逆らえない姉友 1(希さん)

「わっ、おつり、おつり忘れてます……!」


 夏の日の午後。定期的に足を運んでいる百合姉のカフェに向かうと丁度他の客と入れ違いだったらしい。慌てるようにして駆け出てきた希さんとぶつかってしまった。


「ああっ、申し訳ございません! お客様、おつり忘れてます~~~~!!!」

「あら、将じゃない。来てくれたの」

「うん、たまにはね。……希さんは忙しそうかな」

「大丈夫よ。好きなところに座ってなさい」


 外が暑いこんな時世でも百合姉のカフェは涼しくて過ごしやすい。とりあえずいつも通り隅の方に座り、オーダーを取りにやってきた姉さんにアイスキャラメルラテを頼む。普段の慌ただしさから逃れた俺は柔らかい背もたれに寄りかかりながら大きく深呼吸をした。

 午後でもあるためか店内にお客さんはそこそこいる。姉さんたちとお話ができなくなるのは寂しいが、百合姉の店がしっかり回っているのは嬉しいことだ。


(今日はゆっくりするか……)


 希さんが入口の方に戻ってきていた。まだちゃんとお話できるのは先になるが、とりあえず元気そうで何よりである。百合姉も希さんもカフェのエプロン姿が様になっていて、ここに来てよかった、と自然に笑みが浮かぶ。

 目を閉じて瞑想していると希さんが頼んでいたものを持ってきてくれた。


「あの……アイスキャラメルラテです……」

「あ、ありがとうございます」

「それと、えっと、さっきはぶつかってしまい、申し訳ございませんでした……」


 希さんがぺこりと頭を下げるのを見た俺は直感的に何かを察して身構える。顔を上げた彼女は今にも泣きだしそうな勢いで俺のことを見ていて、こちらが何かしゃべるのをずっと待っているようだった。もしかして、不慮の事故でぶつかったことが希さんの中のスイッチを入れるきっかけを作ってしまったか……?


「あ、その話、後でで大丈夫です。お仕事終わった後にまた」

「はいっ、覚えてますね……♡」


 どこか恍惚とした様子の希さんはそう言うと店の裏の方へ戻っていき、とりあえずの急場をしのいだ俺はアイスキャラメルラテを一口飲んで落ち着いた。


 希さんは普通に接していれば思いやり溢れる優しい女性で、元来の性格もあってか何かしでかした時は強い罪悪感を抱えるような人だった。それだけならまだいいんだけど、彼女は表には出せないレベルの困ったドMでもあり……


(どうすっかなぁ。いい感じの"お仕置き"を考えないと)


 このように、俺と百合姉に対して粗相を働いた場合、希さんは自分が罪を犯したのをいいことにお仕置きをお願いしてくるのであった。お願いの形を取らずとも彼女の言動は弱弱しい獣そのもので、会話しているうちにこちらの加虐心が掻き立てられて困ったことになってしまう。

 今の希さんはエプロン姿でカウンターに立って会計をしていた。やー、本当に遠くから見ているだけだったら純粋に優しくて素敵な人なのに。


(そう言えばまだアレはやってなかったか、うん、それにしてみよう)

(彼女のペースに持っていかれないように、慎重に……)


 SはサービスのS、と誰かが言っていたがまさにその通り。

 スイッチが入ってしまった希さんを落ち着かせるのはかなり難しい。


「ありがとうございました!」

(なんだか大変なことになりそうだなぁ)


 希さんが遠くで挨拶をした後、ちらとこちらを見たような気がした。妙に嬉しそうに振る舞っている彼女のことを遠くから見て、後で百合姉の助けも借りよう、と一人でいろいろ考えるのだった。




「本当に、すいませんでした……」


 心を静かに落ち着けていると外は夕方になっていて、店内に他のお客さんの姿もなくなっている。そのタイミングで希さんがかなりの低姿勢になって謝りに来た。予想していた通り彼女は頬を赤く染めて何か期待しているようで、いよいよもって彼女の処遇を何かしら決めないといけない時間になる。


「今何時くらい?」

「もうすぐ五時です、店もじきに閉まります」

「そっか……」


 片付けでテーブルを拭こうとしていた百合姉が近くを通りかかる。大体の事情を察したのか姉さんは希さんの肩をぽんと叩いて俺にニッコリと微笑みかけた。


「彼女のことは任せたわよ」

「任されてしまった」

「ふぇぇ……」

「そうだなぁ、不慮の事故とは言え、それなりの償いはしてもらわないとね」

「償い……♡」


 こら、希さん。内容について何も言及していないというのになんだそれは。自分の中にそう言った思考が芽生えるのを理性の力で頑張って潰し、心を落ち着かせた。


「そうだ、後で自撮り写真を送ってください。内容については分かってますね?」

「は、はひっ、自撮り写真……」

「毒にも薬にもならないレベルのは求めてません。よろしくお願いします」

「はいっ……♡」


 激昂せず、かといって、希さんの「怒られてる」気分を阻害しない程度には語気を強めてこちらの要求を伝えた。それを聞いた彼女は何を想像しているのか分からないが足腰が砕けたようにして姿勢を崩して近くのテーブルに掴まり立ちをする。あっ、そこ、百合姉がさっき拭いていたところ……


「はうわっ、ああっ、店長、ごめんなさいっ!」

「本当にどうにもならない子ね。ほら、他のテーブルは終わったから後はあなたがやっておきなさい。私は閉店処理で忙しいの」

「はひぃ、わかりましたぁ……♡」

(百合姉、本当に希さんの扱い方が上手だなぁ)


 嬉しそうな表情で希さんは布巾を受け取ると自分が手と身体を付けてしまったテーブルを拭き始める。掃除の邪魔にならないよう俺も店の外に出ることとし、程なくして百合姉と希さんが店の中から出てきた。やっぱり姉さんは仕事が早い。


「それじゃ、今日はこの辺で。ちゃんと将の言うことは聞いておくのよ?」

「はいっ、分かってます、お姉さま……♡」

「よろしく。それじゃ、将、帰るわよ」

「じゃあ、お願いしますね、希さん」

「はいっ、ご主人様ぁ……♡」


 希さんとの会話に区切りをつけた俺と姉さんは彼女と別れて家に向かって歩く。空の端は見惚れるくらいの茜色に染まっていた。


「にしても『自撮り』ねぇ……なかなか将も通じゃない」

「そんなことで通になりたくはなかった」

「まあ楽しいわよ。希のことだから今日明日には届くと思うわ」

「なんて返信しよっかなぁ……」


 そんなことを考えていた時の俺はまだまだ考えが甘かった……それを思い知らされるのが次の日の朝になることを、この時はまだ知る由もない。

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