35話:逃亡

「ホテルの外に逃げろ!」

 付き人から必死に逃げる鹿島に、本田から指示が飛んできた。


 鹿島がスヴェンソンの付き人に見つかったのは、エレベーターが2階で空いた時だった。女は遠い位置からだったが、鹿島を的確に捉え、すぐさま追いかけてきた。なぜ鹿島の特徴を知っているのかはわからないが、逃げなければまずい状況なのは確かだ。鹿島は必死で逃げ、レストランフロアから1階ロビーにつながる階段を駆け下りた。


 鹿島を追うのは女だったから、運動の苦手な鹿島でもなんとか距離を保てている。しかし、客の多いロビーを人にぶつからずに逃げるというのは非常に厳しい。ホテルの外に逃げても、追いつかれるのは時間の問題だった。


「メモリどうする?」

 息の上がった声で鹿島は尋ねた。重要なのはメモリであることは、鹿島側もスヴェンソン側もわかっている。だから、あの女は鹿島、いや、鹿島のメモリを一生懸命追いかけているのだろう。


 鹿島は文化系サークルに入っている。運動は苦手だ。持久走ならなおさらだ。いくら相手が女とはいえ、振り切ることはできなかった。


「どうしよう」

「何か持ってないの?」

 鹿島はズボンのポケットに手を入れた。鼻かみティッシュしかない。もうちょっとマトモなものを入れておくべきだった。後悔しても遅いが。


「ゴミか……」

 さすがの本田も案を思いつかないようだった。だがその言葉で鹿島はひらめいた。鼻かみティッシュを手にくるみ、わざとらしく床に投げる。そして全力で走り抜けた。


 鹿島は女を振り切った。女が鼻かみティッシュを拾ったからである。ゴミを持っていてもしょうがないということは、捨てたっていいじゃないか。鹿島にしては名案で、それは上手くはまった。

「振り切った」

「え、ほんと?」

「もうすぐ入口だけど」

 本田の不思議そうな声には答えず、鹿島はこれからの身の振りを尋ねた。


「タクシーに乗って。この近くに、いかにも教会って見た目の教会があるから、そこに向かって。金は降りるときに俺が払うから大丈夫」

 本田が鋭く言った。鹿島は思わず頷いた。


 ロビーを抜け、フロントを抜け、タクシー乗り場まで来た鹿島は迷わず先頭のタクシーに飛び乗り、英語で教会に行ってくれと叫んだ。久しぶりに大声を出した。アドレナリンが大量に出ているのが自分でもわかる。

 察しのいい運転手は何も言わずに教会へ向かう。窓からは確かに本田が言うところの教会らしい教会が見えた。タクシーのエンジン音に揺られるうちに、鹿島の息は穏やかになってきた。


「タクシーに乗った」

 落ち着いてきたものの、まだ鹿島の心臓は大きく脈打っていた。

「溝口も今向かってる。そこで、俺が2人を拾うから」

「わかった」


 鹿島にとって、付き人の女に見つかってタクシーに乗るまでは一瞬だった。あの付き人の女は、鹿島を追ってきているのか見失ったのかはわからないが、ヤマは越えた気がした。

 教会の手前にくると、タクシーに向かって手を振る男の姿があった。本田だ。そばにはコートを着込んだ千弘も立っていた。やはり察しのいい運転手は、本田のすぐそばに車を止める。本田はドアを開け、クレジットカードを差し出した。横から、千弘が英語で決済を頼む。運転手はすぐに決済を済ませて走り去っていった。


「ヒロも逃げてる」

 ほら、と千弘は道路の向かいを指差した。タクシーが1台走っており、後ろに乗っているのは溝口だった。本田が胸をなでおろしたのがわかった。

「スヴェンソンの一味が追ってきてるかも」

「大丈夫、俊一郎がタクシーに乗る瞬間は追えなかったみたいで、ホテルの前で見失ってたのを見た。だから大丈夫」


 千弘は元気づけるように鹿島の肩を叩く。言う間に溝口がタクシーを乗り付けてきた。

「大丈夫? 逃げられた?」

 本田がまたクレジットカードで支払いをする間に、目に涙を浮かべた溝口がタクシーから降りてきた。


「ごめん、僕がミスをしたせいで」

 タクシーに乗っている間、溝口の頭はずっとパスポートを落としたあの瞬間の記憶でいっぱいだった。自分でも完全にパスポートのことを忘れていた。

 自分のせいで追われる身となった鹿島の姿を見ると、目にたまっていた涙はこらえきれないほど溢れてきた。


「泣くなよ」

 声を抑えながらワイシャツの袖で涙を拭う溝口に、鹿島はおろおろしながらも優しい言葉をかけた。

「メモリは奪えたんだからいいだろ。溝口は頑張ったじゃん」

「でも……」


「続きは帰ってから!」

 まだ涙の止まらない溝口と、それを慰める鹿島の背中を押し、千弘は呼びとめたタクシーに2人を押し込める。


「鹿島がメモリを奪った以上、スヴェンソンはどうあがいても第2次ネットショックを起こせなくなった。俺たちの勝ちだ」

「ごめん、鹿島……」

「謝るなよ。俺が行ってたら、スヴェンソンからメモリを奪うなんて絶対にできなかったんだから」

 鹿島が慣れない慰めというものを懸命にしたせいか、溝口はホテルに戻った頃にはかなり落ち着いてきていた。それでも、ガラス張りのエレベーターが平気になっているあたり、正常な溝口とは言えない。


「みんなお疲れ様」

 未だメソメソやる溝口を、千弘と鹿島の力で部屋に運び込む。

「溝口はまだ傷心だけど、結果としては大成功だから、大いに喜びましょう」

 溝口以外の2人は、両手を上げて盛り上がりを示す。


「いやあ、本当にお疲れさま」

 溝口のベッドにうつ伏せに寝転がった千弘が笑顔でねぎらう。

「最後の最後で映画みたいになって、僕はびっくりしたけど」

 本田の顔色がさっと青くなる。鹿島の細い目が今までに見たことがないほど大きくなった。

「やっぱり、あのときスパイ映画って言ったのは正しかったんじゃない?」


 溝口の様子をおそるおそる伺う。1人がけのソファでうつむいていた溝口が、ふっと顔を上げた。涙は止まっている。

「だってさ、まさかあのタイミングでパスポートが出てくるって思わないじゃん! 僕、そんなに悪かった!? 運が悪かったんだもん! 僕は悪くないもん!」

 へこんでいる、あるいは悲しい、の次元を超えて、とうとう拗ねているようだ。悪くないもん、とは言いつつ、内心は罪悪感でいっぱいだろう。少なくとも、千弘の失言で取り返しのつかない事態になるということがなくて、本田は正直安心した。


「ヒロは悪くないでしょ。誰も予想してなかったんだからさ。運が悪すぎたね、かわいそうに」

 慰めているように見えるが、千弘は半笑いだ。これでも、千弘としては笑いを抑えようとがんばっている。

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