第六章 黒いもや
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季節は、どんどん寒くなっていった。
「もう、赤津のやつ、あたまくる!」
「莉子ちゃん、先生のことそんな風に言ったらだめだよ」
「だって、ちょっと中庭に出たくらいで、一週間も罰掃除させるなんてさ」
それは同じことを三回も繰り返した莉子ちゃんのせいだよ、とは、今は言わない方がいいだろうということくらい、私にもわかる。
私は、おとなしくぞうきんをしぼって、掃除を続けた。
「あー、腹立つったら! 美優! 帰り、掃除終わるまで待っててよ」
「はいはい」
「莉子、横暴」
それを聞いていた菜月ちゃんが、口をはさんだ。
萌ちゃんがいなくなってから一カ月近くがたって、菜月ちゃんの髪も少しのびてきた。
「うるさいよ、菜月。ちょっと雑誌にのったからっていい気になっちゃってさ」
今日の莉子ちゃんは、特に荒れている。何を言っても、突き刺さる言葉しか返ってこない。
菜月ちゃんは、それを聞いて、む、としたみたいだ。
ああ、そんな風に思うと。
案の定あらわれた菜月ちゃんの背中に黒いもやを、私は、じ、と見つめる。うん、あれくらいならすぐ消えるだろう。
黒いもやを観察し始めてわかったことは、あれは常に一定ではないということだ。濃さも大きさも、しょっちゅう変わっている。見え始めたころははらはらしたけれど、少しくらいの大きさのもやだったら自然に消えてしまうこともわかってきた。
それがわかっていても心配なのは、あんなふうになってしまった莉子ちゃんだ。最近の莉子ちゃんのもやは、消えることがない。それどころか、薄くなることもないまま、だんだんと大きくなってきている。
「莉子ちゃん、ほら、早く掃除やっちゃおうよ」
私は、あわてて莉子ちゃんをとめる。
「そうよ。もう、五時間目始まるよ。口より手を動かしな」
隣で聞いていた恵さんも口をはさんだ。あちこちから言われた莉子ちゃんは完全にへそを曲げて、乱暴にほうきで床を掃いた。
「あ!」
そのほうきのはじっこが当たったらしく、机を運んでいたさっちゃんがバランスをくずして机ごと転んでしまう。
「さっちゃん!」
私はあわてて机をどかす。
「いたあい……」
「莉子ちゃん、危ないよ」
さすがにこれは、莉子ちゃんがよくない。
むっとした莉子ちゃんは、持っていたほうきをばしりとその場に叩きつけた。
「美優、片付けといて。トイレ行ってくる!」
どすどすと歩く後姿を見ていると、黒いもやはもう、その頭のてっぺんをとうに越している。今ので、またひとまわり大きくなったんだ。
まだ宮崎さんの時ほどではないけれど……このままのペースでいったら、あの時見た大きさになるまで、それほど時間がかからないような気がする。
「なにあれ、むかつく。片付けることないよ、美優ちゃん。自分でやらせなよ」
恵さんが面白くなさそうな顔をして言った。
でも、私は知っている。莉子ちゃん、今すごく落ち込んでいるんだ。
来週にせまっていた莉子ちゃんのピアノの発表会。本当なら、パパとママが聴きに来てくれるはずだった。けれど、急な仕事が入ってパパが来られなくなったんだって。
莉子ちゃん、ずっとずっと楽しみにしてたんだ。二人が聞きに来てくれること。
もうすぐ莉子ちゃんのパパとママは離婚しちゃう。家族三人がそろうことは、これからもう、何回あるかわからない。だから、三人で一緒にいられるその日を、すごく楽しみにしていた。たまに宿題を忘れることもあるあの莉子ちゃんが、毎日毎日、一生懸命ピアノの練習をしていた。
パパが来られないことがわかってから、莉子ちゃんのやつあたりはひどくなってきていた。口に出して寂しいとか悲しいとかいわない分、莉子ちゃんの心の中は、きっと苦しいのでいっぱいに違いない。
気になるのは、莉子ちゃん、もともと気が強いところはあったけど、あんな風にいじわるすることはなかったということ。
というより。
莉子ちゃんが荒れているのは、もしかしてあの黒いのが莉子ちゃんの心をあやつっているんじゃないだろうか。
宮崎さんや安永さんも、黒いのが消えたらすっきりと元の性格に戻っていた。
闇にのっとられる、っていう言葉を萌ちゃんは使っていた。だったら、今の莉子ちゃんの状態って、とても危ないんではないんだろうか。
なんとか莉子ちゃんに楽しい話題を振っても、すぐまたあの黒いのが大きくなってしまう。これ以上は、私にもどうしたらいいのかわからない。
あの時みたいに、誰か天使がくるのかな。私が知らないだけで、もう来てるのかな。どちらにしても、私から天使に連絡を取ることもできないし。
途方にくれて莉子ちゃんを見送っていた私に、菜月ちゃんがぞうきんとバケツを持って言った。
「美優ちゃん、片付け一緒にいこ」
「うん」
その菜月ちゃんの背中にある黒いものも、朝見た時はほとんど見えなかったのに今はでぶ猫くらいの大きさだ。今のやりとりで嫌な気分になってしまったんだね。
「菜月ちゃん、今日の髪、かわいいね」
私は、菜月ちゃんのくるくると三つ編みが作られた髪を見て言った。ていねいに編み込んであって、それはすごくきれいだった。
「でしょ? 最近ね、ママが編み込みしてくれるの。プールがある時はいろいろできなかったけど、今は楽しいって、手の込んだ編み込みしてくれるんだ」
「いいなあ。うちのママ、そんなに器用じゃないんだよね。私ももう少しのばそうかなあ」
「自分ではやらないの?」
「自分でかあ。やってみようかな。でも、難しそう」
「へへ、そう言う私も、実は自分ではできないんだ。ママにおまかせ」
菜月ちゃんはそう言って、嬉しそうに笑った。
菜月ちゃん、ママのこと好きなんだなあ。きっと毎朝、楽しそうに編み込みしてもらっているんだろう。
二人でにこにこしていたら、菜月ちゃんの背中の黒いのが小さくなっていることに気づいた。
よかった。でぶ猫からやせ猫くらいになっているし、色も薄くなっている。きっともうすぐ、消えてしまうだろう。
うまくいかない時もあるけど、嬉しいこと、楽しいことを一緒に喜べれば、あれを小さくすることはできる。ただのお世辞を言っていい気にさせてもうまくいかなかった。私が心から楽しいと思って口にしたことしか、あのもやは晴れてくれない。人の心に寄り添うって、きっとこういうことなんだろう。
莉子ちゃんの黒いのも、早く小さくなればいいなあ。
私は、バケツを片付けると、莉子ちゃんを探しに教室を出た。
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