第4話来寇
碓氷峠から坂東に侵攻した前田参議利家、上杉参議景勝、真田安房守昌幸が率いる3万5000の豊臣軍北方隊は天正18年3月28日(新暦で1590年5月2日)、松井田城を攻撃した。松井田城は籠城戦の後、4月20日(新暦で5月23日)に降伏。この間、厩橋城が4月19日(新暦で5月22日)に降伏、その後、上野国から武蔵国の諸城は箕輪城(4月23日(新暦で5月26日))、松山城(5月22日(新暦で6月23日))、鉢形城(6月14日(新暦で7月15日))が相次いで北方隊に降伏した。
吉信は兵糧米を含む各種物資や武器弾薬の八王子城への搬入を1月上旬に完了させ、1月下旬になると八王子城と八王子の街に警戒態勢を敷いた。その後、甲斐国方面からの豊臣軍来寇を警戒した吉信は3月上旬に民百姓を含む全城兵に八王子城入城を命じ厳戒態勢を敷いたのである。しかし、敵はなかなか現れず、北方隊が氏照の弟、北条安房守氏邦が守る鉢形城に向かい、豊臣軍の別動隊が相模国から武蔵国東部、更には武蔵国北部と下総国に向かうとの情報が4月末に入ると吉信は厳戒態勢を一旦解いた。八王子の街は一時の平穏を取り戻す。
「やはり駄目ですな・・・かなり傷んでますな・・・」
「酒は保存が効くのではなかったのか?」
「そりゃ火入れした酒なら長持ちしますよ。うちの酒は全部生酒でしてな、温度を細目に確認して、常に面倒見てやらないと直ぐに駄目になる。2月近く締め切った蔵でほったらかしにすれば傷んで当然・・・」
「無理してでも飲んでしまった方がよかったな・・・」
飯屋の蔵で氏宗と亭主が嘆いていた。
「このまま何も無ければよいのですがね・・・小田原の御城が包囲されて1月近く。お猿さんも諦めて帰ってくれませんかね・・・」
「そうだな・・・このまま何もなければよいのだが・・・しかしだ、今回のお猿さんは相当しつこいらしいぞ。何でも自分の物にしなければ気が済まない様だ」
「厄介なお猿さんですな・・・仕方ない、酒屋さんから酒を分けてもらって、少しでも商売しましょうかね」
「それがよい。握り飯、菜っ葉の漬物と味噌汁、たまに丸干しという食事が続いたからな・・・籠城した者達は皆旨い食い物に飢えているだろう」
しかし、氏宗達の期待と裏腹に、6月15日(新暦で7月16日)、鉢形城降伏の報が入ると吉信は再び厳戒態勢を敷いた。この日、春蘭はさきを連れて再度八王子城に入城し、松木曲輪に入った。
天正18年6月21日(新暦で1590年7月22日)、利家、景勝、昌幸率いる北方隊2万7000と松井田城、松山城等の投降兵8000の計3万5000の軍勢が八王子城大手口に集結した。
「ついに来なすったな」
「この規模だと3万は下るまい・・・」
「大丈夫だ。策はある」
中の曲輪から吉信以下の将兵が眼下にひしめく軍勢を眺めている。足軽や民百姓は戦慄していたが、重臣達は余裕でいた。
「何だあれは!」
「あの旗印は駿河守(大道寺駿河守政繁)様!」
「裏切ったか!御由緒家にも関わらず何と卑劣な!許さぬ!」
「松山衆もいるぞ!」
「坂東武者にあるまじき裏切者共!叩き潰してくれるわ!」
山下曲輪を守備する城兵が敵中の松井田衆等を確認した。
「出羽守様に報告しろ!」
「寄手には駿河守殿の松井田衆をはじめ松山衆等も加わっているぞ!」
山下曲輪からの報告を受け、綱秀が叫んだ。
「敵は搦手口の存在を既に把握しているのでは!」
家重がとっさに反応する。
「心配するな。搦手口は八王子衆の、しかも一部の者しかその存在を知らない。陸奥守様が御本城様にお渡しした図面にすら搦手口の記載が無いのだから、駿河守殿が知るはずもない」
「そいういことだ。その証拠に搦手口はもとより恩方方面に敵影は無いとの報告が斥候から入っている」
「確かに・・・」
一庵と家範が家重を宥める。
「監物殿の推察のとおりだな・・・」
「左様、我らの思いのままに事が進んでいる」
「しかし、御由緒家ともあろう御方が・・・何という恥晒し!」
「そうだな。ここにいる民百姓の方がよっぽど武者らしいわ」
翌6月22日(新暦で7月23日)、降伏を勧告する軍使として直江山城守兼続が八王子城に赴いた。兼続は御主殿の会所に通され、吉信以下の重臣達と対面する。
「上杉家家臣、直江山城守兼続でござる。軍使として参った」
「八王子城城代、横地監物吉信でござる」
「御城代、早速だが開城の条件を示す。まず、八王子城に詰めている者は士分、民百姓を問わず明日中に城から全員退去されよ。その際には槍、弓、矢、鉄砲、弾薬以外は持ち出し自由とする。なお、槍、弓、矢、鉄砲、弾薬は没収するものではなく、殿下の沙汰あるまで上杉参議景勝が貴殿等に代わり管理するものである。次に、城から退去した者は、士分は所領に、民百姓は居住する街と村に帰り殿下の沙汰あるまで謹慎されよ。この間、互いに連絡を取り合うことは禁じる。以上を踏まえ、和戦の選択をされよ」
「重臣達と評定したいので暫し時間をいただけぬか?」
「よかろう。ただし、出来る限り早急に回答されよ」
「では、御免」
「監物殿、どうなさるおつもりか?」
別室に移ると氏宗が口火を切った。
「関白の軍勢が来寇した際には速やかに開城せよ、と陸奥守様は仰せられた。さらに、陸奥守様が小田原城から出陣した際にはその軍勢に合流せよ、とも仰せられた。以上が陸奥守様からの指示だ」
「刀以外の武器を奪われたら何もできないではないか」
照基が食い下がる。
「大丈夫だ。関白との手切れを予測して、陸奥守様は八王子城だけで鉄砲3000丁と弾薬80万発を準備された。鉄砲1000丁と弾薬30万発は小田原に運ばれたが、残された鉄砲2000丁と弾薬50万発の内、この城に搬入したのはその半分だけ。残りは八王子の街に隠してある。この鉄砲と弾薬で再武装して搦手口から忍び込み八王子城を襲い、武器弾薬を奪えばよい」
「陸奥守様はそこまで策を巡らしておられたのか・・・」
「そういうことだ。敵は搦手口の存在を把握できていないのだから簡単に侵入できる。今は恭順の振りをして敵を油断させれておけばよい」
「しかし、敵が八王子の街を掠めたら隠した鉄砲と弾薬が露見するのでは?」
「開城の条件として、略奪や放火を防ぐために敵に街を警護させればよい。民百姓を居所に帰せと敵は自ら条件を示したのだ。街を略奪放火されたら町衆が帰る場所もなくなるからな」
「なるほど」
一庵と家範が対応策を述べると一同は納得する。
「兵や民百姓にはどの様に説明するのだ?」
家重が吉信を質した。
「・・・想定外の敵勢故、落城が確実である以上、無益な戦に巻き込みたくないとしか言い様があるまい。今日は侍大将までとし、兵や民百姓等には明朝話そう」
「そうだな・・・それがよい」
「各々方、開城に異存はないな」
「ない」
「承知した」
(八王子から離れるなと、陸奥守様があえて八王子と言われたのはこういう意味だったのか・・・御味方は小田原城に籠ったまま。出撃する素振りもない・・・仮に陸奥守様が出撃したところで、春蘭の警護を盾にして八王子の街に居座ればよい・・・これでよいのかもしれないな・・・とにかく、これで明後日からさきや春蘭と共に元の暮らしに戻れるんだ・・・)
氏宗は氏照の言葉の意味を知り1人思いに耽っていた。
「お待たせいたした。開城の条件、承った。八王子城を開城いたす。ただし、当方からも条件がござる」
「よくぞ申された!無益な戦を避けてこそ真の武士。して、条件とは?」
「略奪放火が起きないように、貴殿等の軍勢で八王子の街を警護していただきたい。街を略奪放火されたら町衆の帰る場所がなくなりますからな」
「なるほど、御もっとも!条件、承った。早速本陣に戻り報告いたす。御免!」
「山城守、でかした!街の警護、某が承る。よろしいですな、加賀宰相(前田利家)殿」
「うむ、これで無益な戦をせずに済む。越後宰相(上杉景勝)殿、八王子城下の警護、頼みましたぞ」
「心得ました」
本陣に戻った兼続が利家と景勝に報告すると景勝は歓喜し自ら八王子の街の警護を買って出た。利家も満足げな顔をして微笑んでいる。しかし、1人だけ和議に不満でたまらない男がいた。
(戦が無ければ更なる恩賞が期待できない。所領を拡大することもできなければ戦利品を獲ることもできない・・・なんとかせねば・・・)
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