アクアク 山場

 夢見に連れられて到着した建物。夢見が自分の家だと言い張るその場所は、どう見ても、ラブホテルだった。


「…………は?」

「あれ。先輩たち、使ったことないんですか? プラトニックラブってやつ? ふふっ、私の方がオトナなんですね」


 迷いなく入場し、何か、パネルみたいなものを操作すると、出てきた券をぴっと持ち上げて、夢見と成人男性2人はスタスタとフロントと思われる場所に向かった。

 右も左も分からない俺たちをクスクスと笑う夢見に困惑し、俺と二ノ瀬は顔を見合わせる。とりあえず夢見らを追ってフロントの前に立つ。フロントは宝くじ売り場のようになっていて、中は見えない。小さく開いた小窓から、金銭や鍵をやり取りするようだ。


「宿泊、VIPルーム。5人」

「1万8000円」

「はい。出して」

「……はい」


 1万8000円。迷いなく2枚の1万円札を財布から取り出す男性の姿に、俺と二ノ瀬の脳裏に、同じ二文字、あるいは四文字が浮かんだ。

 浮かんだだけ。実際にその文字を口に出してしまうと、全てが終わってしまう気がした。

 他に何も考えられなくなり、ただ思考を停止して夢見の後について歩いていると、部屋についた。薄いピンクで全てが構成され、薄い天蓋に円く囲まれた、これまで見たことも無い大きなベッドに嬉しそうに飛び込んで跳ねる夢見。

 頭が真っ白に……むしろ、真っ黒に染まるのを感じる。


「いい部屋でしょう? 3P以上専用だから、あんまり使ったことはないんですけどね」

「…………」

「とりあえずカバンとか置いたらどうですか?」


 言われるがまま、ドアの前に突っ立ったまま、ぼうっとする意識のまま、手の力を抜いた。教科書やノートがどっさり入ったカバンが、重い音を立てて床に落ちる。


「あ、いけないんだー。ここ地下もあるんだから。下の階の人に怒られちゃいますよー。ふふ」


 俺の失態をいたずらっぽく咎めながら、夢見は、制服のリボンを片手でほどく。指を軽くひっかけて、ピッ、と一引きで動作を完了するその仕草は、まるで手榴弾のピンを抜くように剣呑なもので。

 シャツのボタンを、上から順に、ひとつひとつ外していく。全て外して、夢見は一瞬だけバンザイをする。シャツが肩から外れて、中途半端にはだけ、牛脂のように白く弾力のありそうな肌が、肩から胸にかけて顕になる。


「私のこと、知りたかったんですよね。全部話しますよ。

 私、こうやって『お父さん』たちに毎日ホテルで抱かれて、夜を過ごしてきたんです。世間では援助交際って言われるものですね。家には怖い男の人と、何もしてくれない女の人がいて、とても安心して寝たりできませんから。ラブホのベッドって、何もかもを忘れて熟睡できるんです。嫌な夢も見ないで済むし」


 やがてシャツを完全に脱ぎ捨て、下着以外、彼女の上半身が全て顕になる。

 彼女の腹には、薄い紫色が広がっていた。


「毎日体を売って寝場所を確保しているといっても限界がありますから、たまに家に帰るんです。これは3日前帰った時にやられたアザですね。痛いのはもうほとんど感じないんですけど、跡が残るのは嫌だなぁ」


 ごろん、と寝転んで、ベルトを外し、仰向けの姿勢でだらしなく横着にスカートを脱ぎ捨てる夢見。いつの間にか見失っていた2人の男性のうち、1人が少し身体から湯気を放ちながら、バスローブ姿で戻ってきて、ベッドに座る。


「虐待に怯える日々を過ごしていたある日のことです。今年の3月くらいかな。私の耳に、悪魔さまの声が聞こえるようになりました」

「悪魔……?」

「はい。私の目に、『アク』の文字が浮かび上がったのも、その時です。先輩たちは掛詞とか呼んで、呪いとして忌み嫌ってるみたいですけど、私にとっては……これは救いでした。

 悪魔さまから、人の『アク』感情をコントロールできる力をもらったんです。ほら」


 くいっ、くいっ、と、挑発するように、男性に向けて指を動かす夢見。

 男性は、バスローブを脱ぎ捨てると、ベッドの上に乗って……夢見の体に跨った。慣れた手つきで、彼女の年に合わない扇情的な黒い下着のホックを外し、剥いでいく。


「女子中学生を脱がすなんて、悪いですよね。女子中学生を買春するなんて、いけないですねー。

 その人が『悪い』と思っていることなら、なんでもさせられちゃうんです。だからあの先生も、私があの子をボコボコに殴ってても、それが悪い事だと思ってるから、見て見ぬふりをしてくれました」

「……嘘を吐いてたのか? 悪夢を見ているとか、眠らずに学校に行っているとか……」

「悪いことだとは思ってますよ。だけど、悪いことをしなくちゃ、生きていけない。アクの掛詞を使ってたくさんの人を悪意の言いなりにしてきましたけど、私も、悪魔さまに操られているのかもしれませんね。悪いことがやめられないんです。

 だけどね、先輩。


 生まれたままの姿になった夢見の、発達途中のささやかな胸に、男性の指が沿う。夢見の腕が、男性の胸を求めるように、彼の首を抱き寄せた。


「私って学のない馬鹿な売女ばいたですけれど、性善説と性悪説くらいは知っているんです。私は後者を支持しますね。大体の物事において、『善い事』よりも『悪い事』の方が、自分の得になりやすいじゃないですか。普段は理性に邪魔されて我慢するしかない悪い事を、悪魔さまはやらせてくれる。見えない鎖から人間を解放してくれる。

 だって実際に、私の両親であるはずの人たちは、それが悪い事だと知っていて私を虐げるんです。ずっと辛い思いをしてきましたが、私はもう、彼らのことを恨んではいません。アクをしたいのは人として当たり前なんですから」


 俺は、自分の考えがどれだけ甘かったのか、浅かったのかを、この時点になってようやく思い知った。

 善は、少なくとも夢見の価値基準においては、悪の対義語となり得ない。神聖な悪の心によって塗り潰され、蹂躙される、脆弱なセキュリティでしかないのだ。

 2人の男性のうち、もう1人も帰ってきた。もはやバスローブすら身に纏わず、まっさらな姿で、早足でベッドに歩いていって夢見ともう1人の男の上に覆い被さる。


「いゃ。もう、がっつきすぎ」


 くすくすと笑いながら、男の手を、足を、舌を受け入れる夢見。

 ――無理だ。

 俺は、脱力しきった体と、完全に止まってしまった脳みそで、そう理解した。

 この件は、間夢見の『アク』は、俺たちが介入しようとするずっと前から、終わっていたのだ。もはや手の施しようのないほどに、終わり、彼女の中で過ぎ去ったことになってしまっていた。


「不思議なことに、これだけたくさんの人に求められて、愛されて、虐待の日々から解放されても、心はちっとも満たされないんです。だから、私の悪魔さまを取り払おうとする先輩たちからは距離を置くべきだと分かっていても、それを拒絶できなかった。悪手を踏んでしまった。

 先輩たちはただの友達として私の心を満たしてほしかったんですけどね。あの子が余計なことをしてしまって、ここまで知られてしまった以上……それも難しいですよね」


 男性2人の愛撫を、いなすように優しく押しのけて、夢見は俺と目を合わせる。

 じっ、と見つめられるにつれて、ダメだと分かっているのに、いけないと分かっているのに……悪いと分かっているのに、視界が、暗闇に呑まれていく。

 夜が訪れると同時に理性で抑え込んでいた右腕の疼きが、止められなくなってくる。血管を打つ脈動の感覚を過敏に感じ、指先が痙攣し出す。

 真っ暗の世界で、夢見の両の瞳だけが、赤色に涼しく光を放っていた。


「せんぱい。わるいことしましょう」


 闇の中で、黒色に煌めく宝石が、呼んでいる。

 黒の背景に黒いもの、黒い光。存在するわけが無いし、見えるわけが無い。ならば、俺が見ているこの世界は、何なのだろう。

 俺の目は、いま、何を見ているのだろう。


 ――どうでもいい。

 走馬灯のように蘇る、苦い記憶。去年の冬に刻みつけられた掛詞と、偽物の善の心が生んだ、虹色の傷。

 こんなものをもう見ないで済むのなら、もう、善なんて捨てて、心地いい悪に身を委ねよう。


 俺は輝きに向かって、1歩足を踏み出した――。


「結城」


 名前を呼ばれて、振り向いた瞬間。

 股を、思い切り蹴りあげられた。

 声にならない悲鳴、さっきまで包まれていた暗闇から一転、真っ白の視界で星が飛ぶ。


「彼女の目の前で堂々と女子中学生との性交渉に応じようとするなんて、いい度胸。しばらくそうやって床とキスしているといいわ」

「二ノ瀬……!」

「なんで、なんで……?」


 悪魔的な笑顔が崩れ、夢見の額に汗が滲む。


「あなたが可哀想な事は十分分かった。けれど、申し訳ないけれど。私は善いとか悪いとか、そんな価値基準に意味は無いと思うわ」

「私の『アク』で操れなかった人なんて……これまで、1人も……!」


 カバンを起き、靴を脱ぎ。二ノ瀬は、男性2人を押しのけるようにベッドに乗っかって、夢見と対面する。

 鼻と鼻がぶつかるくらい接近する2人の顔。離れて横顔だけ見ているだけでも分かるほどに、夢見の瞳は動き、揺れている。


「準……先輩……」

「ごめんね。冷静なつもりだったんだけど、こうやって面と向かってみると、言葉が浮かんでこないみたい」

「えっ?」

「行動で示すから」


 凛と、真顔で夢見と相対する二ノ瀬。しかし、その声は、わずかに震えているのが分かる。

 二ノ瀬は、仰向けに寝転ぶ夢見の肩を両手で掴んで起こすと、右の手で、大きく振りかぶって彼女の頬を張った。


「痛いっ……!」

「…………」

「……そう。先輩も、そうなんだ」


 夢見の肩を掴んだまま、項垂れて、顔をベッドに向ける二ノ瀬。

 叩かれた夢見は、痛みに目を潤ませて、二ノ瀬を睨んだ。その目の色は、敵意でも憤慨でもなく、暗い失望の色をしていた。


「先輩も結局同じなんだ。援交はダメだとか、そんな下らない、善悪で物事を考えてる人なんだ」

「…………」

「……先輩……?」


 肯定も否定もせず、顔を上げた二ノ瀬。

 その表情はこちらからは見えなかったけれど、だけど、彼女の頬を伝ってベッドに落ちる雫に、俺は息を漏らした。


「あとで、私を同じように叩いて」

「えっ……?」


 消え入る声でそう言った二ノ瀬は、夢見を、自分の胸に抱き寄せた。というよりも、自分から二ノ瀬の方へ抱き寄ったという方が近いかもしれない。

 呆然と天井を見つめる夢見を抱きしめ、彼女の肩の上に、ぼろぼろと涙を零し続ける二ノ瀬。

 月並みな表現だが、すごい、と思った。

 善や悪以前に。倫理観や道徳以前に。俺に欠けていたものを、二ノ瀬は当たり前に持っていた。

 叩いて叱るだけではなく、共感し、環境に慣れて痛みに鈍感になってしまった相手の代わりに涙を流す。


「……何にも気の利いたことが言えなくて……ごめんなさい……」


 俺は、涙までは流せない。

 人の心の真贋が見抜けるほど成熟しているとは思わないけれど、しかし、この二ノ瀬の涙はどうあってもケチのつけようがない本物で。

 善い物でも悪い物でもない……限りなく、だった。


「私が……私がどうにかする。高校生の私に何が出来るか分からないけど、絶対、私が、あなたが正しいと思える暮らしを出来るようにする。だから、こんなことは――もうやめて」

「…………」


 大きく見開かれる、夢見の円い瞳。

 ラブホテルの一室、妖しい照明を反射する虹彩が、一瞬大きく揺れる。少し遅れて、その目尻から涙の川が頬を進んで、夢見を抱きしめる二ノ瀬の腕へと流れた。


 いつの間にか、その涙に溶けて流れて消えてしまったかのように……彼女の『アク』は、その瞳から消え失せていたのだった。

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