第二章「死と太陽は直視できない」 第十二節

 かすかに見えていた黄金色のものは、大小様々な骨で組み立てられた、大きくて豪華な椅子だった。つまり、玉座だ。

「あれ、ハデス様……?」

 その玉座には誰も座ってなかった。命は途中でそのことに気づき、辺りをキョロキョロ。

「もう、また何かイタズラを企んでるなぁ……」

 玉座の前までやってくると、命はめんどくさそうな顔をし、溜め息をこぼした。

 そのとき、ある音がどこからともなく聞こえてきた。

 例えるならば、鋭い爪で固い地面を引っ掻いたような、そんな音である。

「ヒィッ!?」

 麗子は、その音に対して過敏な反応を示した。

 過去の忌まわしい記憶――トラウマが甦ったのだ。

 小学校のときだった。友人の家を訪れたのだが、飼われていた大型犬が来客に興奮し、飛びかかってきた。そのときに鳴っていた、爪でフローリングを引っ掻く音が、いま聞こえた音にそっくりだった。

「あわわわ……!」

 麗子は恐怖のあまり、目の前にいる命を抱き上げた。しがみつくのが度を越して、ついには持ち上げてしまったのだ。

「あーもー……」

 命は、あからさまにめんどくさそうな顔をしている。

 その間にも例の音は聞こえ、徐々に大きくなっていた。近づいているようだ。

 麗子はひどく怯え、音や気配がする度にそちらに振り返る。抱かれている命はその度に振り回されていた。

 また例の音がしたので、麗子は素早く振り返った。すると、視線の先にある壁に、丸い形をした照明がパッと当たり、巨大な影が浮かび上がった。

 三つの首を持つ生き物だ。

「ヒィイイイイイイ――――――ッ!」

 麗子は、断末魔のような悲鳴を上げた。

「いやいや! どうして黒い壁に影が浮かび上がるんです! 色も炎と違うし!」

 一人冷静な命は、おかしいことを伝えようとするのだが、麗子はそれどころじゃなくて聞く耳を持たない。

 その矢先、またも音がした。それは背後で、直後に吐息までも聞こえた。

 気配がする。何かが、後ろにいる。

 麗子は恐怖で身がすくんだ。背後が気になる。だが、恐ろしいから振り返りたくない。しかし、気になる。どうしても気になる。心では拒否しているのに、身体は後ろを振り返ってしまう。自分を止められない。もうダメだ。

 麗子は、せめてもの抵抗とばかりに、抱えていた命を突き出し、さも盾にした。

 その扱いのひどさにムスッとする命。そんな彼の目は、下を向いていた。

「………………」

 何も起こらない。

「あれ……?」

 麗子はさすがに気になり、怯えながらも目を開けて、突き出している命の横から正面を見やった。……が、そこには何もいなかった。

「下ですよ、下」

 そのとき、命がそう言って足元を指差した。

「下……?」

 麗子は、誘われるように足元をうかがった。すると、スニーカーを履いた左足をいじる小さな生き物がいた。それはどう見てもケルベロスなのだが、その大きさはまるで小型犬のようだ。

 ケルベロスは三つの首を上げ、くりくりとした六つの眼で麗子を見つめた。

 三つの首を傾けて不思議そうにする様に、麗子は息を飲んだ。愕然とした。絶句した。

「きゃあああ~っ! なにこれぇ~! すっごく可愛い~!」

 麗子は黄色い悲鳴を上げた。恐怖心はどこへ行ったのか、抱えていた命をぽいと投げ捨ててその場にしゃがむと、小さなケルベロスに自ら手を伸ばした。

 ケルベロスは三つの頭を近づけてその手の匂いを嗅ぐと、紫色をした三枚の舌を伸ばし、ペロペロと舐めだした。さらにも増したその可愛さに、麗子はもうメロメロ。堪らず、ケルベロスを抱き締めた。

「この仕打ちはあんまりでは……?」

 捨てられた命は、まるで糸の切れた操り人形のように床に転がっている。

「ねぇっ! なんでっ!? なんで、こんなにちっちゃいのぉ!?」

 麗子は、自分を睨んでいる命を見つめてたずねた。

「それは、先代のケルベロスが寿命を迎えてしまったからですよ。その子は、生まれ変わったばかりなんです」

 命はそう答えつつ、むくりと起き上がった。

「え……ケルベロスも死んじゃうの?」

 麗子は、腕の中にいるケルベロスを見つめた。

 ケルベロスだが、犬のように舌を出し、尻尾を振っている。

「もちろんですよ。ケルベロスであっても死から逃れることはできません。それがたとえ神であれ、いつかは死が訪れます」

「そうなんだ………………でも、そのおかげでこんなに可愛いケルベロスに出会えたし、良しとする!」

 麗子は立ち上がり、力強く頷いた。

「何様ですか………………あっ」

 命は呆れた顔をし、麗子の元へ戻ろうと歩きだすも、途中でハッとし、足を止めた。

「またそんなくだらないこと……」

 命は眉をしかめ、そうぼやいた。

「?」

 命がどうしてそんな顔をしているのかわからず、麗子は訝しんだ。彼が自分ではなく、後ろを見ていることに気づいたので、何かと思って振り返れば、目の前に巨大なガイコツがいた。

 目のところにある二つの空洞に浮かぶ赤い光で、こちらを見下ろしていた。

「な……」

 麗子が声を漏らしたとき、ガイコツが「カタカタカタカタッ!」と、まるで笑っているようにあごを震わせ、その大きな頭を近づけてきた。

「きっ、きぃやぁあああああああああ――――――っっっ!?」

 麗子は絶叫した。そして思わず、右手を拳にして渾身の力で振り上げ、迫るガイコツの下あごを一撃した。

「あ……」

 命が声を漏らしてまもなく、ガイコツの大きな頭がぐるりと一回転し、そのまま、その場にくずおれて、無数の骨を辺りに散らばらせた。その骨はまもなく白煙となり、徐々に薄まって消えたのだが、その中には、命よりも小さな男の子が倒れていた。

「えっ?」

 もう一発と身構えていた麗子は、その男の子の出現に困惑した。

 そのとき、抱かれていたケルベロスが自力で抜け出して、その男の子の元に駆け寄った。その身を案じるように、ペロペロと顔を舐めている。まるで起こそうとしているようだが、男の子は完全に目を回しており、いわゆるグロッキーの状態だった。

「えーっとぉ……?」

 麗子は状況が読めず、後ろを振り返って命に目をやった。

「ハァ……。麗子さん、そこに倒れているお方こそ、死と冥府の王である、ハデス神です」

 命は大きな溜め息をつくと、男の子に向けて手を差し伸べた。

「………………えええ~っ!?」

 長い沈黙の後、麗子は弾けたように驚愕した。慌てて振り返り、もう一度男の子に目をやったのだが、そのとき、ケルベロスが前足を男の子の頬に押しつけて、しきりにお手をしていた。

 その光景が微笑ましく見えたのか、麗子の表情はふにゃりと緩んだ。

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