋が母とゆりかの後ろにぴったりとついた。
母の外出時には常に共に行動をする女性だ。
ロビーまで歩くとなんだかやけに人が多く賑やかだった。
「今日はなにかあるのかしら?」
ゆりかが周囲をキョロキョロしていると、
高橋が「これからこちらのホテルで大きな会社の記念パーティが行なわれるようです。出席人数も相当のようですね」と説明してくれた。
ゆりかは周りの人をぐるっと見渡す。
みんな黒や紺やグレーのキチッとしたスーツを着こなしている。
女性もバリバリのキャリアウーマン風の人が多い。
お堅い感じの会社なのかな?
パパの会社に行ったときはもっと自由な感じだった。
でもなんだかこうゆう感じ…懐かしいな。
前世の記憶が少し蘇る。
前世で働いていた金融機関はこんな感じの人が多かった。
そして自分もこうゆう服装をしていた。
バリバリなキャリアウーマン風を目指していた。
そして同僚だった夫も……あれ?
思い出せない。
どんな顔してたっけ?
………わからない。
少し考え込むもやはり思い出せない。
夫の顔も、名前も、会社名も。
考えれば考えるほど、わからないものが出てきた。
息子たちの顔も名前も、住んでいた場所も、海外赴任でついていった国も、通っていた学校の名も。
詳細がさっぱりわからない。
なにこれ?
神様、記憶操作したの?
思い出せるのは、自分に関わる事だけだった。
「ゆりかちゃん?ゆりかちゃん?」
気づくと母が心配そうに顔を覗いていた。
「…あ、ああ、ごめんなさい。
考えごとしてました!」
「あら、やだ。考えごと?なにかあったの?」
「あ、いえ…どんな服を着ていこうかって考えてたんです!」
咄嗟にゆりかが嘘をつくと、母は安心したかの様に、
にっこりと笑い「なんだ、そんなこと。それならママに任せてちょうだいな」とゆりかの手を握った。
「さあさ、車の用意ができたみたいだから、外にいきましょう」とそのまま手を引かれる。
足を一歩踏み出したその瞬間、ある男性がゆりかの視界に入った。
父や和田父ほどの華はないが、整った顔立ちで誠実そうな雰囲気を醸し出している。
もしかしたら父より一回りくらい年上だろうか。
40代後半くらいの男性。
ストライプの入った紺色のスーツに、
上品な薄紫色のネクタイを身に付けていた。
その人が気になった。
時間が止まったかのように、ずっとその人から目を離せなかった。
母に手を引かれエントランスの車寄せの場所まできたときに、初めて気がついた。
涙が流れていた。
自分でも何の涙なのかわからなかった。
母には目にゴミが入ったとまた嘘をついたが、たぶん変に思ったに違いない。
その後の買い物中もなんだかやたら上の空になってしまい、
母に完全お任せのショッピングとなってしまった。
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