流点観測
えんがわ
第1話 中央線快速
冬の夕暮れはあっと言う間に終わった。街の明かりはキラキラと輝き始めて、影は濃くなっていく。
そんな中わたしは『でるでる英単語』なんて勉強本を、なぞりながら揺られていた。赤いセロハンみたいな下敷きをして日本語から英語のスペルを手繰り寄せていく。今はケイタイで、何もかも便利になっているけど、本という形がないとわたしは勉強している実感が沸かない。焦燥感は埋められない。
甲高い男の子の声。家族の笑い声が聞こえてくる。母は艶のあるハンドバッグを下げ、父にぶら下がっているのは、如何にもな遊園地帰りの紙袋。子供はネズミの耳をカチューシャのようにくっつけている。そっか、もう、冬休みなんだ。
「でねー、えへへ、ヒロクンがねっ」
子供の屈託ない弾み。
「まったく、家族サービスも楽なもんじゃないな」
それをからかうような父親の愚痴。
「ご苦労様、今日も楽しかったわよ」
見守っている母親の優しさ。
その声らが邪魔だったわけではない。ただ、その純度がわたしには苦しかった。届かない所にあるバラのはずなのに、握り締めてしまって刺さったような鈍い痛み。
わたしは予備校生。
去年の冬、高校二年の頃から目指していた本命の上智大学に落ちた時、父と母の顔は真っ赤になった。そしてそれからどんどんと、中央大学、明治大学、法政大学、東洋大学と、不合格が続くと、両親のそれは段々と青くなった。とうとう最後の望みの日本大学も駄目だった、でもまだ諦めたくない、と伝えた時、その顔はどうなっていたのだろう。わたしはうつむいていて、見ることができなかった。そしてそのうつむきは今日まで続いていた。一人で食卓につくことが多くなった。食べることは勉強の気晴らしになるけれど、一緒に食べるとなると気遣いばかりが多くなって、居たたまれなくなっていた。
だから楽しそうな家族に向かってわざと軽く咳をしたのには、抗議というよりも嫉妬の意味の方が強かったんだと思う。「こほんこほん」と町の図書館のお姉さんがするように、してみた。だけど幸か不幸か、そのようなわたしの小さな抵抗は届かず、親子は朗らかに笑い合う。わたしは『でるでる英単語』を鞄に突っ込んで、一休憩。深く息を吐いた。それから少しうとうと出来そうになったこともあって、一眠りすることにした。そう思えたのは張り詰めた受験シーズンの中、久しぶりだった。 この時期になると、学力の上積みなどたかが知れているけれど、皆、何時間も全力で気休めをする。わたしも八時間、講義をこなしていた。頭が痛い。重くジンジンとする。それを振り払おうと電車の中でこくりこくり。『もうーいーくつねーるとー おしょーがつー』、なんて妙に浮かれた歌もあったっけ。わたしは電車に揺られて眠った。
のだと思う。
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