注水迷宮脱出劇

吟野慶隆

第一話 寝耳に水

 早川占尊(うらたか)は、全身に冷たい刺激を感じて、目を覚ました。周囲を見回し、自分の置かれている状況を確認する。彼は今、断面が直径一メートルほどの円形をした通路の中を、仰向けに寝転ぶようにして浮遊していた。

 何のことはない、水中なのだ。通路は水で満たされていて、その内部に浮かんでいるのである。さらには、流れがあり、占尊の体は結構なスピードで、前方に向かって移動していた。

 彼は両手を左右の壁に突っ張った。なんとか、その場に留まることに成功する。

 どん、と足に何かがぶつかった。その拍子に手が滑り、占尊は再び流れ出す羽目になった。

(後ろに、何かある)

 しばらくして、前方に出口が見えてきた。そして数秒後には、勢いよく通路から吐き出された。低い位置に床があったので、後頭部から着地してしまい、打ちつけた箇所を右手で押さえながら悶えた。

「あ痛てて……」

 左手を後ろの床につき、上半身を斜めに起こす占尊の腹に、同じく通路から飛び出てきた物体が直撃したのは、その直後だった。

「おごっ?!」

 そう呻き、上半身を倒す。その「物体」とは、人間だった。女性で、黒髪を腰まで届く長いツインテールにしており、背は低く、胸は大きい。

 青のブラウスを着、青のミニスカートを穿いていた。濡れた服が胸や股間に張りつき、体のラインを露わにしている。占尊は数秒間、食い入るようにそれらを見つめた後、はっと気がついたように目を逸らした。

 占尊は、青のTシャツを着、青の半ズボンを穿いている。二つとも、彼の家にはないものだ。

「けほっけほっ……何なのよいったい……」

 占尊は、その声に聞き覚えがあった。顔に視線を遣ると、見覚えもある。

「圭? お前、圭じゃないか?」

 圭は顔を上げ、彼を見た。「そう言うあんたこそ、占尊じゃないの?」

 小田原圭は、同じ高校に通う幼馴染である。占尊とは昔から仲が良かったが、ツンデレ気味だったうえ、最近ではツンが増しデレが減っていたため、彼は正直、うんざりしていた。そこで近頃は、意図的に距離をとるようにしていたのだ。例えば、クラブ活動は、中学までは、二人とも同じ漫研に所属していたが、高校になってからは、占尊だけは、水泳部を選択している。

 圭は眉を顰めた。「……離れてくれないかしら?」

 飛び込んできたのは、そっちだろうが。占尊はそうぶつぶつ呟きながら、彼女の下からどいた。立ち上がり、周囲を見回す。

 縦横四メートル、高さ二メートル程度の小さな部屋だった。床には真紅の絨毯が敷いてあるが、壁や天井は、真っ白である。一方の壁には円い穴が空いており、そこから水が大量に、勢いよく吐き出されている。彼らはこれを通して、ここに送り込まれたのだ。

 穴の反対側の壁からは、二メートルくらいの幅の通路が彼方に向かって一直線に伸びていた。そこにはこの部屋と同じように、絨毯が敷いてあった。天井には一定の間隔で窪みがあり、それらの中に蛍光灯が付けられていて、さらにガラスでぴっちりと蓋をされていた。また、どういうわけか、壁には、天井から五十センチほど離れた場所に手すりのようなものが取り付けられていて、通路にも同じものが続いていた。

「ここは──どこだ?」

「知らないわよ」

「別に、お前に訊いたわけじゃないんだけど」

 ここがどこなのか、どうしてここに送り込まれることになったのか。それらは、まったく思い出せなかった。

(何か、手がかりはねえか?)

 そう思い、服中のポケットを調べた。すると、ズボンのそれに、銀色の鍵が入っているのを見つけた。

「何よ、その鍵?」

 そう圭に訊かれたが、わかるわけがない。ただ、重要そうなものである、ということだけはなんとなくわかった。「さあ」と答え、再び、ズボンにしまう。

 その後も占尊は、ポケットを調べていった。けれども、何も見つからなかった。圭も、同じようにして調べたが、彼とは違い、鍵すら入っていなかった。

「……ずっとここにいたって、事態が好転するわけじぇねえだろう」占尊は圭に話しかけた。「とりあえず、通路を進んでみないか?」

「……そうね。そうしましょう」

 そう決め、出発した。穴から吐き出された水は部屋を出て、通路を流れていき、絨毯を濡らしていた。

 しばらく進むと、壁が一メートルばかり途切れている箇所が左右にあった。そこからも道が伸びているのだが、その幅は途切れている幅と同じくらいであり、床には絨毯が敷かれておらず、壁や天井と同じ白色をしていた。また、通路のものと同じ位置に手すりが設けられていた。

「……どうする?」占尊は圭に訊いた。「右の道に入るか、左の道に入るか、直進するか」

 彼女は腕を組み目を閉じ、数秒間、うーん、と唸った後、「右の道に入りましょう」と言った。

「理由を訊いても?」

「理由なんてないわ。なんとなく、よ。強いて言うなら、私が右利きだから、かしら」

 右の道は入ってさっそく右に曲がっていて、さらにその先も左右に二、三回折れ続けた。そのまま歩いていると、分かれ道に出会った。通路が丁字路のように左右に分岐しているのである。

「今度は?」

「左」

「……理由──」

「なんとなく」

 左の道を進む。今度は十字路にぶつかった。

「いったん、さっきの丁字路に戻ろうか」占尊は踵を返した。「なんだか、迷っちまいそうだ」

 戻った後、今度はそのまま直進した。すると、壁が途切れそこから通路が伸びている箇所が左右に幾つか連続し、さらに突き当りはまた丁字路になっていた。

「こっちの道も、迷ってしまいそうね。……さっきの、絨毯の通路に戻りましょう」

 占尊には一瞬、それが至難の業のように思えた。丁字路が複数連続しており、絨毯の通路に続く道を持つものがどれかわからなかったためである。幸いにも圭が、目当ての分かれ道がどれか覚えていたため、簡単に戻ることができた。

「どうやらこの、絨毯の敷かれていない通路、ただの道ではなく、迷路になっているようだな」

「そうみたいね。今度は、こっちの、反対側の通路に入ってみましょうよ」

 ところが、入って早々に十字路があり、どの道も数メートル先で折れていて見通しが悪かったので、探索を諦めて戻ってきた。

「いったいどこなんだよ、ここはっ!」占尊は叫んだ。「どこかの遊園地のアトラクションか?」

「客を水で押し流して入場させるような、乱暴なことをする遊園地があるかしら?」

 その、皮肉めいた言い方に、一瞬いらついたが、こんなところで口論しても仕方がない。むかつきを抑え、「じゃあ次は、この絨毯の通路を進んでみるぞ」と言った。

 数十メートル歩いたところで、十字路にぶつかった。分かれたどの道にも絨毯が敷いてあり、突き当たりは丁字路になっていた。十字路から突き当りまでの距離はみな、十字路から最初にいた部屋までの距離と等しいように思える。

「どれを選んでも大差はなさそうね。直進してみましょう」

 今度は丁字路まで、左右に壁の途切れている箇所はなかった。丁字路では両方の道を確認したが、どちらにも絨毯は敷かれておらず、幅は一メートルくらいしかなかった。恐らく先程と同じように、内部は迷路になっているのだろう。

 その後十字路に戻り、他の二つの通路も調べてみたが、まったく同じだった。占尊たちは十字路の中央に立った。

「これで、この施設の構造は、だいたい分かったな。絨毯の敷かれた通路の長さは、四本ともおよそ五十メートル。それらの、絨毯の通路が一点、つまり今いる場所で繋がっている。もし全体を真上から眺められたなら、おそらく大きな赤い十文字に見えるこったろう。それぞれの通路の突き当たりには丁字路があり、そこから迷路に入ることができる。もっとも、四本のうちの一本の突き当たりには、丁字路ではなく水を吐き出す穴のある部屋があり、迷路への入り口は通路の途中に用意されているんだが」

「……でも、構造が判明したところで、ここがどこなのかという疑問が解決したわけじゃないわ。複数の迷路から成る巨大な迷路──ええい、紛らわしいわね。各迷路と絨毯の通路を併せた、この施設全体のことは迷宮と呼びましょう──だということは理解できたけれど……」

 しかし、いったい何のために作られたのか、どうして占尊たちが送り込まれたのか。

「……まさか、本当に遊園地か何かのアトラクションだったりしてな」

 顔を顰め、首を振った。どう思いを巡らしても、この迷宮の正体は分かりそうにない。

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