18.

 翌日。

 目を覚ましたときにはもう部屋に仁望の姿はなかった。

 身体を起こそうとして、身体のだるさに気づく。救急箱を取りに行くのも億劫なほど。

 体温は三七度台前半。私は、思っていたのより疲れていたのかもしれなかった。

 冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して、おとなしくベッドに戻る。特に予定がない日でよかった。

 タオルを巻いた五〇〇ミリリットルのペットボトルを額に当てる。

 横着してベッドの横に寄せたリュックから小さな紙のノートを取り出す。何を調べるでもなく、ただパラパラとページをめくる。

 はじまりは二人で作り上げた地図だったんだ。


 私達が出会ったのはまさにこの部屋。入寮日当日、同じ日に行われた歓迎会よりも少し前。

 私が部屋のドアを開けた時、仁望はもう部屋にいて、窓の外を眺めてた。

 自己紹介をしたはずなんだけれど、その時に何を話したのかは、よく覚えていない。ただひたすらに、窓際に立っていた彼女の姿だけが、私の記憶に刻まれている。

 そのあとは、同じ街の外出身という連帯感もあってか、すんなりと仲良くなった、ような気がする。学校が始まってからも、放課後は自習時間の隙間を縫うようにして、よく二人で校舎の外を並んで歩いた。

 私は、移動というのは自分で道を選んで進むものだと思っていたから、この街の交通システムには、その利便性に驚嘆する思いと同時に、どこか不自由さを感じていた。外を自分の足で歩くというのは、その埋め合わせだったのかもしれない。

 二人で歩きながらいろんな話をした。故郷のこと、家族のこと、好きなもの、嫌いなもの、ライブストリームの感想、授業の愚痴、食堂のメニュー。どうでもいいことばかり夢中になって喋ってた。

 ノートに地図を書き始めたのは、そんな他愛のない内容ばかりの、何より大切な時間を引き伸ばすための名目に過ぎなかったのだ。


 こういう時には、幼い頃にトラッキングへの反感を持ってしまったことを少し後悔する。

 やろうと思えば、ゆりかごから墓場までの軌跡をすべて、音声や動画に残すことが可能だ。自分の生活を切り売りすることさえ許せば、安全な場所に保管して、インデックスまでつけてくれる。自分がいつどこで何をしたのか、自分が覚えていなくてもちゃんと記録が残ってる。

 私の場合、そういったパーソナルログからオプトアウトしているとはいえ大まかな行動のログは残っているだろう。だから、あの日にどこへ行ったのかは、総当たりで調べれば、たぶん見つけられる。

 それでも、あの時に交わした会話は、もう誰の手の内にも残っていない。私達二人のおぼろげな記憶を除いて。


 数少ない記憶に残っている会話の一つに、どうして仁望はあの部屋を希望したのかというものがある。

 あれはたしか、入学した年のことだ。たしか二学期、どこへ行ったかは忘れたけど、その帰り道のはず。私たちは制服姿でデッキの一番上を歩いていた。真上には細く切り取られた薄い雲の掛かる青い空。

「仁望はさ、どうしてもっと高い階を選ばなかったの?」

 私は単なる間抜けだけど、ならばなぜ彼女はそうすることを選んだのだろうか。

「えっとね、単純に言えば高いところが好きじゃないからなんだけど、真面目に説明すると少し長くなるの」

 そうして彼女の口から紡がれたのは、彼女の家族の話だった。


 仁望は東の方にある工業地帯の出身だ。郊外に位置するとはいえ、私の故郷や、その最寄り駅周辺なんかよりよほど栄えている。この街に本社がある企業が構える工場も多く、お互い補い合うような関係にあると言える。

 そこへ引っ越してきたのは仁望のおじいさんの代で、それにはこんな経緯があったのだという。

 仁望のおじいさんは、四十年くらい前に国外で働いていて、仁望のお父さんも向こうで生まれたのだそうだ。

 ちょうどその頃、大きなテロ事件があった。世界史の教科書にも歴史の転換点として大きく取り上げられる、誰もが知ってる大事件。

 彼女の父は、街を象徴するタワーが崩れていくのを直接目にしたのだそうだ。その日はたまたま外出していて難を逃れた祖父もだいぶ参ってしまって帰国したのだという。

 結局、帰国後も都心での生活が無理になってしまい、郊外の工場へと転職した。彼女の父も、学校は都会のへ通ったけど、結局はその町へと戻ったのだそうだ。


「私は別に高いところが怖いとかそういうのないんだけどね、ただ家族、特に祖父が心配するから」

「本当はもっと上に行きたかった?」

「どうかな、よくわかんないや。ただ正直、ここの人たちみたいにガツガツ上層を狙うみたいな気持ちにはなれない、かな」

「そっか」

 この時の私は自覚していなかったけど、今から振り返れば、彼女が私から離れていってしまうことを恐れていたのだと思う。なにせ、私から見た仁望は、教師陣や同級生から思われているのと同じように、魅力的で輝かしいひとだったから。

 だから。

「卒業したら、仁望も故郷へ戻るの?」

 そう問いかける言葉は、結局私ののどから出てこられなかった。

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