ノーライフ・ジェントルマン

白沢遼

日常

 この世には、全ての人間に等しく与えられるものが二つある。

 一つは生。そしてもう一つは死だ。

 けれど、僕には死が存在しない。

 端的に言ってしまえば、僕は死なない人間――不死者だった。

「ッハァ……ハァ……ハァ……」

 殺風景な薄暗いコンクリートの部屋に、梓夜しやの荒い呼吸だけが響いていた。 薄いネグリジェを着た彼女は馬乗りになって僕を見下ろしている。

 獲物を待ちわびた狩人のような鋭い視線。 その瞳の奥には情熱的と呼ぶにはあまりにも危険な光が宿っていた。

 梓夜が右手に持ったナイフの刃が窓から入る月の光に反射して淡く光る。 白い刃はザシュッ、という音と共に僕の胸に吸い込まれる。

「がっ……!」

 傷口が熱い。ジュクジュクと溢れ出す血液が肌を濡らす。

「くっ……いっ……」

 痛い、と言いそうになるのを何とか堪える。

 そうしないと、彼女が気兼ねなく僕を殺せない。

「暖かい……この熱、たまらない……」

 濡れ羽色の長い髪が、半月の月光の中で揺れ動く。

 梓夜はうっとりとした表情でナイフをさらに刺し込む。

「ぐぁっ……!」

 身体の内側からゾシャッ、という音が響き、呼吸を忘れるほどの痛みが刺さる。 体重の乗った一撃は、息苦しいほどの圧迫感でもって僕の命を奪おうと迫る。

「さぁ、これでフィナーレよ」

 熱い吐息と共に耳元で囁かれたかと思った瞬間、今まで以上の灼熱と痛みで意識がブラックアウトした。



「はぁ……スッキリした」

 次に意識を取り戻した僕が見たのは、夢見心地で虚空を見ながら呟く梓夜の姿だった。

「……降りてくれないかな」

「もうちょっとこの余韻に浸ってから……ぅん、オッケー」

 梓夜がやっと離れてくれたので、仰向けの姿勢から起き上がる。 上半身裸でコンクリートの床に寝そべるのは冷たくて嫌なのだが、僕の血でカーペットや家具を汚されたら困る、というのが彼女の言い分だった。 それは確かにもっともな意見だが、いつも殺される僕の身にもなってほしい。

『殺人部屋』からリビングに戻ると、早速梓夜が夜食を作っていた。

「今日はしんどいから卵雑炊ね。 苦情は受け付けないから」

「はいはい」

 座布団の上に畳んでおいたパジャマに着替え、丸テーブルの前に座って夜食が出来上がるのを待つ。

深継みつぎの器ってどれだっけ?」

「薄緑の焼き物だよ」

「あぁ、あれね。 了解」

 田舎の深夜帯はテレビもあまり面白くない。 ほとんどのチャンネルが放送を停止しているか、テレビショッピング、良くて都会の深夜番組の再放送くらいしか流さない。

 買う気のないテレビショッピングの番組を見ていると、梓夜がぐつぐつと音を立てる土鍋を持ってきた。

「料理お疲れ様」

「そっちだって殺されるのお疲れ様」

 お互いを労い、夜食に手を付ける。

 熱々の卵雑炊を土鍋からすくい、自分の器に取り分ける。

 レンゲで白、黄、緑の色彩をすくい上げて、息で食べれる温度まで下げてから口の中に入れる。 トロッとした卵がお米に絡み、ネギの香りがほんのり口の中に広がる。 鶏がらの素を使ったシンプルな味付けだけど、それが美味しい。

 しばらくの間黙々と卵雑炊を食べていると、梓夜が僕の方を見ていることに気づいた。

「いい食べっぷりだよね。 殺されたあとなのに」

「そっちだって殺したあとなのにずいぶん食が進んでるようだけど」

「私は慣れっこだから別におかしくないわよ?」

「それなら僕も同じだよ」

 梓夜は殺し続け、僕は殺され続ける。

 こんな奇妙な同居生活が始まってもう半年が経った。

 しかし、半年前の出会いはなかなかひどかった。

 夜中に田んぼ道を歩いていたら、背後から突然刺されたのだ。

 振り返ると、そこには目の下に隈を作った梓夜がいた。

 今になってわかることだが、あの時梓夜は一か月は人を殺していなかった。

 彼女にとって殺すという行為は、自分の精神を安定させるために必要なものだった。

 そして、死なない僕が対象になったのは運がよかったのかもしれない。 僕が刺されなかったら、最悪誰かが死んでいたかもしれないから。

「やっぱり深継って不思議よね。 やっぱり死なないとそれなりに考え方も変わるものなの?」

 ふーふーと卵雑炊を冷ましながら、梓夜はそう訊いてきた。

「どうだろうね。 まぁ、死なないってことは人生を終わらせることができないんだよね。 それだけがちょっと不満かな。もういいやってなった時に死ぬ装置でもあったらいいんだけど」

「そんな都合のいいものがあるわけないじゃん。 そんなのがあるんだったら、私専用に処刑用クローンとか作られるべき」

「仮にあったとしても、梓夜が殺し過ぎて破産しそうだ」

「あー、それはありそう」

 そんな物騒なことを話しながら夜食を食べ終わると、梓夜は二人分の食器を洗い始めた。

 水の流れる音がやけに大きく聞こえる気がする。

 それはテレビを消したせいか。

 他に意識を向ける場所がないせいか。

 水の音すらも途切れると、彼女が自分の指定席に戻ってきた。

「ところでさ」

 梓夜がそう切り出すと、

「深継は私が死んだらどう思う?」

 そんな突拍子もないことを言ってきた。

「多分、悲しくなると思う」

 思ったことをそのまま伝えると、彼女は目を丸くした。

「こんなにひどいことをしてるのに?」

「梓夜の殺人癖は治せないものでしょ? それをどうこう言っても仕方ないし」

「あんたねぇ……譲れない領分とかあるでしょ普通」

 梓夜はリモコンで僕の顔を指しながら呆れ顔でそう言う。

「そういう領分とか、しがらみとかってさ、死ぬのが怖いから守ろうとするんじゃないかな。 殺されても死なない僕には守るだけの理由が思いつかないんだよね」

「人との繋がりも?」

「ほどほどに、って感じかな。まったくないと寂しくなるから」

「ふぅん……」

「逆に梓夜は何で人を殺すの? ずっと気になってたんだけど」

「私? 私は……生きたいから、かな」

「?」

 よくわからない返しに首を傾げる

「そんな呆けた顔しないでよ。 私はね、命を奪うことでしか生きてるって実感することができないの。 他の人たちがどうかは知らないけど、きっと私は殺人衝動を誤魔化すことができなかった不器用な人間なんだと思う」

 梓夜は自分の右手を無機質な部屋の明かりにかざす。

「赤くて温かい血を浴びるとさ、生きてるって思えるんだよね。 命を浴びてる。 熱を纏ってるって。 きっと私はこの生き方を捨てることはできない。 死に至る病だって私の衝動を殺すことはできない」

「それじゃ、僕はずっといた方が良さそうだね」

「私と?」

 彼女は虚を突かれたかのように聞き返す。

「うん。 梓夜を放っておいたら僕の知らない間に絞首台に立ってそうだし」

「笑えない冗談はあんまり好きじゃないわ」

 鼻で笑う彼女の姿が、なぜか僕の目には悲しげに映った。

 人殺しの咎を背負い、それを仕方ないものとして諦めているようにも思える梓夜の独白めいた言葉。

 けれど、それを吐き出せるのは逆に幸せだとも思う。

 僕の不死の咎は、きっと誰にも話すことはできない。 たとえ梓夜であっても。

「僕は、君が笑わなくなるまで一緒にいるつもりなんだけど」

 なのに、僕はこんな言葉を吐いてしまう。

「そんなこと、真顔で言わないでよ。 ……びっくりするじゃない」

 眉根を寄せてブツブツと抗議する梓夜が愛おしい。

 胸に詰まる感情を悟られないように、この想いを別の言葉に変える。

「やっぱり梓夜は可愛いよ」

「な、何言ってんのよ! 調子狂うわ!」

 突然立ち上がって顔を真っ赤にする梓夜。

「そう? でも、可愛いのは変わらないんだから仕方ないよ」

「っ……もう! この話は終わり! もう寝るから!」

「はいはい、おやすみ」

 梓夜はブツブツ文句を言いながら寝室に入っていった。

 それを見送った僕は、カーペットに横になって、クッションを枕代わりにしてまぶたを閉じた。



 空気が重い。

 湿気を多分に含んだ生暖かい風が頬を撫でる。

 窓際のレースのカーテンを揺らすそれは、雨の匂いがした。

 命の生まれ出ずる土の香り。

 生も死も洗い流す平等なる者の残滓。

 頭の片隅を無意味に埋める私の一部がそんな言葉を紡ぎ出す。

 その言葉は何も生み出せないのに。

 私は奪うことしかできないのに。

 胸一杯に夜気を吸い込んで、形にしたくない感情を吐き出す息に混ぜ込んだ。

 深継に会って半年は過ぎた。

 どこまでも身勝手に、刹那的に享楽だけを求めて生きてきた私が初めて出会った、奪いきれない人。

 本当に人なのかも怪しい男。

 命は果てず、精神も朽ちず、雲を掴むような希薄な存在感。

 それでも、彼は私の目の前にいる。 厳然と、血を通わせた人間の姿で。

 窓際のベッドに身体を投げ出して、枕元に置いてあるデジタルの置き時計を見る。 午前二時を少し過ぎたくらいだというのを確認して、あごを枕の上にのせる。

 深継を殺したあの日まで、私は人を傷つけたことはあっても、殺すことはなかった。

 相手の釘バットを奪って執拗に足を狙ったり、腕の筋を狙ってカッターナイフを振ったりくらいは普通にしていたけれど。 私に絡んできた人は例外なく畜生にも劣る人間のクズだったので、心置きなく半殺しにしていた。 しかし、そこ止まりだった。

 昔は相手が必死に悲鳴を上げて命乞いをする様を見るだけで満足できた。

 漠然と、理性の鎖に縛られていたのかな、と今になって思う。

 情け容赦のない暴力を振るっていた人間の奥底にさらに底が存在していたなんて、誰が想像できるのか。 私だって予想外だった。 自分の奥に眠っている本能がここまで破滅的だったなんて。

 全てを壊しかねない衝動の塊だった私を受け止めたのが深継だった。

 実のところ、私は深継以外の人間――人間と言っていいのか分からないけれど――を殺したことなんて一度もない。

 本当に偶然だった。 偶然死なない深継がいて、私は偶然欲求不満だった。

 その結果が、出会い頭の通り魔。

 仰向けになって白いレースのカーテン越しに半月を眺める。 あの日はたしか満月だったっけ。

 枕の下に手を伸ばして、隠しておいた守り刀を取り出す。

 赤漆の鞘に収まる刃は、かつて人を斬ったという刀を磨り上げたものらしい。

 守り刀と言うより、殺し刀だ。

 人の血を吸った不吉な凶器。

 私と同じだ。

 幾人もの血を浴びたモノという共通点が、物でしかない守り刀に対しての愛着を湧かせる。

 私はきっと人殺し以外にはなれない。 この刀が刀以外のものになれないように。そんな思考が深く胸を突き刺す。 どうして心と胸が繋がっているのだろうという疑問が泡沫に消える。

 そう、泡沫だ。

 この世の全ては弾けて消える泡のようなもの。 それに他の泡がしがみついて大きくなっているだけ。 どこかが弾けても、また繋がる。 元通りにはなれなくても、別の形に変わってそこに在り続ける。

 膨らんでは弾けて、弾けては膨らんでの繰り返し。 際限も秩序もありはしない。 意識すらもしない。

 そこまで考えて小さく頭を振る。

 深夜はとりとめのない考えばかりが浮かんできてキリがない。 こんなバカらしいことに悩むくらいなら寝てしまおう。

 守り刀を元の場所に戻して、私は毛布に包まった。

 六月とはいえ、夜は肌寒い。 ネグリジェなんて着ていればなおさらだった。

 そういえば、深継を殺した時に返り血を浴びたような……。 そっと毛布をめくって確認してみると、やはり深継の血がお腹の辺りにポツポツとシミを作っていた。

「あーあ、やっちゃった」

 殺す前に着替えなかった自分が悪いのだけど、どうしても深継のせいにしたくなる。

 このままだと気になって眠れないので、新しい寝間着に着替えて、血に染まったネグリジェを洗濯機に放り込む。

 ふと、深継の様子が気になって、リビングを覗いてみると、深継は座布団を枕にして眠っていた。

 どこからどう見ても二十代の平凡な男だ。 髪は染めていないし、ピアスの一つもしていない。 特徴らしい特徴のない深継には、一つだけ他人と見分けることのできる要素がある。

 それは、目だ。

 この世のあらゆるモノを許し、諦観の中に収めたような、深い黒。 優しさと物悲しさを帯びた瞳には、一体何が見えているのか。 私には想像もできない。

 きっと、死なない者にしか分からない苦悩があるのかもしれない。

 縁者の死。

 迫害。

 時流の波。

 看取る者。

 逃げ場のないとこしえの命。

 私も彼を置いて逝く。 深継が出会ったすべての人と同じように。 でも、他人と同じままなんて真っ平だ。 記憶に、脳に焼きつくようなものが欲しい。

 そう思った時、静かに寝息を立てる深継の目尻から、一筋何かが流れた。 暗がりの中で目を凝らしてみると、それは涙だった。 深継の涙は重力に従って、すうっと軌跡を描く。

 何か悲しい夢でも見ているのか、私にはそれくらいしか想像することはできない。 けれど、普段の深継からかけ離れた姿に、私の目は釘づけになっていた。

 まるで呼び水に引き寄せられるように、深継に近づく。 フローリングの床が軋んで、ピシッという音が静寂に消える。 空気を読まない板に心の中で舌打ちしながら、深継の前でしゃがみこんで彼の顔を覗く。

 眠っている顔は変わりないのに、涙の跡が夜闇の中で幽かに光る。

 その跡を無性になぞりたくなるが、なんとか自制する。 そんなことをしたら深継が確実に起きてしまう。 言い訳を考えるのが苦手な分、面倒なのは避けたい。

 深継を触りたくてウズウズする右手の人差し指を左手で包んで、気持ちを鎮める。

 なんでここまで気を使っているんだろう。

 寝ている彼を起こしたら悪いからか。

 さっき深継の特別な存在云々なんて考えたせいか。

 私も少し寝ぼけてきたのかもしれない。

 これ以上魔が差す前に部屋に戻ろう。

 深継を起こさないよう静かに立ち上がり、部屋に戻ろうとした時、左の足首を掴まれた。

 驚きで心臓が一際強く脈打ち、ひっ、と小さく声が漏れた。

「ねぇ、どうしたの?」

 下から深継の眠たげな声が響く。 深継ごときに驚かされたのが無性に腹が立つが、なるべく平静を装うよう努める。

「べ、別に、どうもしないわよ。お気に入りのネグリジェがあんたの血で汚れてたから、洗濯機に入れにきただけだし」

「あーそうなんだ。なんかごめんね」

 すこし間延びした喋り方は寝ぼけているからだろうか。 しかし、深継の血を流したのは私なのに、どうして彼は謝るのか。

「どうして謝るのよ」

 そう思った時にはすでに言葉にしていた。

 思考に反してその問いかけは些かぶっきらぼうな印象で、それを発した自分が妙に気分を害されたように感じた。

「うーん……人らしい振る舞いだから、かなぁー」

「人らしいって、深継は一応人間でしょ」

 そう問いかけると、深継は少しだけ、言葉を詰まらせた。

「……梓夜はそう思ってるんだね」

「そうよ。 何か文句でもあるの?」

「いいや、梓夜がそう思ってくれている間、僕はそういう存在になれる。 それだけで僕は満足なんだ」

 殺しても死なない人間を人間と言った私は正しいのだろうか。 人の形を象った怪物と言ってもいい存在を、人と呼んでしまってもいいのだろうか。 そんな考えが頭をよぎる。

「……変なの」

 そうとしか私は言葉を返すことができなかった。

「ふわぁ……それじゃ眠気も戻ってきたし寝るよ。おやすみ」

「おやすみ」

 下から上がった欠伸を最後に深継の手も離れ、私は足早に自室に戻った。 そのままベッドに倒れこんで、何も考えずに目を閉じた。



「もう寝たかな」

 梓夜がいなくなったリビングで、僕は暗い天井をぼうっと眺めていた。 瞬きもせずに一点を見つめていると、砂嵐のような光が視界を埋めては引いていく。 幻の海の渚を漂う視線は、落ち着きのない軌跡を描く。

――私はこの世界が不条理に満ちていると知った上で死の克服を目指しているのです。 肉体の劣化を止めれば経験をこれまで以上に蓄積でき、それが人類全体の進歩に繋がれば世界をより良いものにできるはず――

 不老不死を研究していた人の言葉だ。 その人は不老不死の先にある繁栄を夢見て死の恐怖と向き合っていたが、結局死んでしまった。 きっとあの人は不老不死という夢で恐れを紛らわせていたのかもしれない。 それだけ死というものは絶対的であり、命に差す影のように表裏一体の存在だ。

 しかし、追い求めていた本人が成し遂げられなかったことを、無関係な人間が偶然の連続で手に入れるなんて、世の中はやはり奇妙な因果で回っている。 きっとこれからも、それを感じることになるのだろう。

 窓の端から差し込む月の光を浴びながら、目を閉じる。

 僕のことを人間だと言ってくれた彼女に、いったい何をすることができるのだろう。 たとえ身体を捧げたとしても、供された側が死んでしまうようなら元も子もない。 やはり、今のように飽きるまで殺され続けるのが手っ取り早いのかもしれない。

 そこまで考えてふっと笑い、本格的に眠る。

 不死の身体を抱えながら、僕はまた擬似的に死んでゆく。

 自我の輪郭が、夢の中で溶け落ちるように。

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