星くずの碧い海
鈴 -rin-
前編 青年と変わる世界
「
全開にした窓の外枠に右腕を乗せ、わずかに後ろに倒した背もたれに身体を預け。
ハンドルを操作する左手に嵌めた銀色の腕時計にチラッと一瞬だけ視線を走らせた
円形の文字盤の上で、二本の針が60度の角を作って伸びている。
時刻を確認する、それは今この世界において全くもって意味を持たない、無駄な行動にほかならない。
しかし瑠伊は、そのことを理解していながら、とっくのとうに体に染みついてしまった習慣をどうしても捨てられずにいた。いや、捨てたがらない、と言った方が適切だろうか。
だが、また余計なことをしてしまった――などと反省したりは、彼は断じてしない。彼はそういう人間である。
眩いヘッドライトを前方の闇に向けて照射しながら、よく手入れされて傷や汚れの一つすらもない紺のセダンは、人気の無い山がちな道を早くも遅くもない速度で走行する。
フロントガラスを通して見える黒一色の景色から一度は目を逸らしたものの、瑠伊はすぐに視線を真正面に戻して、その先を見据えることのみに集中した。
途切れない大きな塊となって車内に強く吹き込んでくる風には涼しい顔で、全く気にする様子もない。きっちりと整えられた彼の短い黒髪は、多少靡きはしても大きく崩れることはない。
顔つきは彫りが深く鼻が高くて、目はやや細めだが眼光はぐっと力強い。
体つきはスタイリッシュでありながらも頑健としており、いわゆる「細マッチョ」と呼称される部類。
瑠伊は、頼りがいのある印象の、30代前半あたりと見える好青年だった。
瑠伊が視ることによって――彼が進んでいくべき片側一車線ずつのカーブの多い舗装道路は、底知れない闇の中から確実にはっきりと姿を現していく。
その光景は、多量の灰色、それに加えてわずかな白色と山吹色のペンキが、巨大なブラシを使って車とほぼ同じ速度で手前からスーッと塗られていくかのようだ。
空は文字通りに真っ暗で街灯さえ点かないが、現れた道は自らの明るさを持っているようで問題なく視認できる。
中央線や車道外側の線、縦長になった「60」の文字(運転席のスピードメーターの赤い針はそれと同じ数字のわずか手前で小刻みに揺れている)が、ライトに照らされて一段と映える。
また、彼の視線の動きに合わせて、道を両脇から挟んでいる鬱蒼とした緑の群れや、青色の逆三角形に白の文字で「国道 59 ROUTE」と書かれた標識、さらにはポツンポツンと建つ持ち主のいない家屋なども、順々に形と色と光を与えられていった。
『モノはあるから見えるのではない。視るからあるのである』
それが、この世界が大きく変わったあの時――
そこに何があるのかという問いに対して、絶対的な正解があるものと考えられていたそれまでと比べれば、ほとんど180度近い大転換だ。
そもそもあの時、世界では何が起こっていたのか。
人々は、驚くべき多くの事柄を次々と経験したのであった。
まず人間は何らかの力によって、無差別・無作為にバラバラに色々な位置に投げ捨てられた。その意図はよく分かっていないが、これによってほとんどの人々は家族や友人と引き裂かれ、人間関係を壊された。まずこれで自ら命を絶った者は多い。
それから人々は、それまで通りの時間感覚を失った。永遠の夜が訪れた世界では時刻や日付などの数字は必要なく、変わりゆく生活の中でほとんどの人々が時計やカレンダーを捨てた。
そしてもうひとつ、モノに光を当ててその存在を確定させるという役割が、天空の天体ではなくひとりひとりの人間の持つものとなった。
そもそもモノの本質とはすべて、実体を持たない真っ黒な闇そのものだった。それが現在の場合、人間の誰か一人にでも認識されることによって、それらは何らかの形と色、そして光を与えられて存在する。
そしてそれが何なのか――リンゴなのかミカンなのかブドウなのか――は認識する人間の意志次第で変化するもので、絶対的な正解などない。それが現在のこの世界において主流の考え方だった。
瑠伊は他には何も考えていないかのように、ただただ自分の乗る車の数十メートル先だけを、じーっと無心に見つめていた。
それには二つの理由がある。
一つ目は、落ちないために。
今まさに彼の視界のさらに向こうにどこまでも広がっているのは、ただ真っ黒なだけの実態のない無の空間。彼が少しでも油断して視ることを
先ほど腕時計をチラッと見た際もごく一瞬だけですぐ視線を戻すよう努めたのには、そういう理由があった。
そしてもうひとつは、今の今まで誰からも認識されていなかったこの道とそれを取り囲む景色を、正しく再現するため。
人の手によってしっかりと造られ、昔はれっきとした道として機能しておきながら、何らかの理由――人々の記憶から消えた、この場所を覚えていた人々がみな亡くなった、など――によって忘れ去られた道。
そんな舗装された廃道の数々をこうやって車で旅して、すべての余計な感情を排除したまま、自分の意志など一切介さずに元あった通りの姿に復元する。
それが彼、瑠伊の異質とも言える趣味なのだった。
彼をそこまで突き動かすものとは一体何なのか……。
その答えを匂わせるあるモノが、彼の乗り回すセダンの運転席と助手席の間のコンソールボックスの上に、それとなく置いてあった。車の屋根の上にマグネットでくっつけるタイプの赤いサイレンだ。
学生の頃から正義感だけはやたらと強く、さらに極端な理系脳で、絶対的な定義やそこから展開される論理などを拠り所とした彼に、刑事という職業はまさにピッタリだったと言えるかも知れない。
今は助手席に座る上司もいなければ、煙草の吸殻入れはもうずっと空っぽの状態が続いている。無論仕事もしていない。
だが瑠伊自身は、若手の新米刑事として徐々に軌道に乗ってきていた頃から大きく変わっていなかった。
曖昧でかつ柔軟なこの世界の有り
最早本当にあるのかどうかも分からない、モノのあるべき姿を求めて。
瑠伊は当ても無く旅を続けるのだった。
――後編へ続く――
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