第5話 揺れる心
『玲奈ちゃん、今頃、どうしてるのかなあ…?』
時折、いや度々、彼、水谷秀哉は、彼女、藤澤玲奈のことを、思い出すことがあった。
彼、秀哉は、彼女、玲奈との別れの後も、彼女のことが忘れられないでいた。それは、彼が恋をするまでは想像もできないような、強い想いであった。
例えば彼女がよく着ていたスカートと同じようなものを、街角で偶然見かけた時。また、彼女が好きだったスイーツを、店頭で偶然見かけた時。さらに、彼女と別れた時のような、太陽の照りつける天候と、同じような天気になった時―。彼は、そんな些細なことからも、彼女との「想い出」を感じていた。
そして、そんな時、彼は決まって、涙をこらえるのに必死になった。その涙は、波に例えるなら、さざ波のように静かなものから、嵐の時の波のように激しいものまで、様々であった。しかし、その涙のどれもが、彼女への「想い」、「愛」になって、彼の心に打ち寄せていた。
『僕は、玲奈ちゃん以外の女性を好きになることは、ないのかもしれない。』
そして彼が彼女のことを思い出す時に決まって、彼はそう思うのであった。
そしてその日も、彼は些細なきっかけで、彼女、玲奈のことを思い出していた。(この時も彼は、そのせいで涙をこらえるのに必死になっていた。)
それで、彼がクラブの練習前に、たまたま、クラブの部室の屋上に足を運んだ時…、
そこには、彼女、三上京子がいた。
「あ、三上さん…。」
「なんだ、水谷君か。」
彼女は彼の姿を屋上で見るなり、そう言った。しかし、彼女の態度は、普段クラブの部室で見せるそれとは、違ったものであった。
彼女は屋上で彼の存在に気づくまで、一生懸命、マンドリンの練習をしていた。その姿は、本当に「真剣」そのもので、彼には彼女が、懸命にマンドリンの声を聴き、マンドリンと「対話」しているように、感じられた。そして、いややはり、彼女の表情も、普段見せないような真剣なもので、彼には、彼女がいつも他人の文句を言い、さっさと練習を切り上げる「彼女」と、今日の「彼女」は、同一人物ではないのではないか、と見えるほどであったのである。
しかし、彼の違和感は、それだけではなかった。
彼女、京子は、よく見ると目に、うっすらと涙を浮かべていたのだ。
彼は1度、彼女にクラブの部室内で注意をした時、彼女の涙を、見たことがある。その時は、激昂した激しい「涙」であったが、今回の「涙」は、それとは違い、うっすらとした「涙」であった。
そう、それは、まるで昔のことを思い出すかのような、思い出に浸るかのような、涙―。
今し方昔の想い出のせいで泣いていた彼には、そのせいか余計に、彼女の涙がそんなものであるかのように見えた。
「三上さん、泣いてるの…?」
「ちょっと、いきなりやって来て何よ!」
…まあいきなり女の子にこんなことを訊いたら、そんなリアクションになるであろう、そう予想される反応を、彼女はした。
「ゴメン、三上さん…。」
「…ってか水谷君も、泣いてるんじゃない?」
「…あ、うん、ちょっとね…。」
彼、秀哉は、自分の涙の理由を(当然ながら告げず)、彼女にそう言った。
「あと三上さん、屋上で練習してた?」
「そうよ、悪い?」
「いや、その…、」
彼は、「三上さんが練習を1人でするなんて、意外だ。」というようなことを思っていたが、それを口に出すとあまりにも失礼なので、思いとどまった。
「…分かったら、邪魔しないでくれる?」
彼の発言の後、2人の間にしばらく沈黙が流れ、それを打ち破るかのように、彼女、京子がそう言った。
「…分かった。先に練習行くから。
本当にゴメンね、三上さん。」
「何度も謝らないで!」
そんなやり取りの後、彼、秀哉は屋上から出て行った。
『でも三上さん、何で泣いてたんだろう…。』
彼は、彼女の涙が、妙に気になっていた。それは、些細な原因かもしれない。例えば、友達とケンカをしたとか、付き合っていた彼氏に振られたとか―。(それを些細な原因だと言うと、ひんしゅくを買いそうであるが。)
しかし、彼には、その彼女の「涙」が、妙に引っかかった。そして、そのことに自分でも、びっくりしていた。また、彼はその(涙が気になる)原因について、自分なりに(それとなく)考えた。
そして―、
「あっ!」
彼は、思い当たることを1つ見つけた。その原因は―、彼女、玲奈だ。
彼は、前から彼女、三上京子は、彼の昔の彼女、藤澤玲奈に顔が似ていると、思っていた。しかし、今日の京子は、似ているのは顔だけではなかった。その泣き方が、どことなく、本当にどことなくであるが、玲奈に似ている―、彼は、そう思ってしまった。
『三上さんと玲奈ちゃんは、何が似ているのだろう…?』
彼はそのことに気づいた後、クラブの部室内で、そう考えた。そして、彼は、
『泣いている時の表情も、どことなく玲奈ちゃんに似ている。』
という、結論に達した。
何となくではあるが、彼女ら2人の女性は、泣き方が、似ている気がする―。特に、玲奈の方の、秀哉と玲奈にとっての最後のデートの時に見せた「涙」、「泣き方」と、さっきの京子の方の「涙」、「泣き方」とは、本当に似ているかもしれない。
それは、2人が同じような思い、同じような気持ちで、泣いていたからなのだろうか?
『いやいやそれはない。玲奈ちゃんと三上さんは、顔は確かに似ているが、性格は似ても似つかない。僕、玲奈ちゃんのことを思い出して、ちょっとセンチメンタルになっているんだ。だから、そんなことを思ったんだ。』
彼、秀哉は、そう思い直した。
そして彼は、気持ちを切り替えて、練習を頑張ろう、そう思った。しかし―、
彼には、もう1つ気になることがあった。
『三上さん、屋上で1人で練習だなんて、意外だなあ。
今まで、三上さんは才能だけで、練習もロクにしなくて、好き勝手言っていると思っていたけど、違うみたいだ。
意外と、真剣な所もあるんだな…。』
彼はそう考え、彼女のことを、(一方的にではあるが)見直した。
そして、彼、秀哉が部室に戻ってからしばらくした後、彼女、京子も部室に入って来た。
「やっぱりあなたたちマンドリン、練習が足りないわね。
今日は、最後まで練習見るから…、しっかりしなさいよ!」
「えっ…!?」
彼女の発言に、場の全員が、注目する。
「三上さん…、帰らないの!?」
その場にできた少々の沈黙を打ち破るかのように、彼、秀哉が口を開く。
「あのね水谷君、私が今まで練習を早めに切り上げていたのは、用事があったから。別に、練習をサボっていたわけじゃない!
今日は用事もないし、最後まで練習するよ!」
「あっ、そうなんだ…。ゴメン、三上さん。」
その答えは、彼、秀哉だけでなく、クラブ内の全メンバーにとって、意外なものであったようだ。
そして、彼女はアドバイスも交えながら、自分の練習も行い、他の人の練習も見ることとなった。
「…でもマンドリン、今までに比べて、感情表現ができるようになってるんじゃない?
それに、トレモロも、まだまだ下手だけど、ちょっとは進歩してるね。」
彼女のこの発言は、さらにその場にいる全員の、注目の的となった。
「な、何よ!
言っとくけど私は、ただのクレーマーとは違います!私は、ダメな所はダメって言うし、逆に、いいと思う所はいいって言うんだからね!
さ、練習練習!」
彼女は、今までの態度とのギャップの照れ隠しをするかのように、大声を出して全員にそう促した。それを見て、彼、秀哉は、
『三上さんって、かわいい所もあるんだな。』
と、思った。
「ギター、コードの鳴らし方は、前に比べてよくなってるよ。あとは、一音一音の発音をよくしたら、もっとよくなるかな。
ギターは他の楽器に比べて、1つの楽器の音量が小さいから、息をぴったり合わせて、頑張らないとダメだよ!」
彼、秀哉が屋上で彼女、京子を見たその日以降も、彼女、京子は、褒める所は褒め、的確なアドバイスをし続けた。そして、そんな彼女を、彼、秀哉は、微笑ましい気持ちで見ていた。
「ちょっと水谷君、さっきから何!?」
「いや、別に何でもないよ…。」
彼、秀哉は自分でも気づかないうちに、チラチラと彼女、京子の方を見ており、そう彼女に言われて怒られる羽目になった。
『でも、三上さんが、少し協力的になってくれて、よかったな。
三上さんは多分、
『私はいつも通り。』
って言うと思うけど、僕は、三上さんは、少し変わったと思う。
…元々三上さんは楽器演奏もうまいし、音楽に対する理解も深いし、高い能力を持っていると思う。
だから、三上さんがうちのクラブのメンバーにしっかりアドバイスをしてくれたら、こんなに心強いことはない。
そう、僕は一応うちの学年のリーダーだから、そう思う…。』
練習の休憩の合間に、彼はそんなことを、考えていた。
しかし、そこで、彼はあることに気づいた。
それは、
『自分の気持ちは、果たして本当に、学年のリーダーとして、の気持ちだけなんだろうか?』
と、いうものである。
『そうだ。僕は、この学年のリーダーなんだ。
まだまだ頼りない僕だけど、こんな僕でも、頼りにして、慕ってくれるメンバーがいる。だから、僕は頑張らないといけない。
そう、それで、三上さんが僕と一緒にこのクラブを引っ張ってくれたら、こんなに心強いことは、ないんだ。
でも、本当にそれだけなんだろうか?
こんな気持ち、前にも経験したような…。』
そこで彼、秀哉は、昔、中学時代のことを思い出す。
『そう、あの頃は、玲奈ちゃんを好きになりかけた頃だった。僕は気づいたら、玲奈ちゃんのことばかり、考えるようになっていた。それで…、玲奈ちゃんのことを、本気で好きに、なったんだ。』
そして、今の彼女、京子に対する思いが、その時の玲奈に対する思いと似ていることに気づくのに、それほど時間はかからなかった。
彼、秀哉の彼女、京子に対する最初の方の印象は、最悪だった。こんなに高飛車で、偉そうな女性がこの世の中にいるんだ、大袈裟に言えば、彼はそう思った。
しかし、彼の中で、何かが変わり始めた。そのきっかけは、彼が彼女に偉そうな物言いを注意した時、彼女が泣いたことだろうか?それとも、屋上でたまたま彼女が練習をして、また泣いているのを、見つけた時だろうか?
―ともかく、彼の中で、彼女に対する「悪い印象」は、消えてしまっていた。そして、彼の心の中に残ったのは、あの時、彼が玲奈を好きになった時と同じ、「淡い恋心」であった。
『僕は、三上さんに、恋をしている…?』
しかし、彼には、気になることが1つあった。
『じゃあ、僕の玲奈ちゃんに対する想いは、どうなるんだろう?
僕は今までずっと、玲奈ちゃんに恋をして来た。そして、その想いは、今も変わっていない。
確かに、中学の時の最後のデート以来、僕は玲奈ちゃんには逢っていない。でも、それでも、僕の玲奈ちゃんに対する気持ちは、これっぽっちも変わっていない。
僕は今でも、玲奈ちゃんのことが、心から好きだ!
でも僕は、こうして三上さんにも、惹かれている…らしい。と、いうことは、僕は、2人の女性を、同時に好きになった、ってことだろうか?
…僕が、そんな男だなんて、今まで思わなかった。こんな気持ちになるなんて、玲奈ちゃんに対して失礼だ。いや、それだけじゃない。三上さんに対しても、僕は失礼なことをしている。そうだ。2人の女性を1度に好きになるなんて、僕には、恋愛をする資格なんて、ないのかもしれない…。』
彼はそこまで考えたが、恋とは不思議なもので、その「恋心」を、簡単に封印できるものではない。彼はそのため、自分の中に芽生えた「気持ち」と、「罪悪感」の中で、揺れていた。
「ちょっと水谷君、聞いてる?
あなたうちの学年のリーダーでしょ?何、ボーっとしてるの?」
「あ、ゴメン、三上さん…。」
そう考え、彼がぼんやりしていると、彼女、京子がすかさず注意をする。
しかし、その日の彼は自分の中の気持ちのせいで、練習に集中できなかった。
そして、
「ゴメン、僕、今日は体調が悪いから、帰るね。」
と彼はメンバーに言い残し、(俗に言う仮病を使って)彼は家路へとついた。(その時、
「水谷君が練習抜けるなんて、よっぽどだね。ゆっくり、休んでね。」
と彼はメンバーに声をかけられ、そのことが彼の中の罪悪感をさらに増幅させた…が、仕方ない、と彼は諦めた。)
家に帰り、自分の部屋に入った彼、秀哉は、玲奈と京子、2人の女性のことを、考えていた。
『2人は、確かに顔は似ている。だから、僕は2人のことを、好きになったんだろうか?
いやそれはない。だって、2人は、性格は似ても似つかないんだから…。
いや、本当に2人は、性格は似てないんだろうか?物事に一生懸命なとことか、実は似てるんじゃないかな…。
…ちょっと待てよ!?』
彼は、そこであることに、思い至った。
そして彼は、彼女、玲奈と撮った数少ない写真を、彼の携帯電話のフォトアルバムから検索し、それを凝視した。
その写真は、2人が仲が良さそうに並んで、マンドリン演奏をしているものであった。
『やっぱり、そうだったんだ…。
でも、どうして?』
彼は、1つの謎を解いたような気分になり、少し達成感を覚えたが、同時に、大きな疑問が、湧いてきた。
また、そこには、その写真の日付、彼と彼女の思い出の日付が、刻印されていた。
『2211年、8月10日』
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