腰わずらい
ロム猫
第1話
腰が、痛い。
昨日から予感はあった。疲労が溜まると私はよく、腰痛に悩ませられる。
腰がサイダーでも飲んだかのようにじんじんと痺れ、脈打つ痛みは意思を持っているかのごとく私にその病状の重さを訴えかけてくる。朝、私の意識を眠りから引きずり起こしたものの正体も、この痛みであった。
とりあえず起き上がろうとする。瞬時に腰から発せられた痛みが脳髄まで走る。自然と声が漏れた。痛い。掛け布団を退け、今度は腕の力を以って上体を起こそうと試す。痛い。ほこりがたったのだろうか。不意にくしゃみがしたくなった。嫌な予感がする。けれども、もう止められない。駄目だ。こんな状態でくしゃみをすれば痛いに決まっている。止まってくれ。私は祈る様な気持ちでいた。
くしゅん。
「あーーーー!」
激痛から思わず叫んでしまった。ともかくひたすらに痛いのである。
腰痛に陥ると全ての動作に痛みが伴ってくる。起き上がることは無論のこと、横になっていても痛い。咳をしても痛いし、声をあげることも憚れる。まして、腰痛の最中のくしゃみなど拷問に近い。
仮に私が今、スパイ容疑で敵方に捕まったとする。「秘密を喋らなければくしゃみをさせるぞ」と眼前に突き出したコショウで脅されたならば、間違いなく秘密を喋ってしまうだろう。
腰痛は人間の尊厳など簡単に奪ってしまうのだ。
私の叫び声を聞きつけて妻がやってきた時、私は犬の様に四つん這いで呻いていた。二次元から三次元へ。私にとってはこれで精一杯の姿勢である。立ち上がる身体の重さに腰が耐えられないのだ。それでも、なんとか仕事に行こうと必死であった。
妻が私を見た時の第一声は「ヒッ」であった。「どうしたの?」でも「大丈夫?」でもない。凡そ、ひとつ屋根の下に暮らす家族に向ける言葉とは思えない。
「腰痛が酷くなってね、立ち上がれないんだ」
人外のものでも見るかのような妻の視線に耐えられず、私は言い訳するように言った。
「そんなに痛いの? また大袈裟に言ってるんじゃないの?」
心外である。妻の「また」という言葉に心当たりはない。けれども、この女は私の「痛み」に対して過小評価をする傾向があった。痛いと言うたびに大袈裟と返してくる。
「うん。今回はかなり痛いんだ。とにかく立ち上がれない。今日はちょっと仕事は無理かも知れない。会社に連絡するから携帯電話をとってくれないかな」
妻は私に携帯電話を渡すと、病院にでも行けば?とぞんざいに言った。あまり心配そうではない。ここに至ってまだこのアマは私の痛みを大袈裟と捉えているのであろうか。ばかやろう。
もちろんそんな心うちはおくびにも出さず、私は小さく頷いて妻に媚びた笑顔で返した。
「病院まで、送って行ってくれる?」
肯定の返事と捉えて良いのだろうか。「チッ」という舌打ちが確かに聞こえた。妻には少しSの気質がある。
車を走らせること10分。妻に送られ私は「M整形外科」というクリニックの前にいた。妻は「終わったら迎えに来るから電話して」と残し、私を降ろすとさっさと帰ってしまった。
私は相変わらずの四つん這いである。立ち上がれないのだ。さすがにこのまま中に入るのは憚れる。憚れはするが、何度試しても立ち上がれない。立ち上がろうとすると自重を課せられた腰が、腹を立てたかのように激痛を以って意趣返しをする。だからと言ってこのまま狛犬のようにクリニックを守っている訳にもいかない。
私は意を決して四つん這いのまま自動ドアを踏み、中へと入っていった。
クリニックの中に入ると、目の合った受け付けの女が「ヒッ」という声をあげた。本日、二度目である。無理もない。おそらく、四つん這いで登場する闖入者と目を合わすことなど彼女の人生の中で初めての体験なのであろう。私は彼女に事情を説明すると、ベッドがひとつ空いているからそこで横になっていろ、と言う。順番が来たら先生に診て貰うから、とのことだった。
申し出を有り難く受け取り、職員と受け付けの女の肩を借り、私は案内されるままに、ベッドへと移動する。待合室では、十数名の患者達が固唾を飲んで、この人外の闖入劇を見守っていたのであろう。
ベッドは診察室のなかにあった。四方をカーテンで仕切ってあるだけの簡素な造りだ。私は職員の促すまま、ベッドへ横になると、シャッとカーテンを閉じられた。これで一応個室の出来上がりだ。
暫くすると、カーテン越しにひとの気配がした。察するに医師の先生なのであろう。また、少しして、誰かが入ってくる気配。診察が始まるのだろうか。私は退屈凌ぎに聞き耳を立てた。声からするとおばあさんのようだ。
「……だもんでな、こないだ先生くれた薬飲んだら頭が痛くなったんよ。前はこんなことならかんかったのに。ちいとばか、おかしいと思わんか? 先生や」
薬が合わなかったのだろうか、ばあさんは仕切りに頭痛と薬の因果を訴えていた。
「いや、だからね、何度も言うように薬は変えとらんし、そりゃ、ばあさんの気のせいだわ」
医師は全く取り合わない。医者のくせして「気のせい」で済ませようという態度が癪に障る。
ふたりの「頭痛」をめぐる「薬」と「気のせい」の攻防は数分に渡り行われ、話は平行線のままだ。このままでは埒が明かないと思ったのだろうか、ふと医師は話題を変えてばあさんに訪ねた。
「ところでばあさんや、頭が痛いってどんな風に痛いん?」
私はこの手の質問が苦手である。医師に「どんな痛みか」を問われてまともに答えられた試しがない。キリキリ、と言っても違う、ズキズキと言っても違う。かと言って「ジャキジャキと痛い」とオリジナリティを出せば、それはそれで伝わるかどうか疑問である。
結局我々は痛みを伝える時、定型の表現から近いものを選んで、不服を腹に呑み込んだまま伝えるしかないのではないか。だとするならば、医師のこの手の質問に一体何の意味があるのだろう。
私はばあさんが何と答えるのか興味深く聴いていた。
「どんな風に痛いかって言われても……」
言わんことはない、こうなるのだ。ところが医師は、さも大事な事を思い出したかのように声を潜めてばあさんに質問を続けた。
「ひょっとして、頭がこうズキズキと痛まんか?」
急な医師の態度の変化に私は驚いた。何か重要な見落としに気づいたのだろうか。
「こう、こめかみから首筋にかけて痛みがあったりせんか?」
「そう言われればそうかも知れん!」
自分の主張を取り合ってくれたのが嬉しかったのか、ばあさんは少し興奮気味に答えた。
「たまに熱っぽくなったりはせんか?」
「する!」
「ぼうっとしたり、体がだるいと感じたりしやせんか?」
「そう!」
「食欲が無かったり、咳がでたりすることは?」
「あるある! そうなんよ!」
ばあさんはすっかり興奮している。しかし、医師はぞんざいに言い放った。
「ばあさん、そりゃ風邪だわ」
あくまで頭痛は薬のせいではないと、医師がひと芝居うったようだった。誘導に引っかかったばあさんは論拠を失い分が悪い。
何や彼やと文句を言ってたが結局医師に押し切られてしまった。私はばあさんを気の毒に思いながらも、何故他人は、ひとの「痛み」に対しこうも冷淡でいられるのかを考えていた。
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