第6話 第五車両
「……ッ…………ッ」
息を整える。
手を頬にあてると汗が伝う。多分、リンゴみたいに赤く染まってるんだろう。
次の車両へと扉を開ける。
木目の椅子に、木目の床、木目の天井。
ただ、乗客が一人。
お爺さんが、溢れ出すようなリュックを背負い、パンパンに詰まった二つの大きなバックを、椅子の横に置いて、こっくりしている。顔には皺がいくつも刻まれていて、閉じた眼の線がそれに紛れるように混ざっていた。
さわらぬ神に祟りなし。わたしは忍び足になる。大きな波風はたてずに、ひっそりとやり過ごしていく。わたしの人生みたいだ。
だけど老人は忘れ物に気づいたかのように目を開け
「やあ、どちらへお行きかな? 」
「えっ? えと……」
どもりそうになりながらも
「しゃ、車掌室へ。そうだ、この位の女の子、見ませんでした?」
手で身長を示しながら
「追いかけてるんです。先に行っちゃったみたいで 」
老人は髭をさすり
「ほう、そう言えば、えらく元気な女の子が駆けていったかな。とりつくしまもなかったよ」
「はい! どれくらい前に?」
「うーむ……十五分くらい前じゃろうか」
「はい……」
追いつけるかもしれない、なんて希望は無くなった。質問を変える。
「お爺さん、変な質問をしますけど。ここどこなんです? わたしは東京の中央線に乗っていて、気付いたらここに……」
ニッポンの、という注釈は必要だっただろうか、と言い終えてから思う。
「かれこれ十年になるのかな。わしが此処に来たのは。 納得のいく花火を作りたくてな。妻も息子も捨て、最後にはわし自身の人生も捨てて、此処に来たんじゃよ」
「はぁ……」
「わしには花火が全てじゃった。火薬の粉から厳選してな。信州にいいのがあるのだよ。それと長崎のをブレンドしてな。完成を思い描いて玉に詰め、配置して。もちろん長年の勘とそれ以上に長い想像がいるのだがね。そうしてたった一つ理想の花火があがれば、それで満足じゃった」
先生や親戚、年上の人と話していると偶にこういう時がある。口を挟んじゃいけないような、そんな空気。
「しかしなぁ、二十年もコツコツと時間を掛けた大玉花火が失敗した時にはなぁ、いや火薬の配分は間違ってなかったのだよ、ただ披露の夜、小雨が降っててなぁ。沢山の人が一番の笑顔を用意してくれていたのに、ちょっとしたことで全て駄目になってしまった。あの後、失意の余り、わしは死を選んだのじゃよ。電車のホームから飛び降りてな。黄色いでこぼこの床に足を震えさせていて」
悲しい予感がよぎる。うそっ……
「そっ、それって死後の世界ってこと? わたし、死んじゃったの?」
「まぁ、慌てなさんな。どうだい、わしの手を握ってみんか? 」
ごつごつとした右手が差し上げられた。わたしはためらいながらそれへと手を伸ばす。
「透けた…… 」
「生きている者は生きている者だけに触れられる。死んだ者は死んだ者だけに触れられる。それが此処の掟じゃ」
椅子に並んだ膝をぽんぽんとゲンコツで叩きながら
「お嬢さんは、ただ迷い込んだだけ。此処の住民とは違うようじゃな。何時か時が来れば、戻れるじゃろう」
「一体、いつ? 」
「さあ、残念じゃが、珍しいケースじゃからな。それよりも久し振りに人と話をして、喉がしゃがれてしまったわい」
そして懐から銀の懐中時計を取り出した。銀板の長針と短針は12の数字で重なっていた。
「ふむ、もう、そろそろか」
丁度、その言葉を合図にしたかのように
「間もなく、緑ヶ丘ー、緑ヶ丘ー、緑ヶ丘でございます」
電車のアナウンスが流れた。
「やれやれ、やっと着いたか。お嬢さん、此処でお別れじゃな」
ふと思いついたようにバッグを開いて
「これを持っていきなさい 」
大きな円筒型の筒に、ロープがくっついている。少し重い。手にズシリとする。
「これって、花火? 」
「七年ものじゃよ。簡易型だから紐に火をつけるだけで、子供でも撃てる。余計なお節介だったら、車掌さんにでもやればいい」
「そっ、そんな余計だなんて。なんでこんなに大事なものを」
「わしの死んでいる間の探求成果を、生きている人にも見せたくなってな。わしにもあっちの世界に未練があるようでな。遠く離れた息子の代わりに、とでも言うと重くなりすぎてしまうかのう」
「間もなく、緑ヶ丘ー、緑ヶ丘ー」
乗車扉が開いた。見えるのは虚空。闇だけだ。花火師さんは、リュックを背負い両手にバッグを抱き抱え、その暗闇へとゆっくりと溶けていった。
「さよなら」
答える代わりに手で応える。 こうしてわたしの手には筒型の花火が残った。
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