終章

終章1

 従兄弟たちに怖がりと揶揄されたエルカドラがその汚名をそそぐには、近付いてはならないと言い聞かせられてきた幽霊塔から、そこに入ったという証拠を見つけてくることだった。

 幽霊塔は城から離れたニルフラーヤ大河の近くにある、小さな城の一部だ。物見のための城だが、あまり人の出入りはなくひっそりとしている。時々青い光が瞬くらしく、鬼火だ、妖精だとこの辺りの子どもたちの噂になっていた。

(わたしが怖がり? ちょっと暗いのが嫌いってだけじゃないの)

 夜更けに目が覚めると暗いところに何かいるように思えて眠れない、だから暖かい飲み物を作ってもらうのだ、ということを話したら、従兄弟たちは一斉に怖がりと囃し立てた。後から思えばそれは年上の彼らに小生意気な物言いをするエルカドラへの意趣返しだったのだろう。しかしエルカドラは本気で怒った。従兄弟たちは図星だ、恥ずかしいんだろなどとますます言い募って、だったらあんたたちが行けない幽霊塔に行ってきてやると宣言してしまったのだ。

 密かに馬を引き、幽霊塔に向かう。エルカドラは歳の割には馬の扱いに長けていて、すぐふらりとどこかへ行ってしまう、風の妖精のような姫だと使用人たちに苦笑いされていた。特に老いた者たちは、エルカドラの向こうに誰かの姿を見ているような目をする時もあった。

 だからかもしれない。この城の暗がりが嫌いなのは。

 そこに潜む何者かがひっそりとこちらを見ているような気がするのだ。それは日の光の中にはない、夜や影の中にしかない気配だ。エルカドラはそれが嫌いだった。自分がそれに飲まれてしまう気がして。

(その恐怖と向き合うために、幽霊塔に行くのは必要なこと)

 適当なところで馬をつなぎ、扉を開いて中に入った。城はささやかな松明の火が見えるだけでひっそりとしていた。近くの川から水の気配が漂ってきて空気が冷たい。小高いそこから見下ろせば、月の光を反射した水が黒と銀に輝いているのが見えた。

 幽霊塔は火の灯されていない蝋燭のように、夜の空を背負って黒く聳え立っている。鬼火が見えることがあるということだが、それらしいものは……。

 その時視界の片隅に見えた影にぎくりと息を飲んだ。

(誰かいる)

 エルカドラは素早く近くの木の後ろに隠れ、そろりと周囲をうかがった。ざわざわと風が木々を揺らし、遠くのせせらぎが響いている。それに合わせて鳴いていた虫の声が、ぴたりと止んだ。

 肌がぴりぴりと痛むような静寂に息を殺していた時、道の向こうに、先ほど見た時にはなかった影が現れていた。

 細身の影。女性だと思ったのは衣装の裾が広がる形だったからだ。それは塔の裏手に続く道をゆるゆると進んでいく。記憶が確かならば裏門があるはずだった。川へ降りるための道がある。

 後をついていかないという選択肢はなかった。彼女を捕まえて、塔に入れてもらえればいい。青い光の真実も聞けるかもしれない。

 足音を立てないようにゆっくりと後をついていく。真剣になるあまり、門が開け放されていることには気付かなかった。どうしてこの暗がりで影が辿れるのかということにも。

 道はやがて尽き、目の前にはニルヤの大河があった。影はそこで立ち止まった。すると信じられないような出来事が起こった。

 月の光を映していた水面が、にわかに青みを帯び、逆流するようにして揺らぎ始めた。くるくると渦を巻いたそこからふわりふわりと蛍のような光が浮かび上がってくる。青い光は染み出るように川から溢れ、岸を青く輝かせ始めた。すると追っていた影の全身が照らし出された。エルカドラは目を見張った。

 老女だった。凛と伸びた背筋に威厳があった。だがその髪は、この世にないものとして青い。

 青い髪の老女は再び足を進めた。エルカドラの目の前で、青い水の中へとためらいなく進む。ニルフラーヤの水は彼女に道を開くように、流れを止め、柔らかくその身体を受け止めようとしていた。

(あのままでは溺れてしまう)

 川や湖で遊ぶ時には必ず大人を連れて行くようにと言われていたこと。従兄弟たちがする虫などを沈める残酷な遊びが大嫌いで幾度も止めさせたこと。生来の生真面目さと正義感が、本来ならば立ちすくむべき不思議な光景を、人が溺れるという単純なものに見せてしまった。

「ああっ」

 老女はすでに半身まで水に浸かっていた。エルカドラは声をあげて走った。なんとか腕を掴んで引き上げなければ。ぬるい水をざぶざぶとかき分けて手を伸ばしたが、老女は吸い込まれるように水の中に消えてしまった。

 途端に青い光が失せ、止まっていた川の流れが動き出す。ごっと波が押し寄せ、大きくうねってエルカドラを飲み込んだ。

 真っ黒い水の中でもがく。先ほどまで感じていなかった冷たさが肺の奥にまで入り込んでくる。構えていなかったせいで息が続かず、すぐに限界がきた。もうだめだ。

(死んでしまうんだ、わたし)

 水の中で死んだなら、水葬都市に行けるのだろうか。死んでしまった子どもは優しい女神のいる宮殿に集められて、次に生まれてくるまでそこで過ごすのだという。

 でも、エルカドラの大好きな母や、口うるさいけれど高く抱き上げてくれる父、従兄弟たちと遊ぶこと、これから生まれてくる弟のことを思うと、嫌だ、と思った。

 嫌だ。わたし、もっと生きていたい。

 しかし死はエルカドラを絡め取り、その身体と魂を切り離していく。意識がなくなればエルカドラという娘の人生は終わるのだった。抵抗は続かなかった。

 エルカドラはゆっくりと意識を手放そうとして――ぐん、と何かに手を引かれた。

 遠くなりつつあった地上へとエルカドラを運ぶ誰かがいる。

 白い月をくぐり抜けると、ばしゃん! と派手な水音が響いた。

 死に触れつつあったエルカドラは、この世に引き戻されたのだった。

「……げほっ、……げほ、ごほっ」

 胸に入り込んだ水で咳き込んでいると、吐き切らせるようにとんとんと背中を叩かれる。そこでようやく、エルカドラは自分が誰かの腕に抱き上げられていることに気付いた。

 青い髪の老女。先ほど水の中に消えた人だ。

 川面は再び青い光を宿していた。抱き上げられた足元から照らされ、エルカドラは息を飲んだ。髪が青いと思ったけれど、この人は目も青い。川の光に照らされると宝石が内側から輝いているようだ。

 老女が首を巡らした。エルカドラも近くに誰かの気配を感じた。老女の視線の先を見ると、水の上に青い人影がゆらゆらと揺れていた。長い髪の誰かだ。

「申し訳ありません。どうか、いましばらくお待ちいただけますか?」

 老女が柔らかに請うと、影は微笑んだようだった。仕方がないと呆れたような感じがした。少しだけ寂しそうでもあった。だが何か言う前に溶けるように姿を消してしまった。

 エルカドラは老女に抱き上げられたまま岸に連れて行かれた。彼女が川を離れると、青い光は消えた。川の音、虫の声が戻ってきて、エルカドラはくしゃみをした。くすりと笑われる。

「こんな時間にどうしてこんなところにいるの? あなたはどなた?」

 濡れた髪を掻き上げながら問われ、エルカドラは大きく目を見開いたまま言った。

「花嫁さま? ……水葬王の花嫁さまですか? ぁ痛っ」

 額を小突かれ、微笑まれた。

「お行儀はどうしたの。あなたの名前と、父母の名を言いなさい」

「エルカドラ……父はタクディ、母はアルミア。アスティアスのエルカドラ、です」

 エルカドラ、と名を反芻して老女は懐かしそうに目を細めた。

「そう、あなたはレンクの孫なのね」

「わたしは名前を教えたわ。おばあさまの名前を教えてください」

「リカシェ・アスティアスよ」

 むっとしていたのが一転、やっぱり、とエルカドラは顔を輝かせた。

「おじいさまのおねえさま! おじいさまからたくさんお話を聞いたわ。他の人たちからも! リカシェおばあさまは水葬王の花嫁なんでしょう? 幽霊塔に住んでいるの? ほとんど眠っているって本当?」

「まあまあ、死にかけたというのに元気な子ね。自分の状況がわかっているの、エルカドラ?」

「エルって呼んで!」

 数秒前に自分に何があったのかも、その真実にすら気付かず、有名な人が目の前にいるというだけで興奮するエルカドラにやれやれと肩をすくめて、リカシェはその手を引いた。

「ひとまず城へ帰りましょう。あなたに風邪を引かせると、レンクにもタクディにも叱られるわ」

「リカシェおばあさまでも叱られるの? 水葬王の花嫁なのに?」

「ええもちろん。悪いことをしたり、心配をかけたりするとね」

 心配をかけても叱られるのか。なら、エルカドラがよく注意されたり叱られたりするのは、心配をかけているということなのだろうか。悪いことをしないようにして、心配をかけないようにすれば叱られないのだろうか。

 エルカドラが見上げると、リカシェは笑った。その笑顔が暖かくてほっとした。水葬王の花嫁というからもっと冷たい人を想像していたけれど、繋いだ手もエルカドラの歩幅に合わせて歩いてくれることも、この人の優しさを感じさせた。

(どうして川に入ろうとしたの?)

 そう聞こうとして、止めた。言ってはいけない気がしたのだ。これから誰かに何かを言われても、エルカドラは、自分が溺れそうになったところを助けてくれたと言うことに決めた。

「それで、あなたはどうしてこんなところにいるの?」

 エルカドラが肝試について話すと、ころころと楽しげにリカシェは笑った。「わかったわ。何か証拠になるものをあげる」と言った後、きらりと瞳を輝かせた。

「あなたは暗闇が嫌いなのね」

「うん。誰かが見ているような気がするの」

 そう言うとつないでいた手は離れ、エルカドラの肩を抱くように伸ばされた。

「幼い子は死に近いから、その気配を感じ取っているのね。大丈夫よ。大人になれば怖くなくなる。私のように歳をとれば、懐かしい気持ちにもなる」

「わたし、子どもじゃないわ」

 エルカドラはつんと唇を尖らせる。もう馬にも乗れるし、剣も使える。難しい本も読めるようになったし、舞踏も楽器も得意だ。するとそんなことを見通しているかのように、ふふ、とリカシェは笑っていた。まるで懐かしいものを見ているかのようだった。

 門まで戻ってきて、二人は振り返った。夜風が濡れた髪に触れて寒さを感じる。先ほどのことが夢だったかのように、ニルフラーヤ大河は変わらぬ流れをたたえてそこにあった。ふと、エルカドラはリカシェを見上げた。

 美しい女性がそこにいた。

 きりりとした眉。花のような唇。白い頬に茶色い髪がかかっている。柔らかく細められた目は若葉のような色をしていた。目元にも頬にも皺はなく染みひとつない。硬質で、だけどその奥底に柔らかなものを秘めている、花開く前の蕾のような女性(ひと)だ。

 彼女は見惚れるこちらに気付いて、微笑んだ。

 瞬きするとその女性は消え、青い髪の老女がエルカドラを導く。

「さあ、行きましょう。あなたがどんな大人になるか、楽しみだわ」


 それはきっと水葬王の誘いを跳ね除けて幼い娘の可能性をつなぐことを決めた宣言だったのだと、のちにエルカドラは思い返すことになる。



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