第87話 ククルスの花の香り

 踏段裏に避難している俺たちに、アスリンから風の精霊術による伝達が届けられ、玉座の間で続く戦闘の状況が伝えられた。


 戦闘開始直後の不意を突く閃光と、青白い光の爆発で六小隊を壊滅させたドラゴニュートの魔術師は、キアラの古い友人だった。現在、彼女は戦闘を放棄してキアラの元で保護されているのだという。上層の回廊へ向かうためには、一度玉座の間を出て上層へ向かう階段を上らなければならない。どんな移動手段でキアラたちがいる上層へ辿り着いたのかわからない。


 とりあえず、目の前から最大の脅威が消え去ったことは、レンスターと俺たちにとってラッキーだった。光の魔術師が戦闘を放棄してから、敵は上層の回廊を支える四本の大柱に身を隠したまま動こうとせず、時々威嚇の発砲をしてくる程度で膠着状態が続いている。


 最大の脅威が去ったとはいえ、まだ親衛隊竜騎士団ドラッヘリッターの精鋭は二人いる。彼らが意思を持つドラゴニュートであるなら、彩葉のように何らかの竜の力を使うはずだ。


 キアラに保護されている光の魔術師からの情報によると、残りのドラゴニュートの二人は、魔術師ではなく戦闘のエキスパートらしい。そのうちの一人は剣技の達人で、もう一人は飛行能力を持つ射撃の名手なのだとか。


 先程まで敵として交戦していた光の魔術師の発言は、キアラの友人だとしてもまだ信用できない。しかし、虚偽を見破る精霊術を持つアスリンが言うのだから間違いないのだろう。



 ◆



 俺は彩葉から、縦長に切り裂かれたフェルトの切れ端を受け取った。それを止血帯代わりにして、左上腕を負傷したロレンスさんの傷口に巻く。この止血帯は、俺が羽織っていたトレンチコートの裏地のフェルトを、彩葉が竜の爪の力を使って縦長に切り裂いたものだ。


「手間を取らせてすまない、二人とも……。陛下をお護りしなければならない僕がなんてザマだ……」


 自嘲気味に俺と彩葉に謝罪するロレンスさんは、唇にチアノーゼが出ていた。出血の量が多いことでショック症状が現れ始めている証拠だ。


「ロレンスさんが謝らないでください。あの状況は誰も想定できません。傷に響きますから、無理に喋らないでください」


「彩葉の言う通りです。安全になったらすぐに治癒士を呼びましょう。それまで、このフェルトの切れ端を強く抑える感じで圧迫して止血してください! この方法が一番効果的だと、俺たちの世界の医学で伝えられています」


 俺は彩葉の発言を肯定しながら、ロレンスさんに圧迫止血を説明した。彩葉が心配しているように、ロレンスさんの腕の銃創は結構深い。


「承知した、ハロルド……」


 ロレンスさんは返事をすると、そのまま壁に寄り掛かって腰を下ろし、左腕に巻いたフェルトを右手で抑えた。見ているだけで辛そうだ。


 ロレンスさんの怪我も重傷だったけど、最前線で敵の銃弾を浴びてしまった四人の衛兵たちの怪我も思わしくない。そのうちの一名は失血量が多く、既に意識がなくなってきている。このままでは彼の命は危ない。衛兵たちを救うためにも、一刻も早く治癒士を呼んで魔法による治療が必要な状況だった。


「カトリ、ハロルド! 敵は想像以上に強く厄介だ……。安全な後方……だったはずなのだが、厳しい戦闘に巻き込んでしまってすまないと思っている……。しかし、このまま敵を逃がすわけにゆかぬ。兵たちの命も、このままでは危うい。この場で頼れるのはそなたらだけだ。そなたらの力を貸して貰えぬだろうか?」


 公王陛下が俺と彩葉を交互に見つめ、謝罪と共に協力を依頼してきた。俺と彩葉は互いに顔を見合わせ頷いた。俺たちが無言のうちに出した答えは、もちろんイエスだ。


 交渉が決裂すれば、レンスターはエスタリアの使者を本体へ帰すつもりがなかった。それと同様に、エスタリア側も交渉が決裂すれば、レンスターをそのまま占領するつもりでいたのだと思う。使者の護衛の中にいる親衛隊竜騎士団ドラッヘリッターは、その裏付けに繋がる。


 現在の予期せぬ展開は、双方の思惑が交錯した結果に過ぎない。


「もちろんです、陛下! 私は陛下の従士! 交剣の儀で誓いを立てた時から、私の覚悟は決まっています! それに今は不測の事態。陛下が謝られることではありません!」


 彩葉は陛下に即答した。俺もレンスターに残留を決めた時に、戦争に身を投じる覚悟はできていた。ただ、彩葉の命が危険に晒されることに対する覚悟は、俺の中でできていない。たぶん、この先もそれは永遠にできないと思う。俺にとって彩葉は、身を挺してでも守りたいと思っている対象なのだから。


「陛下、自分も全力で支援いたします!」


 俺が陛下に答えたその時、激しい爆発音と震動が玉座の間に二度響き渡った。


 最初の爆発は近かった。玉座のすぐ近くで起きた爆発かもしれない。パラパラと砕け散った小石や木片が踏段上部から落ちてくる。


 二発目の爆発は、爆発の音に紛れて男の叫び声が聞こえた。声の質からして、幸村の声ではない。


 玉座の踏段裏に身を潜めている俺たちの位置からは、どこで何が爆発したのか見えない。ただ、今の爆発は呪法によるものではないと思う。辺りに火薬の臭いが充満している。恐らく手榴弾か何かだろう。


「うわぁぁっ! 今度は何なんだというのだ?!」


 負傷してパニックになっている衛兵の一人が、頭に両手を当てながら悲鳴に近い声を上げた。踏段裏にいる限り状況がわからない。この場にいる誰しもが、彼の問いと同じことを思っているのだから答えられるはずがない。


「大変です、陛下! アスリンから私に伝達の精霊術が届きました。今の爆発で敵を玉座の間に封じていた扉が爆破で破壊されたそうです! マグアート伯爵やドラッヘリッターが城内に向かったら……。玉座の間から逃げられてしまう……」


「なんだと?! それはまずい……」


 公王陛下が青ざめた表情で立ち上がりながら言った。


 どうやらアスリンは、彩葉に伝達の精霊術を送ったらしい。彩葉とアスリンは、普段から時々念話と伝達で、言葉を使わずにコミュニケーションを取ることがある。有視界内と範囲が限られてしまうけど、考え方次第では無線以上の性能を有していると思う。


「ハル、私、行かなくちゃ……。王妃様とメアリー皇女殿下を守らないと……。卑怯者が考えそうなことだもの……」


 王城内のレンスター家の居住区には、フローラ公王妃やメアリー公女殿下もいる。彩葉が言う通り、マグアート伯爵やドラゴニュートに人質にでも取られでもしたら……。


「彩葉、俺も一緒に……」


「ダメよ、ハル。ここを守れるのはハルしかいないもの。あいつらが一番狙っているのは陛下の命。私の代りに陛下をお願い!」


 俺も一緒に戦う決意を伝えようとしたけど、彩葉に言葉を遮られた。


 真剣な眼差しで俺に訴える彩葉を見ると、俺はそれ以上何も言えなくなる。たしかに、彩葉が敵を追って玉座の間を出た隙に、陛下が狙われたらと思うとゾッとする。


「ハル……、少しだけかがんでもらっていい?」


 俺は彩葉の言葉の趣旨を理解できないまま、言われるままに少し身を屈めた。


「こ……、こうか?」


「うん、ありがとう」


 彩葉はそう言いながら俺に近づいて、そっと両腕を俺の首にまわした。そして、彩葉はつま先で立ちながら、目を閉じて俺の左肩に顔を埋めた。


 時と場をわきまえず、俺は思わず彩葉の行動にドキッとさせられた。


「彩葉……」


「少しだけ、このままでいさせて……」


 揺れる黒髪に合わせてラベンダーに似た香料の香りが流れてくる。たしか、この原料の花の名前はククルス。


 俺も左腕で彩葉を包み込み、そっと抱き寄せた。


 彩葉をこのまま行かせたくない。彩葉と触れ合えることが、これが最後になってしまうかもしれないと思うと急に怖くなった。


 僅か数秒しか経っていないけど、まるでずっと時間が止まっているように感じる。


「だめだ、彩葉。俺は……、お前を一人で行かせたくない!」


「こら……、ハル。おまえって言わないの。大丈夫、私は必ず生きて戻るからっ!」


 彩葉は目を開けるとニヤッとした笑みを見せながらそう言った。無意識のうちにという、彩葉が嫌う呼び方をしてしまったことに対して、彩葉は指摘こそしてきたけど口調は怒っていなかった。


 そして俺の左腕をそっと振り解くと、もの凄い速さで踏段の裏から飛び出して行った。すぐに彩葉の姿は見えなくなった。俺の左肩は、まだククルスの花の香りが残っている。


 俺にはわかった。今の笑みは、楽しさや俺を安心させようとしたものではない。彩葉は怖がっていた。


 結局、俺は彩葉を一人で行かせてしまった。


 何をしているんだ……、俺は……。


 雄叫びのような兵士の声が踏段の裏から聞こえてくる。そしてその声が悲鳴に変わった。


 玉座の間に乾いた銃声が響き、機関銃が連射する音も響き始めた。この機関銃の音は、幸村たちによる彩葉の支援だと思う。


 彩葉は戦っている。


 この踏段裏から何も見えない場所で……。


 俺の心は、不安に駆られ胸が締め付けられるように痛む。


 今は祈ることしかできない。彩葉の剣道の試合の時に似ているけど、これは試合ではなく殺し合いの実戦だ。


 彩葉を信用していないわけじゃない。彩葉は強い。きっと勝てるだろう。


 でも、それは百パーセントではない……。


 思わず握った拳が震えてきた。


「行け、ハロルド! 私のことは案ずるな。私とて、いざとなれば己の身くらい自身で守れる。上層にはアトカたちもいる。そなたは、そなたにとって一番大切なものを守りなさい! 決して後悔してはならない!」


 公王陛下は懐から拳銃を取り出し、俺に頷きながらそう言った。


 そうだ! 俺はあの時、もう二度と何もせずに後悔はしないと決めたじゃないか……。陛下が俺に言ってくれた一言で、何か吹っ切れた気がする。


「ありがとうございます、陛下! どうかご無事で!」


「そなたもな、ハロルド」


 俺は公王陛下に深く一礼し、彩葉を追って踏段から飛び出した。

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