ダディケィディッド・トゥ・ザ・リリィ
幡良 亮
きぬぎぬ
ポリエステル56%、レーヨン36%、ポリウレタン8%の、首に通した紺色の布が5時間ぶりにシーツと布団ではない布に触れた肌に滑らかな触感をもたらす。
綿のパンツを太ももにこすらせたときのざらつきに、やっぱりパンツもポリエステルのほうがいいかな…とぼやいた。
汗がシーツに染み込んだ匂いがのつんとした冷気の匂いの奥から漂う。暖房がついているはずなのに…そうだ、そういえば暖房は3時間で消えているな…ストーブを見下ろすとやはり時間延長のランプが赤く点滅している。電源ボタンを二度押すと、赤い光の代わりに電源と書いてある文字の上にオレンジ色の光が灯った。いびきのような音を立ててギザギザの鉄の向こうから埃っぽく噴き出す温い風。部屋はまだ暗い。
「パンツはね、綿じゃないとだめ。」
前からの暖かい風と共に、後ろからの体温と耳に吹きかけられた息に体がはねる。なんだ、起きていたの。汗と、私の使っているシャンプーが混ざった香り。うん、さっきからね、まだ5時でしょう、もっかい寝ようよ。甘えないで、お風呂に入って支度をしなきゃいけないの…
「お風呂?じゃあ、なんでパンツ、履いたの?」
「裸で歩くのなんて気持ち悪いからに決まっているでしょう。」
「なんだ、私が出させたものを、感じていたいのかと思った。」
「自惚れないで!」
おお、ほんの冗談でしょう、こわいこわい。そうおどけてみせる。そもそも、彼女が私に出させたものなど、とっくにシーツにへばりついて乾いてカピカピになっていてもおかしくはないのだ。
「ねーえ、もっかい寝ようって」
「だから私は仕事の準備が…」
寝るより、抱き合おうよって言ったほうがいい?
向かい合うと私より爪三枚分くらい高い彼女の唇が後ろから、彼女の方を向いている私のそれに押し当てられると、力を抜きかかった私を見越したのか、ぱっと私の肩に乗せていた頭を私の髪に口づけてから離し、茶色の寝癖がついた短い髪をくるりと翻す。冗談だよ、語尾にハートでも付きそうな、まるで悪魔の囁きだ。こちらの動揺は彼女には手に取るようにわかっているに違いない。
「……私お風呂入ってくるから。」
「うん、おやすみ」
ベッドに腰かけて私に手を振る彼女に背を向けてお風呂へ。一通り自分の汗やまじりあった彼女の汗を流した後、熱いお湯を浴びて一息、彼女に振り回されている自分がばかみたいに思える。ため息をついて、キュッとコックを捻ると、痛いほどに冷たい水が降ってきた。
「…いい匂い」
浴室のドアを開けると、バターが焼けている匂いが部屋に充満していた。冷たい水を浴びて芯から冷えていた身体に暖房の温い風が気持ちいい。バターの匂いも私を温めてくれるかのようにまろやかで。壁の白色が淡い橙色のように見えた。
「でしょ、スクランブルエッグ、どう?」
勝手に台所使っちゃった、ごめん。私に朝食を作ってくれたらしい彼女は先ほどの底意地の悪い笑顔ではなく、にこりと効果音がつくくらいしっかりと笑った。手には泡のついたフライパンを持っていた。うちにはスポンジがないので、どうやら手で洗っているようだ。いつの間にか着ていた淡いブルーのブラウスとカーキのパンツは彼女の茶髪や白い肌、起伏の薄い顔に調和している。
「私あんまり朝は食べないんだけど…」
「ちゃんと食べないとだめだよ、テーブルに置いたからね。」
「わかってるわよ…」
最近一部しか使われておらずいたるところに埃が積もっていたガラスのテーブルは黄色と白のチェックの布巾で丁寧に拭かれており曇っているところは見当たらない、白地に金色の装飾が施してある中くらいの少し深い皿に黄色いスクランブルエッグが映える。人が作った温かいご飯などいつぶりであろうか。箸がないことに気づき、廊下の途中に位置する台所まで戻ると彼女の姿はもう消えていた。水音から、どうやら洗面所に行ったらしい。先ほど台所を勝手に使ったことに対しての謝罪は何だったのだろうか。洗って使いまわしているコンビニの割りばしを手に取り、心なしか早足でテーブルにつく。まだ温かいスクランブルエッグが唇を通りとろとろと舌に落ちる。甘い味がする。
いつの間にか洗面所から帰ってきた彼女がタオルを勝手に出して顔を拭いていた。
「じゃあ、仕事に行っちゃう前に私、帰るね。」
玄関のあたりに放ってあった財布しか入らないような大きさのベージュのかばんを肩から下げている。昨日、飲んでいるときに、高いやつなんだ。と言っていたのを思い出した。
食べ終わったスクランブルエッグの白いお皿を水に浸して、玄関で彼女を見送る。
「帰るって…ここがどこかわかって言ってるの?」
「そういえばわからない、ごめん、ここどこ?」
「新宿」
「へえ、新宿だなんて…お給料いいんだね。寂しくなったらまた連絡くれてもいいよ。」
社交辞令的にされたハグ。ブラウスから立ち上る鼻につくメンソールの中に漂う煙草の匂い。
「あなたみたいな怪しい人、二度も、入れるわけない。家も、名前も、あるんでしょ?」
「名前と住所、教えて欲しいの?」
明らかに好戦的な問い。彼女は私がそんな情報を望んでいないことを知っている。知っていてわざわざ問うてくるのだ。欲しいわけないでしょ、という私の答えを誘導して安心しようとしているのだ。
「欲しいって言ったら?」
彼女は目じりを下げて口角を上げた。
「家、あるよ。男と住んでる。来る?」
「じゃあね。」
メンソールのきつい煙草は、彼女のものではないのだろう。
ドアがばたんと音を立てて勢いよく閉まった。昨日の情事の時に彼女の肌に咲いていた赤や青、緑、紫の痕を思い出した。いつも違う匂いを素肌に纏っている彼女は、一体何のためにその柔らかい肢体にメンソールのきついブラウスで蓋をするのだろうか。
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