第二章「新型装備」

 この状況を見かねた連合諸国はアメリカを中心に連合軍を結成する。

 そして日本は来るべきアメリカとの戦争に備え新型兵器の開発の傍ら,

敵国の一つであるソビエトに宣戦布告の準備を進めていた。


 1938年4月12日。東京中島飛行場本社。会議室に中島飛行場の幹部たちが

集められた。会議室から漂う重苦しい空気の中、中島飛行場のトップ

「中島社長」から重大発表が出された。


 中島社長「今日君たちに集まってもらったのは君たちに重大発表がある

      からだ」

 

 幹部「なんですか?重大発表とは?」

 

 中島社長「つい先日軍から新型爆撃機の開発命令が下った」

 

 幹部「それのどこが重大発表なんです?」

 

 中島社長「性能が問題なんだ」

 

 幹部「性能?」

 

 中島社長「開発仕様書にはこう書いてある」

 

 中島社長「適正高度:一万メートル

      最高高度:一万八千メートル

      航続距離:二万キロ以上

      最高速度:七百八十五キロ

      爆弾搭載量:三十五トン

      銃座:二十ミリ四連装十二基

      二重反転八枚プロペラ

      六発エンジン」

 

 中島社長から次々に言い渡される「最低条件」に幹部達はこう 言った

 

 幹部全員「ば、化け物だ・・・!」

 

その日から中島の開発陣は頭を悩ませるようになった。

何せ、いくら中島と言えどもこれほどの機体は開発したことがなかったのだ。

「圧倒的性能に、膨大な爆弾搭載量、莫大な航続距離」の爆撃機をつくるという無茶を軍部は「きっとこなしてくれるだろう」という無謀のもとで押し付けたのだから無理はない。

しかたなく、中島の開発陣はエンジンの開発から取り掛かった。

エンジンには二つの意見が出た。

空冷エンジンと液冷エンジンだ。

両エンジンの性能試験を実施。

結果、「液冷四千馬力」が採用された。

液冷四千馬力エンジンは当時としては新型だったため、信頼性が低かったが他に候補がなかったため、二つ目の案の空冷エンジンでは高高度に行った際に出力の低下が免れなかったのだ。以下の理由のため液冷エンジンが採用された。


数日後、また新規に軍から「新型爆撃機には防弾性能を充実させよ」と言う追加の難題が届いた。

この軍からの要求で新型爆撃機の開発は困難を極めた。

そして一時期中島でも「開発不可」とも言われた。

なぜなら、中島は軽量化の方針だったのが軍から「防弾装備」の注文が入ってしまったからである。

「防弾装備」を付けると飛行機の重量が増す。それでは中島が取ろうとしていた、重量軽減ができなくなるのだ。

中島の開発陣はさらに頭を悩ませた。

重量がありさらに爆弾も積むと言うのに、最高速は七八五キロ以上を出せと。

中島の開発陣は苦肉の策を取った。

それは飛行機の削れるところは徹底的に削るというものだった。

まずは機体を予定していた大きさより少しばかり小さくした。

次に翼を少し小さくしたのだ。

そうして削れるところを削り「何とか」飛行出来るようにしたのだ。

そして1942年2月27日。試作第一号機が出来上がったのだ。

完成した新型爆撃機には機体番号「J5N8※」機体名「富岳ふがく」の名がつけられた。

その際、富岳の護衛機として計画された戦闘機があった。

※J=重爆撃機 N=中島飛行機


 時は変わり、1940年8月15日、東京立川飛行機本社。

富岳の直援戦闘機として、新型高高度重戦闘機の計画仕様書が出された。

計画仕様書は以下のとうりであった。

「適正高度:一万二千メートル

 最高高度:一万六千メートル

 航続距離:一万キロ以上

 最高速度:七百八十五キロ

 上昇能力:三十メートル/毎秒

 搭載武装:三十ミリ/ホ-255機関砲/二門

      二十ミリ/ホ-555機関砲/四門

 なお、防弾性能は充実させるように」

立川の研究者たちは、開発に取り掛かった。

エンジンは当時の新型エンジンである「空冷複列星型25気筒エンジン」

を採用。空冷エンジンは高高度に到達した際の出力低下が懸念されたが

排気タービン式過給器「ターボチャージャー」を装備させることで

性能低下を防いだ。

 その結果、高高度でも出力を維持することに成功した。試験機の結果は極めて良好であった。しかし、一つの問題が発覚した。それは、武装・防弾板などの追加装備を搭載すると重量が増し試験機のような結果が得られなかったのだ。

 しかし、今回の新型機は旋回性能は求められていなかったので旋回性能を犠牲にし、この問題を解決させた。

 この新型機が完成したのは1943年5月18日にまで遅れてしまった。

新型機の命名は海軍大臣が直々に命名された。

この機体は機体番号「キ-94」機体名「八式戦闘機」名称「炎龍かりゅう」の名が付けられた。


場所は変わり、東京川崎重工本社。

川崎は川崎でこれまた陸軍から難題が届いていた。

それは新型の重・中・軽戦車の開発である。

陸軍から出された仕様書はこうだ。


最初に重戦車。


車体装甲

 「正面三八〇mm/側面二五〇mm/背面二〇〇mm」

砲塔装甲

 「正面五〇〇mm/側面四〇〇mm/背面三五〇mm」

性能

 「最高時速三十五キロ/移動距離四〇〇キロ」

武装

 「主砲一五〇mm長砲身/携行弾数一〇〇発」

 「副砲一〇〇mm/携行弾数五〇発」



次に中戦車。


車体装甲

 「車体正面二〇〇mm/車体側面一〇〇mm/車体後部八〇mm」

砲塔装甲

 「砲塔正面二五〇mm/砲塔側面一〇〇mm/砲塔後部一〇〇mm」

性能

 「最高時速:五〇キロ/移動距離:三〇〇キロ」

武装

 「主砲五式七五mm長砲身/携行弾数七〇発」

 「副砲五〇mm(九五式軽戦車のものと同様)/携行弾数三〇発」



最後に軽戦車。


車体装甲

 「砲塔正面一〇〇mm/砲塔側面五〇mm/砲塔後部三〇mm」

砲塔装甲

 「砲塔正面一〇〇mm/砲塔側面五〇mm/砲塔後部三〇mm」

性能

 「最高時速:八〇キロ/移動距離:二〇〇キロ」

武装

 「主砲五式五〇mm長砲身/携行弾数三〇発」

 「副砲三〇mm/携行弾数一五発」


それぞれ中島飛行場のところで出された要求と同等の難題であった。

陸軍の試験場ではそれぞれの性能試験がされ。

それぞれ、九三式重戦車・九四式中戦車・九五式軽戦車と名付け、正式採用に踏み切った。

そして九三式重戦車が完成した1942年10月28日。日本がソビエト連邦に対し宣戦布告。日ソ戦が開戦した。

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