16話:洗浄

「本当だと思うよ。実際、ネットがあの瞬間、完全に止まった。でも、どこの国も上層部は機能していただろ? 機密が多くセキュリティの厳しいところでは、ネットショックの被害が小さかったんじゃない? ネットに機密なんか乗せて通信するわけないんだから、機密であればあるほどネットから縁遠いわけだし」

 その説明を聞いて、溝口は狐につままれたような気がした。


「話は戻すけど、要するに、その銀行では振込はできた、ということになる」

「なるほどね」

「ここで汚い金をネット銀行に振込したとする。ネットは使えなくなって過去の記録は全部消えたんだから、当然金のやり取りはわからない。記録が残っていないのさ。ネットが復旧したとしても、金の経路を探るのはほぼ不可能になる」


「そうだとしたら、その銀行の人間も仲間だよね?」

「だろうね。このネットショック、本当にすごい規模だよ」

「その台湾の銀行ではネットを止めて入金記録を曖昧にすることができたんだ……」

「そういうこと。実際にロンダリングに使われた銀行かはわからないけどね」

「確かに、マネロンが何兆円規模で行われてもおかしくない」

「おそらく、マネロンで稼ぐとしたら手数料だろうね。日本円で8兆円が動いたって聞いた」

「8兆円!?」

 1億ですら、桁数が何桁なのかよくわからない溝口には、果てしない額だ。 


「8兆円ってのはどこから出てきたの?」

「国崎さんから聞いた」

「国崎さんって誰?」

 きょとんとした顔のちひろの質問に、本田の顔もきょとんとした。

「話してなかったっけ?」


「話してないよ」

「えっとね……」

 本田は慌ててリュックサックの中を漁り始めた。意気揚々とマネーロンダリングの仕組みを解説をしていた中で、急にミスが発覚したことに焦っているのだろう。

「国崎さんは、日本ADLERアドラー株式会社の社員なんだ。日本ADLERは、日本支社ってことね。本社はアメリカの株式会社ADLERだよ」

 本田は、ADLERの分厚い封筒から書類を取り出した。そこには、クリップで国崎の写真が留められている。


「うわ、かわいい」

 溝口が思わず呟く。彫りの深い女で、世間で人気なタイプの美人ではないのだが、可愛いのは確かだった。美形の姉を持つ本田はピンときていないようだが、世間的には可愛い方に属する女である。

「頭良さそう」


「ADLERとしては、プロジェクトfixerフィクサーの時に、Hudsonハドソンに関わってるだろ。その時には、業界内でHudsonの大スキャンダルだというのは噂されていたらしい。ネットショックを起こすために必要なHudson内部の社員の数を考えたら、そこから流出したんだろうね。その大スキャンダルの詳細を、ADLERは手に入れたんだ」


「え、ADLERはHudsonに直接聞いたの?」

「別に問題ないんじゃない? ADLERは、ネットショックを復旧させる為にHudsonと取引したんでしょ。fixerを成功させる為には、ネットショックを起こした噂の真否を確かめずにHudsonと取引するのは危険だからね」

 法学部の千弘が大丈夫だというのなら、溝口が口を挟む余地はない。


「まあ、それを本ちゃんに漏らすことの是非は知らないけど」

「相当頼み込んで教えてもらったんだから、あまり言わないであげて」

 本田は口の前に指を立てて苦笑した。

「きっかけは、主犯とされる幹部の人間が、借金に苦しんでたんだけど、借金の相手がヤバい人間に変わったことらしい」

「変わるってどういうこと?」

「ヤバい奴が債権を買ったってこと」

 さいけん、という言葉だけ聞くと、溝口にとっては、レポートに押される「再検」の嫌なハンコが思い浮かぶ。債権の文字は、説明されるまで出てこなかった。


「例えば溝口が俺に100円を貸したとする。俺は全然返さないとする。そこに、千弘がやってきて、溝口に100円を払ったら? 溝口はプラスマイナスゼロだし、俺の借金の相手は千弘になる。千弘はあの性格だから、ねちっこく返済を迫ってきて、俺はしょうがないから金を返すだろ。そういうことだ」

 ヤバい奴扱いされて千弘は不満げだが、例えとしては完璧だ。


「話をHudsonの幹部に戻すぞ。その幹部は、ヤバいやつが取り立てに来て、返済ができないなら、あることをしろと迫られた」

「あることってのが、マネーロンダリング?」

 本田は先を読んだ溝口を褒める。溝口の頭の中では、チンピラの格好をした千弘が、外国人に迫っている図しか出てこない。

「ヤバい奴が要求してきた額は、1000億オーストラリアドル、それを日本円に直すと8兆円になる。だから、8兆円ってこと。で、その幹部は、マネロンの手数料から借金を返した」


「マネロンの手数料ってどれくらい?」

「通常は5%ってところだろうけど、計画の立案は債権者だし、このマネロンには多くの人間が関わってる。幹部の借金の債権者だけじゃなくて、世界中の裏社会の人間に声をかける人間、ネット銀行の人間なんかも必要だろ? 幹部の取り分を0.5%にしたとしても、それでも400億円だ」


「よんひゃく、おく……」

「いや、うーん……確かにそうなるだろうな……」

「本田の25億が可愛く見える」

 各々があまりの金額に苦悩するのを見て、本田は苦笑した。

「すごいのは8兆円だからな」


「でも、マネロンをするんだったら、ネット銀行に関わるサーバーを潰せばいいんじゃないの? わざわざ全世界のインターネットを潰す必要はない」

 鋭いことを言ったのは、本田とまではいかないが、人並み以上の知識はある鹿島だった。

「それは俺も不思議だったから、国崎さんに聞いた」

「なんでも国崎さん頼りだな」

 とはいえ、今回の事件のことを個人で調べるのには無理がある。国崎のように、大企業の人間からもらう情報というのは、やはり上質なものなのである。


「国崎さんによると、Hudsonの幹部は、プロジェクトfixerと同じことをやろうとしてたんじゃないかって」

「どういうこと?」

「ネットショックを治すプログラムをHudosonで作れば、Hudsonは失った信用を取り戻すことができるだろ。例の幹部の所業が明らかになっても、このプログラムがあれば、社内で揉み消せるかもしれない」


 プロジェクトfixerのため、英語の達者な国崎はHudsonに出向いている。そこでの、Hudson側の反応がおかしかった、と国崎は言うのだった。

「ADLER側は、Hudson全面協力としてプロジェクトを遂行するいうことを押し出した上に、相当な額の金を払うと申し出てる。Hudsonにとっても悪い話じゃない。なのに、明らかに動揺する人間がHudsonにいたそうだ」


 おかしいのは、Hudsonの中で、反応がくっきり2種類に分かれていたことなのだという。あらかじめ、ある程度の会談の内容はHudson側に伝えている。それなのに、ここまで反応が綺麗に2つに分かれるのは不自然すぎる。


「まだある。インターネットが復旧してなくて、新しいサーバーがぽつぽつ立ってた頃の話なんだけど。民間で、古いサーバーからデータを抜き出して新しいサーバーに移すという計画ができたんだ。でも、サーバー側からアクセスを拒否されて、不可能だった。サーバーを直接新しいサーバーにつないでも不可能だったんだ。これは流石にありえない。これで、Hudsonを疑わない方が不自然だよ」

 鹿島が興味深そうに頷く。

「あ、なんか新聞に載ってたかも」


「まだある」

「まだあるの?」

 Hudson、いくらなんでも隙がありすぎである。


「俺の作ったソフトの話をしたら、その動揺した社員の動揺がもっと激しくなったそうなんだ。俺のソフトの話は、動揺する原因には絶対にならない」

「なるほどなぁ」

 鹿島が、外見に似合わず、デザートをいくつも注文する。

「まさか、暗号ソフトの製作者がADLERに持ち込むとは思わなかったんだろうな。もし俺が、例のソフトをインターネット上だけに保存していたとすれば、ネットショックが起こったら、俺ですら手が出せないはずだから」


 感嘆していたところで、食べ放題終了の時間が近くなる。慌ててデザートを注文して黙々と時間ギリギリまで食しながら、この話を反芻する。溝口には難易度が高かったが、要するに本田がソフトを売って億万長者になったということらしい。


 絶対に焼肉代を払いたくない鹿島や千弘と、絶対に払わせたい溝口の押し問答は、やはり多勢の方に軍配が上がり、なんだかんだ、焼肉代を払うのは自分になった。

 ここ数日のバイト代が吹っ飛んだ溝口に対して明るく礼を言い、平気な顔で千弘の自動車に乗り込む面々の頭を後部座席から睨みながら、いつか必ず焼肉を奢らせてみせると溝口は心に誓った。

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