花嫁2

「戸惑われたでしょう。自分が死んだと聞かされて」

 息が詰まるような大広間を離れて廊下まで来ると、呼吸も楽になり、声もすんなり出るようになった。

「ええ。これは夢ではないかとまだ疑っています。だってここはおとぎ話に聞いたそのままなのだもの。死者の都は何もかも青い……」

 そしてここは、美しく無情な戦士である水葬王が住まう場所としては想像以上に端麗な城だった。

「でも、水葬王があんな方だとは思っていなかった」

 冗談めかして言うと、彼は苦笑した。

「これまで迎えたどの花嫁に対しても、王はあのように申されるのです。あなたが不興を買ったというわけではありません。お気になさいませんよう」

 従士は少し寂しげな表情を浮かべた。

「ハルフィス様は悠久の時を生きる御方……人間が経験するおおよそをすでにご存じでいらっしゃる。生きることに飽いていると言っても過言ではないかもしれません。仕方のないことなのです」

 リカシェは頷いた。

 彼の態度を見れば察せられる。彼は怒っているのではなくただ関心がないだけ。それが永い時を生きているがゆえのことなら、確かに仕方のないことなのだろう。

 でもそれは寂しいことだ。時間が流れ、季節は移ろう中で、目新しいもの、心惹かれるものが何一つないというのだから。感性に乏しいと叔母や従姉妹から嘲笑されるリカシェでさえ、李桃の花が咲けば春の息吹を感じ、昨年よりも甘い実を味わえた時には喜びを覚える。それすらできない心の持ち主だというのなら、ハルフィス自身が永遠に溶けない氷で覆われてしまっているように思えた。

「けれど名前くらいは聞いていただきたかったものだわ。……私は、アスティアスのリカシェです。あなたは?」

「ハルフィス王の従士をしております、セルグと申します。姓はありますが、ここでは意味を持たぬのでご容赦ください。どうぞ、セルグとお呼び捨てください。敬語も必要ありません」

「では……セルグ、あなたは地上に戻る方法を知らない? 何としても戻りたいの。地上にいる弟を守らなければ」

 セルグは申し訳なさそうに首を振った。

「私も、この都市にいる皆も、その方法を知ることはないでしょう。水葬都市のすべては水葬王がお決めになること。冥府の門をくぐることも、地上に戻ることも、ハルフィス様がお許しにならなければ叶いません。それは神のみわざなのです」

 では、なんとしてもハルフィスを説き伏せねばならないというわけだ。

 時が経つほど地上に戻りにくいとするなら時間は限られている。あの凍れる王にどう事情を説明して理解してもらえるか、考えるにしても材料が足りなかった。

 セルグは同情的だがハルフィスを神として強く敬っているようだ。そんな彼が神であり主であるハルフィスについて軽々しく口を開くとは思えない。立ち入った質問をしたところで、申し訳なさそうにされるだけだろう。

 だとすれば、他の人物から当たるのがよさそうだ。

「ここにはあなた以外に誰もいないの? 先ほどから人の気配がないようなのだけれど」

 この城に初めて踏み入る者が必ず疑問に思うことなのかもしれない。ああ、と改めて気付いたようにセルグは周囲を見回した。

「ハルフィス様があまり人をそばにお寄せにならないのと、この城の住人もまた時が来れば冥府の門へ行ってしまうためです。まったく人がいないわけではないのですが、必要なところに最低限といったところでしょうか。ですから私のようなものでも取り立てていただけるのです」

 最後の冗談めかしたような台詞には笑ってしまった。

「あなたがとても気遣いのできる人だというのは感じていたわ。ハルフィス王と話している私の後ろではらはらしていたんでしょう?」

 主の端的な物言いが、聞く者にどんな印象を与えるかを理解していたのだろう。セルグは困ったように頭を掻いていたが、何かに気付いて顔を上げた。

「ああ、青が明るくなってきた。そろそろ行かなければ」

 視線を辿ると、周囲の青い色彩は水色に近い明るさに変化しつつあった。

「リカシェ様、ハルフィス様の言葉通り、あなたの自由は保証されています。どこを歩いても、何をしていただいても結構です。まずは私室をお選びになるといいでしょう。この城のどの部屋でも構いません。わからないことがあれば周囲の者にお尋ねください」

「自分の部屋を選べばいいのね。わかったわ」

 その後は好きに過ごせばいいのだろう。リカシェが答えると、セルグは一礼して廊下の向こうへ消えた。城にいる者が少ないというのなら、彼が担う仕事はたくさんあるはずだった。

 誰もいなくなると、自分が本当に一人きりなのだということが感じられた。誰かの息遣いがないどころか、この城には生活感がない。地上で飾られる絵画ですらいきいきしているのに、ここは生命の鼓動を殺すような静寂と美しさに支配されていた。

 神話の通りならば、水葬王の居城は大神ニルヤが与えた中でも、素晴らしく美しい城の一つだ。冥府から押し寄せた闇の中で唯一光を放ったのも、青の乙女が見初めた男に向けて塔から腕飾りを投げたのも、この城で起こった出来事のはずだ。

 そんな城を一人で歩いていいという――生来の好奇心が疼くのは仕方のないことだった。


 玉座の間が城の中心部だと見当をつけて、リカシェはまず北側へ向かうことにした。そうして階段を上へ上へ昇り、見晴しのいい塔からこの城のおおよそを把握した。

 紺碧の皿に水色の薔薇を盛り、その上に大小の硝子の蝋燭を立てた、という形だろうか。下の階であればあるほど青は濃く深くなっていた。

 玉座がある広大な中央部から東西南北に分かれており、北と東は高く広く、西は低いが広大なのが見下ろせた。南は中央棟に遮られてよく見えないが、おそらく低くされているにちがいない。都市から見れば、王のまします中央棟が美しく望めるように作られているだろうから。

(外側が街なのね。ずいぶん広い……水葬されたすべての死者が集うから当然かしら)

 おそらく都市には大勢の人々がいるのだろう。木板に細かく彫刻をしたような凹凸が地平まで広がっている。

(早く地上に戻らなければ……。レンクを置いて冥府の門をくぐるわけにはいかない。夜が怖いと言ってべそをかくような子なのよ。せめて我が身を守れるようになるまでそばにいてやりたい……)

 中原に限らず、氏族の娘たちは政略の道具にされるならいだった。リカシェ自身も、戦に強いというハルブラスタ一族の長の息子との結婚話が進んでいた。

 弟のレンクは十歳。そう遠くないうちに初陣を飾る年齢だというのに、眠れない夜に読み聞かせをしてやるようなリカシェは過保護と言われるかもしれない。それでも、戦上手を誉れとする男たちの中で、読書を好み、喧嘩は駒将棋で十分と言いながら、自分とは正反対の性格の父親や周囲の者に虐げられてしまう弟には、皆が言う『男らしい』とは違うかたちの大人になってほしかったのだ。

「……あっ」

 地上を見遣ったリカシェは、動くものを捉えて声を上げた。

 東側に誰かいる。

 塔を駆け下り、人がいたと思しき場所に出た。位置としては花びらの外側に近い。氷柱や硝子を切り出したような城の内部とは異なり、平たい建物がいくつもつなげられるようにして建っていた。職人や兵士が生活する場所、厩舎や納屋が建てられる外郭部分だろう。

(……地面も青いのね)

 青い石と砂はさらさらと乾いており、野花の類は見られなかった。鳥の声もしない。籠ったような低い唸りと、遠くから反響している鈴の音のようなものが聞こえる。

 ごとと、と何かを動かす音が聞こえた。

 すぐ近くに小屋がある。青白い煉瓦らしきものでできており、金属製の鎧戸が開いていた。背伸びをして、中を覗き込んだ。

 低い椅子に腰掛けた青い髪の若者が、背中を曲げ、熱心に作業をしていた。白い羽根と長い糸、細竹のようなまっすぐなものに巻きつけている。

(矢を作っているんだわ)

 完成したものは丁寧に机の上に並べてあった。よく観察すれば、彼が身につけているものはさっぱりしたシャツにズボン、野良仕事をする者の普段着のようなものだ。この城に暮らす兵士の一人なのかもしれない。

 ふと、彼が手を止めて大きく息を吐いた。手に持っていたものを机に置き、服の中から何かを引っ張り出している。どうやら首に守り袋を下げているらしい。小袋を手のひらに置き、じいっと視線を注いで何かを思っている。

 そうした守り袋は、家族や恋人が作って贈る。だからそれを贈ってくれた人を思っているに違いない。

 やがてまた守り袋を服の下にしまい、作業を再開する。

 リカシェは背伸びをやめて、髪と服をさっと整えた。裾を撫でつけて、しまった、と思い出す。

(寝巻きのままだったわ。先に着替えをなんとかするんだった。……まあ、いいわ。今は自分の羞恥より機会を逃さず話を聞く方が大事だもの)

 扉を叩く。少し経ってから「はい」と返事があった。

「失礼します」の言葉とともに扉を開けると、顔を上げた青年は、驚いた様子で目を丸くしていた。

「あの、少しお話させていただいていいでしょうか」

 びっくりしていた彼は、リカシェのおずおずとした物言いを聞いて、ふんわりと笑顔を浮かべた。

「やあ、新入りだね? 迷ってしまったのかな。中央塔に戻るなら、ここを出て十字路を左だよ」

「ご親切にありがとうございます。私はリカシェと申します。あなたはこの城にお住まいの方ですか?」

「俺はロディ。ご覧の通り兵士をやってる」

 そう言って作りかけの矢を掲げて見せる。

「冥界の闇を払うために射手が使う矢だよ。月の矢じりに白水鳥の羽根、水晶の軌跡を描き魔を射抜く……聞いたことあるんじゃないかな?」

 ハルフィスの武勇を語る詩の一節だ。ハルフィスはニルヤより授かった星銀晶の剣を持っているが、時には弓矢も使う。彼に従う戦士たちと同じものだ。

「あなたが作っているんですか?」

「ここしばらくはね。矢を作ることに限らず、水葬都市でのあらゆるものは引き継いでいくものなんだよ。その時が来れば、みんな門の向こうへ行ってしまうから、自分の仕事を託せそうな誰かがいたら、その人に引き継ぐのさ」

 水葬王の花嫁も似たようなものだろうか。少なくともハルフィスはそういった引き継がれる仕事というように捉えている気がする。

「君は何の仕事をしているんだい? 図書室の管理人かな。それとも女官?」

「まだ来たばかりなので何も……。あの、よろしければお手伝いさせてください。そしてできればもう少しお話を聞きたいのですが……」

「話をするのはいいけれど……出来るの?」

 リカシェは微笑んだ。

「はい。父や従兄弟たちの戦準備を手伝ったことがあるので」

 矢の本体、矢じりとは反対側の端に、糊と糸を使って羽根を六枚つけていく。この矢羽を自分の好きな猛禽類の羽根にして、男たちは洒落っ気を出すのだった。こうした武器や防具などは彼らの従者や職人が用意するもので、女性が手伝うとなると、身分の低い者が人手不足で駆り出されて、という場合が多い。

 ただリカシェは、長らく男子の生まれなかったアスティアス一族の長子として、相続権を持つ男児と変わらぬ教育を受け、戦いにまつわる事柄のほとんどを身につけていた。レンクが生まれ、女性としての礼儀作法を叩き込まれるために家に閉じ込められても、一族を支える従者やその家族との交流は止めずにきた。だから戦に出る従者の少年と同じくらいのことは出来るのだ。

 さっさっと羽根をつけていく手を見て、ロディもほっとしたようだ。出来上がったものを確認してもらうと、笑顔になった。

「すごい。君は器用だな、リカシェ」

「恐れ入ります。ところで、ロディさん。あなたは地上へ戻る方法をご存知ではないですか?」

 すると、ロディは残念そうに首を振った。

「この街にいるすべての人間は知らないと思うよ。来たくて来たわけじゃない人はたいていその方法を探そうとするけれど、それは水葬王しか知らないことだ。だから水葬王ならご存知だと思う。すぐに門をくぐりたいという申し出があったら、順番を早めてくれるというくらいだからね」

 水葬都市でさだめられた時を過ごしたのち、死者は冥府の門をくぐる。都市の王ならばその時間を短縮することができる。ならば、やはり地上に戻るにはハルフィスに頼まねばならないのだ。

「やっぱり最初は自分が死んだなんて信じられないよね。死んだと思って目が覚めたら、不思議な城が見える都市にいるんだから。何もかも青かったり、金銭のやりとりがなかったりっていう独特の決まりはあるけど、いたって普通の街だし」

 ロディはリカシェが戻りたいというのを、若い身空で命を落として気の毒に、と思ったらしかった。

「俺は戦で死んだんだ。目が覚めたら都市の門前でね、周りに知った顔がいっぱいいたから、合葬されたんだろうな。都市に入るときに声をかけられて、城で働くことになったんだ。君も見たと思うけど、都市の門衛は、城に入るべき者を見極める役目があるそうだよ。顔なじみになったやつは『見れば分かる』って言ってたけど俺にはさっぱりだ」

 からからと笑うロディに微笑み返しながら、聞いた内容を整理する。

 普通の死者が都市の入り口で目覚めるなら、城の中で意識を取り戻したリカシェは特例だったということになる。もしかしたら記憶がないだけかもしれないが、と思って目覚める前のことを思い出そうとしてみるが。

「……っ」

 ばちっと白いものが閃き、棺に押し込まれるときの恐怖がまざまざと蘇ってくるだけだった。リカシェは感情を押し込めて、呼吸を整えた。

「つまり門衛に選別されるのね。どういう人が城に入るべき者なのかしら」

「さあ。語り部なんかは『何かを為すため』じゃないかって言うけど、俺自身はそうは思わないな。戦に行く前はただの百姓だったし。だから俺が何かを為すんじゃなくて、……そうだな、この糸をたどった先のいる誰かのために、糸を継いでるんだ。そんな気がする」

 死者とは思えない、いや、死者だからこそ言えるのだろうか。若者とは思えない遠いものを見据えた言葉は、柔らかな微笑とともに、リカシェの心へゆっくりと落ちていった。

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