許しの庭に咲く4
大きく呼吸をして仰いだその寝台の天蓋は、見覚えがある星図の意匠だった。世界は青く、けれど悲しみを漂わせて冷たい。起き上がったリカシェは自らの手や足に触れ、周囲を見回し、そこが水葬都市の、最後に眠った部屋であることを確かめた。
寝台から離れたところに、ハルフィスが背を向けて座っていた。俯いた背中には後悔があった。乱れなく流れる髪の先まで悲しみに浸っていた。
リカシェが近付いていくと、彼は振り向かずに言った。
「……選択しなければならなかった。他神から歪みの源とされたそなたをニルヤに委ねて消滅させる道か、それとも私がニルヤに誓ってそなたを地上に返し花嫁でなくなろうともいつかの再会に望みを託すか」
リカシェは手を伸ばし、頬に触れると彼は振り向いた。涙一つ流れていないが、その心が苦しみを叫んでいることは見て取れた。すべきことと自分の心の狭間で彼は泣いていた。
リカシェがここにいるということは、彼はニルヤに誓ったのだ。
「そなたを地上に返そう。花嫁の契約を破棄し、軛から放つ」
途方にくれた声でハルフィスは宣言した。
「そなたを永久に失うことには耐えられなかった。ならば花嫁でなくなろうとも、そなたにもう一度会える日を待つ方がいい」
置いていかれることを恐れる子どもがそこにいた。孤独の仮面の下にいる、その心が愛おしかった。リカシェは腕を回し、ハルフィスを胸に抱いた。彼はこうして誰かに甘えたこともないはずだった。
「もう一度会えますとも。お約束します。ほんの少しお別れするだけですわ。寂しいかもしれませんが、青の乙女がいらっしゃいます。モルフェア様も様子を見にいらっしゃるでしょう。城の者もあなたを気にかけています。あなたは一人ではありません」
リカシェの腕を外し、ハルフィスはその顔を見ることを望んだ。互いの頬を包み込み、耳や首に触れながら、短い口づけを交わす。額を合わせるとハルフィスが言った。
「そなたは泣いてばかりいる……」
「あなたは感情が豊かになりましたわ。まるで生まれたばかりの子どものよう」
だから愛おしいのかもしれない。感情を持て余して間違ったことをする。そばで見ていてやらねばと思わせる。今よりもずっと幼かった弟にしたように、頬を包み、親指で撫でて、額や髪に口付ける。ハルフィスはリカシェの背に手を置いてされるがままになっていたが、やがて静かに問いかけた。
「これからどうするつもりだ?」
水葬王としての冷徹さを取り戻しつつある言葉に、リカシェは答えた。
「私を殺害した犯人を突き止めます」
確かめたいことがあるのです。そう言うと、ハルフィスは目を伏せた。落ち着いたように見えたのは虚勢だったのだとそれでわかった。悄然と震える睫毛が愛おしくて、そのつむじに唇を落とすしかできないのがもどかしかった。
身支度を整えて外に出ると、柱にもたれかかっている人影を見つけた。この城では誰もが決まりよく過ごしている。行儀悪く襟を緩めたり壁にもたれたりしない。
「エルヴィ?」
それが知った顔だとわかって声が跳ね上がってしまった。何故彼がこんなところにいるのか。
エルヴィは身体を起こすと、駆け寄るリカシェをじろじろと見た。どこかおかしなところがあるのだろうかと袖や裾を直していると、彼は呆れたように首を振った。
「思ったより元気そうだな」
「……私が元気でないと誰か言っていたの?」
二度目のため息はリカシェを馬鹿にしていた。
「この一晩で城が黒い霧に包まれたかと思うと、都市の周りをすごい数の妖精やらどこかの神霊の眷属やらが囲んで、住民は全員外に出るなって青の乙女のお触れが出た。俺はその使い走りにされて走り回っているうちに、何が何だかわからないまま全員引き上げて終わった。その間お前も水葬王も姿を見せなかった」
眠っていたわずかな間に様々な危機が訪れていたらしい。責めているわけではないが、この疲労を誰かに話さずにはいられなかったようだ。使いにされたという言葉が嘘でないのは、従士のお仕着せからわかる。
「……ごめんなさい」
「別にいい。青の乙女の様子から、お前に何かあったのはわかったし」
それが元気そうだという台詞につながったらしい。リカシェはもう一度「ごめんなさい」と謝罪し、元気よと付け加えた。
「あなたはどうしてここにいるの?」
「ウィスティの件で引っ張ってこられた。悪いと思ったが、ここで水葬王に逆らうと何が起こるかわからないと思ったから、お前が自分を殺した犯人を見つけたがっているのに協力してることは話した。その後青の乙女に捕まった」
リカシェが想像した通りのことが起こっていたらしい。その後の騒動はあまり想像したくないが、終息に向かってよかった。リカシェもハルフィスも選択を誤った結果、他の神々とその眷属が水葬都市になだれ込んで、静寂が根こそぎ奪われていたのではないかと思うとぞっとした。
「あなたに何もなくてよかったわ」
「お前には色々あったみたいだな」
リカシェは唇を歪めた。この都市で正確な日数を数えられたわけではないが、リカシェがこれまで生きた十八年間よりも、密度の濃い数日だった。閉塞感だらけだった世界に終わりが来たかと思ったら、周囲は澄んだ青に変わり、清らかな光に洗われたと思ったら、黒い闇と炎で息ができなくなったこともあった。何かを失い、何かを得て、今これから失おうとしている。
「あなたは怒るかしら。私が地上に戻ったら」
その短い言葉でエルヴィはリカシェが何を言おうとしているか悟ったようだ。
「わかったのか。犯人が」
リカシェは慎重に頷いた。そしてその名を告げた。
エルヴィは愕然と目を見開き、口を戦慄かせた。顔のこわばりを確かめるように手で覆い、考えをさらっている。
「お前が見た十字は……そう、……かも、しれない。だが……確証はあるのか?」
「『白い十字』を私は見た。それを私以外に目にした子がいる。確かめに行ってくるわ」
顔を突き合わせて、そうであってほしくないとお互いに思っていた。信じていたものが変貌するよりも、知らなかった残酷な面を目の当たりにする方が恐ろしい。優しい顔をしていた父親が、数分前に誰かを殺していたのに『愛する子よ』と微笑みながら頬に口づけを贈ってきた、そんな気分だった。
リカシェが向かう場所に同行したい、とエルヴィは申し出た。少し考えたが、管理者が許すならと答えた。鎮めの宮に行くと、いつものようにリェンカが二重の扉を開けた。だがその後ろにニンヌが立っていた。
青の乙女の美しい面には、疲労の影が色濃かった。招き入れられたリカシェとエルヴィが膝を折ると、彼女は頷いた。
「無事に目が覚めたようで何よりだわ。もう動いて大丈夫なのね」
「ご心配をおかけいたしました。申し訳ありません」
ニンヌの目に悲しい光がよぎった。
「いいえ。詫びるべきはわたくし。わたくしの望みが何もかもを危険にさらしてしまった。あなたにも、負う必要のないしがらみを与えてしまった……」
モルフェアが言ったようにニンヌが事態の就職に向けて指揮をとる中、思い出したのは自らの願いのようだった。だがそれは彼女が後悔することではない。選んだのはリカシェで、受け入れたのもリカシェだった。
触れ合った時に人生最大の幸福を味わった。その後の苦味まで私のものだ。
リカシェは黙って首を振り、リェンカに目をやった。
「会わせていただきたい子がいるのです。お許しくださいますか」
答えたのはニンヌだった。
「話は聞いています。話ができる状態になっているはずだから、あなたの知りたいことに答えてくれるでしょう」
忙しい中動いてくれたのか。礼を言ったリカシェにニンヌは影をまとった微笑で言う。
「わたくしがあなたにしてあげられるのはこのくらいだもの。可愛いリカシェ。あなたはここに来たことを後悔しているかもしれないけれど、わたくしはあなたが大好きよ」
それはまるで結末を知っているかのように響き、リカシェが何かを言おうとすると、背けた視線でリェンカに命じ、子どもたちのいる部屋に消えた。しばらくしてミュナが下りてきた。その小さな手はアーリィとしっかり繋がれている。
離れたところで立ち止まったミュナは、じっとリカシェを見つめ、困ったようにアーリィを見た。だがアーリィの頷きを見ると、その手を離し、そっとこちらに近付いてくる。リカシェは膝を下り、彼女の目の高さでそれを迎えた。
「初めまして。私はリカシェ。あなたの名前を教えてくれる?」
「ミュナ、です」
落ち着いた、可愛らしい声だ。精一杯大人らしく答えようと背伸びをしているようでもある。
「ミュナ。あなたに聞きたいことがあるの。答えられなかったらそれでいい。でも、覚えていたら教えてほしいの」
いいだろうか、と問いかける間を置き、彼女がきゅっと唇を結んで頷くのを見てから、リカシェは尋ねた。
「あなたが川のそばで見た、年老いた男の人。その人は剣を持っていたのを、あなたは見た?」
こくん、と肯定が返る。彼女は以前、アーリィの持つ剣に怯えた。そこから、剣に対して恐怖の記憶が呼び覚まされたのではないかと思ったのだ。そしてここからが重要だった。彼女が見ているかもしれない。リカシェの想像する『白い十字』を。
「剣、は」
そう思った時、ミュナが口を開いた。
「剣は、きれいだった。握るところが、きらきらしていて。大きな、白い星の入った青い石がついていた……」
白い星の入った青い宝石――それは、リカシェの記憶に焼きついた『白い十字』と重なった。
見事な柄の装飾と、威光を示す宝石。ミュナが記憶しているということは、布などを巻いてそれを隠すことができなかったのだろう。もしくは見たとしても理解すまいと油断したのか。
だがここに見た者がいる。それが何なのかを理解する者も。
(ああ、やはり、あなただったのか)
「……その、人が」
悲しくも口惜しい、憎しみと怒りとが混ぜ合わせた苦味を感じていると、ミュナは震える声で真っ青になりながら先を続けていた。
「その人が、あたしを……川に……」
リカシェは息を詰まらせてミュナを腕に掻き抱いた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ミュナ。もう思い出さなくていい」
リカシェは、心の中で死を再現させ、まだ膿む傷に爪を立てる振る舞いをした。その恐怖と痛みに向き合って言葉をつぐ少女に、これ以上の苦痛を味わわせたくなかった。
浅く息を吐いていたミュナは、くぐもった声で「だいじょうぶ」と言った。
「怖いのは、もうおしまい。アーリィは強いから、あたしを守ってくれるの。昨日もそうだった。いきなり暗くて寒くなって、みんなが怖い、怖いって泣いてたら、だいじょうぶだよって言って、番をしてくれたの。だから怖いものはこなかったんだ」
彼女が視線を向けた先にアーリィがいる。振り向けばいつもミュナを見ていてくれる人だ。リカシェが解放するとミュナは一目散にアーリィの元へ行き、アーリィはそんな少女を軽々と抱き上げた。
「リカシェ」と離れたところで耳をそばだてていたエルヴィが呼ぶ。彼にもミュナの言ったことは聞こえていただろう。今にも泣き出しそうな子どもの顔になっていた。
リカシェは立ち上がり、拳を握りしめた。
目的は達せられた。『彼』が候補者の命を奪って回っているのだとすれば、リカシェはそれを止めに行かなければならない。
「地上へ」
星の光が込められた青石。それは、中原の王者の持つ剣の柄飾りの宝石だ。
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