mission0-10 ルーフェイの追っ手




——その頃、エリア・”ストリート”では。


 路地の暗がりの中で、仮面をつけた青年が小さな悲鳴をあげた。誰にも気づかれない場所で、彼は左手を押さえてうずくまる。


『どうした?』


 彼の肩の上に乗るネズミから低い男の声が響く。彼はふるふると首を横に振り、押さえていた手を開く。左手の小指がどこかに打ち付けたかのように青紫にくすんでいた。


「すみません、ジグラルさま。どうもリゲルの元に遣わせていたネズミが殺されたみたいで」


 彼が答えると、ネズミは深いため息を吐いた。


『リゲル・ドレーク……噂に聞く通り、なかなか頭の回る男のようだな』


「次はもう少し慎重にやりますよ。それよりも今はジョーヌ・リシュリューの方で面白い動きが」


『何かあったのか』


「ハイ。彼が連れている身元不明の少年……彼の持つ石が不思議な力を発揮して、スラム街の店一つ潰したとか」


『不思議な力……? もしや、伝承のか』


「その可能性はあるかと。引き続き尾行します」


 青年がそう言うと、ネズミはくっくと笑った。


『アレをガルダストリアよりも先に手中に収めれば、我らの計画も容易いだろう。手出しのタイミングは君に任せる。頼んだぞ、仮面舞踏会ヴェル・ムスケ筆頭・クレイジーよ』


「……ハイ、ジグラル王子の仰せのままに」


 仮面の少年はフードを目深にかぶると、軽い身のこなしで跳躍し、壁伝いにすぐそばの店・大衆酒場〈レッド・デビル〉の屋根まで登った。そして屋根のそばにあった排気口の鉄格子を外すと、するりとその中に身を投じた。






 〈レッド・デビル〉はガルダストリアの庶民に愛されている巨大な安酒場だ。客たちの賑やかな話し声がBGMとなり、時折グラスを割る音、殴り合いの音、そして置かれた楽器を誰かが適当に奏でる音が混ざり合う。


 治安は決してよくないが、お尋ね者が身を隠すのにもちょうどいい。ジョーヌがこの場所を待ち合わせに選んだのはそういう理由だった。


「ところで……シアンちゃん、それにノワールよ」


 ジョーヌは向かいに座る少年少女に声をかける。


「君たち、さっきから一言も喋らないが……何かあったのかい? こんな空気じゃせっかくの料理も喉を通らないじゃないか」


 シアンはちらりと隣に座るノワールの表情をうかがった。スラム街を抜けてからというもの、彼はずっと心ここに在らずで首からさげた自分のネックレスを見つめている。その先端に取り付けられた灰色の石は、先ほどのような輝きは放っていない。


 シアンは小さなため息を吐き、肩を落として言った。


「その……何から話したらいいのか」


 目の前でノワールが引き起こしたことを見ていたシアンでさえ、未だ理解はできていなかった。夢を見ていたと言われた方がまだ腑に落ちる。だが、二人の服に染み付いた海水の匂いが現実に引き戻すのだ。


 あれは夢なんかじゃない、ノワールが海水を呼び出してスラム街の店一つ壊してしまったというのは、実際に起きたことなのだと。


 ジョーヌも匂いに気づいたのだろう。鼻をすんと鳴らすと眉をひそめて言った。


「君たちなんだか潮くさいな。二人で海水浴でもしたのか?」


「ううん、そうじゃないんだけど……」


「だろうな。ここは内陸地だ。昼の間に海まで行けるような場所じゃない。だとしたら、他には……」


 ジョーヌは一瞬口をつぐむと、ちらと周囲を見渡し、やがて二人に顔を寄せて小声で言った。


「ノワールのその石が、覚醒でもしたか?」


「……っ! ジョーヌ、どうして」


「シッ。だとしたらここに長居するのはまずい」


 ジョーヌはシアンの言葉を途中でさえぎると、再び周囲を見渡した。


「やはりな……この店に入った時から嫌な感じはしたんだ。私たちのことを見ている人間が何人かいる。政治犯の私の動向を見張る目じゃない、もっと別の、得体の知れない何かを観察するような目だ」


 ジョーヌは相変わらず俯いたままのノワールの肩を叩くと、立ち上がるように促した。


「すぐに出よう。ココット村に戻るぞ。店の入り口は待ち伏せされている可能性がある。少々騒ぎになるが、従業員口の方から突破するんだ」


「でもジョーヌ、食事がまだ……」


「いいから早く!」


 シアンとノワールは促されるままに立ち上がる。まだ二人ともジョーヌが言うような視線を感じてはいなかった。この酒場は人が多すぎて、そういう繊細な気配を察しにくいのだ。だが普段落ち着いているジョーヌが珍しく声を荒げるので、ただごとではないことは理解していた。


「ちょっと、お客さん! こっちはスタッフ専用だよ!」


 厨房に入り込んだ三人に対して店の料理人が文句を言うが、無視して従業員口の方へと向かっていく。あと少しで店の外に出られる——安堵しかけた時、天井の方で大きな物音がしたかと思うと、どさどさと何かが落ちてくる音がして突然視界が真っ白になった。


「げほ、げほっ……何だこれは!」


 厨房にいた料理人たちのわめき声、それに釣られた客のどよめき。騒然とする店内でやがて白い煙——のちにそれは屋根裏に積まれていた小麦粉だとわかった——が晴れてきて、ノワールは「あ!」と声をあげる。


 従業員口の扉の前に人影があった。


 細身で高身長の、ノワールやシアンと同じ年頃か少し上くらいに見える仮面の青年がそこに立っていた。


「あんた、もしかして……!」


 シアンは以前海岸沿いの道で襲撃に遭ったことを思い出す。今目の前にいる彼の仮面と、あの時拾った仮面は同じデザインのものだった。


 青年は不気味な紫色に塗られた唇をゆっくりと吊り上げて笑う。


「ふふふ、あの時はよく気づいたねェ。てっきり脳ミソまで筋肉でできているタイプの子かと思っていたけど」


「なんですって……!」


 食ってかかろうとするシアンを抑え、ジョーヌは落ち着いた口調で尋ねた。


「ルーフェイ王家の隠密部隊である仮面舞踏会が何か用かな? ガルダストリアとルーフェイ、この緊張状態の最中に敵国のお膝元でわざわざ姿を見せるなど、あまり賢いやり方とは思えないがね」


 すると仮面の青年はおどけるように首を傾げる。


「それを言うならアナタもでしょ、反戦活動家のジョーヌ・リシュリュー元宰相? だけど今はそんなことどうでも良くなるくらい、重要な問題が目の前にあってサ。……ねェ、ガルダストリア兵の皆さん?」


「……!」


 シアンは殺気を感じて後ろを振り返った。先ほどまで飲んで騒いでいた客の何人かがいつの間にか背後にいて、自分たちに向けて剣を構えて立っている。ガルダストリア軍支給の剣だ。


「ジョーヌが言っていたのって……!」


「ああ、彼らだよ、シアンちゃん。客に扮して私たちの動向を探っていたんだ」


 前方にルーフェイの隠密部隊の少年、後方にガルダストリア軍の兵士たち。ジョーヌたち三人は両者に挟まれていて、これでは身動きが取れない。かといって、どちらかが先に仕掛けてくる気配もない。


 やがてしびれを切らしたのか、後方の兵士の一人が仮面の彼に向かって叫んだ。


「ルーフェイのガキがどうしてここにいる! 見逃してやるからこの場は退け——」


 兵士の声は途中で途切れた。


 彼の喉元からは、言葉の代わりに鮮血が噴き出す。喉の中央には小型のナイフが突き立てられていた。


 シアンははっとして仮面の青年の方を見やる。彼の手にはいつの間にかナイフがいくつも握られていた。


「……『見逃す』? 残念ながらキミたちにその権利はない。なぜならみんなここで死ぬからねェ」


 次の瞬間には、背後で兵士たちのうめき声が湧き起こっていた。


 シアンたちは振り返ってぞっとする。初めにやられた兵士と同様、全員の喉元にナイフが突き刺さっている。青年の手からは同じ数だけナイフが消えている。全員彼がやったのだ。この一瞬の隙に、寸分の狂いもなく。


 酒場の客や料理人たちは悲鳴をあげてこの場から逃げ出していく。


 惨状とは裏腹に、仮面の青年は無邪気な笑みを浮かべて言った。


「さ、これで邪魔者はいなくなったかな? ボクはキミとゆっくり話したかったんだ」


 彼が指差していたのはノワールだった。


「俺……?」


 ノワールが顔を上げると、仮面の青年は満足げに頷く。


「そう、キミさ。アンフィトリテの一族の生き残りであり……海をべる力を持つキミと」



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