第17話 毛利輝元総大将

 7日、家康は、江戸に集まっていた諸大名を江戸城二の丸に集めて饗応し、その席で21日を会津攻撃軍の出陣と定めた。そして、軍中での法度を定め、「軍法事」を発布して軍律をただすことを示した。


「各々時刻を遅滞なく、これまで下向の段、辛労至極のことである。しばらくは人馬を休められるがよい。当家の吉例なれば、榊原康政を先鋒として近日出陣させるゆえ、そののち我ら父子共々出馬いたし、先ずは手始めにて白川長沼の城を攻め落し、直ちに会津に押し入ることといたす。攻め口は大阪にて口上した通りである。これより下知なき間は、敵の境より十里ほど引き離れた太田原に陣を張られたし。下知あるまでは手出しは断じて無用といたす」

「はっ」

 

 このことは重要なことだった。軍律が乱れれば、勝ち目なく庶民の味方もないことを家康は長い戦乱の中で重々承知のことだったから、あえて、大軍だからこそ、発布して戒めたのである。また、軍の進路も大阪にて手配済であったから、あえて再度申し合わせはしなかった。軍律を発布すればよかったのである。

 家康は出陣するまでの間、各地の大名に書状を送っている。最上義光に出陣の期日を告げ、前田利長にも会津に来るよう命じ、秋田氏や戸澤氏、仁賀保氏には最上の陣中に加わるよう指示をしている。細かな指示を江戸在中に行っているのである。用意周到の用兵指導をしていたのである。


 13日榊原康政を先鋒として出発し、19日いよいよ秀忠を前軍の大将とし、結城秀康、松平忠吉、蒲生秀行、本田忠勝、石川康長、皆川広照、真田昌幸、子信之、幸村、成田氏範、松平忠政、松平忠明ら3万7千5百を率いて出陣していった。家康は後軍として21日江戸城を出発、鳩谷から22日岩槻城に入り、23日に古河に達した。


 榊原康政は天文17年(1548)生まれ、12歳の時に、家康に仕え、翌年に家康の一字を授かり、康政と改名した。姉川合戦、長篠の合戦での武功は輝くものがあり、家康四天王の一人と言われた人物である。


 三成は、増田や恵瓊とともに、今後の作戦を考えねばならぬと思っていた。まだ、味方する者が欲しかったのである。そこへ、一人の武将があらわれた。先に三成に軽挙を慎むよう進言した吉継の姿であった。東下する吉継は道中の際に始終思慮にくれていた。吉継は体調もこの頃芳しくなくそう長くは生きられないとも思っていた。どうせ死ぬのなら盟友の為にこの命を捧げてもいいと思うようになっていた。


(わが命あるうちに、一人の武将おとこに託してみるか)


 ある日行進は東から西へと変わっていた。11日に佐和山城に到着したのであった。

「刑部、決心して来てくれたか!」

「道中、よくよく考えたわ。治部に味方する武将は所詮少なかろう。わしが忠告せなんだら、天下分け目の戦などに到底なるまい。おぬしのために、人肌脱ごうと思うて、引き返して参った」

「ありがたきは友でござる」


 翌12日、4人が揃い、軍議を行なった。

三成が発言する。

「これまでの家康の所業は、太閤殿下の礎を崩すものである。これでは、秀頼公の天下相続は望むべくもない。まさしく、殿下の遺言を踏みにじるものである。今ここで家康を討伐しなければ、豊臣は滅びるのは明らかと存ずる。家康は、豊臣恩顧の諸大名を招集し、五大老の一人上杉景勝殿を討伐せんと東下した。この時を好機とし、秀頼公に心よせる諸大名を参集し、兵を挙げて決戦を望もうと思う。今、家康に味方するものも、秀頼公を総大将に掲げれば、わが意に従う者も必ずいるはず。豊臣家に恩義を感じる者は多いと信ずるばかりである」

「治部殿!」

 大谷吉継は、三成の言葉を制するように、力強く言った。そして、話し続けた。

「上杉景勝殿が謀反の企てありとの嫌疑を受けて、家康が軍令をもってこれを征伐しようとしているのは、事実でござる。また、家康を第一人者として認めているからでもある。家康に対抗し、豊臣恩顧の大名を集めるには、嫌われておる治部殿では、到底集まりますまい」

「わかっておる」

三成は、渋い表情を浮かべて、自分が指揮することは妥当ではないと解っていた。

「そこで、此度の決起は、大老のうち毛利輝元殿あるいは宇喜多秀家殿を総大将に押したてて望まねば、家康に対抗すべきもないと存ずるがいかに」

「毛利殿、宇喜多殿、さてどちらを推挙するが妥当であろうか」


 4人とも、この大将選びは、家康打倒の気迫が両人にさほどなくてもよかった。秀頼を補佐して、大坂城に居座っていてくれればよいのである。


「それならば、毛利輝元殿がよかろう。我が殿ならば、こちらに同意する武将も多かろう。拙僧が書状をもって、広島へ出向き申す」

 恵瓊は、毛利輝元がこの話を聞けば、即座に大坂城に駆けつけてくるに相違ないと思った。担ぎ上げれば、腰を上げるタイプと長年仕えていたからわかるのだ。

「毛利殿で皆異存はござらぬな」

三成が確認の言葉を投げかけた。

「承知仕った」

 皆一同、毛利輝元を総大将に仰ぐことに同意した。この軍議の席上で四つの項目が決められ、実行に移されることとなった。


一、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行が連署した書状で、毛利輝元の西軍総大将への就任を要請する。使者は安国寺恵瓊が務める。


一、三成の兄・正澄を近江愛知川に派遣し、会津遠征のために東下しようとする諸将を引き止める


一、岐阜城主・織田秀信に、豊臣秀頼の後援者になることを請う使者を出す


一、諸大名が京坂に置いている妻子の帰国を禁止、人質とする

 

 12日、前田、増田、長束の三奉行連署の書状ができあがり、恵瓊は早速広島の輝元に充てて使者にその書状を持たせた。


大坂御仕置の儀に付て、御意を得べき儀候間、早々御上おのぼりなさるべく候、様子に於ては安国寺より申し入れらるべく候、長老お迎えの為罷り下らるべきの由に候へども、其の間も此の地の儀申し談じ候に付て、其の儀御座無く候、猶早々待ち奉り存じ候、恐惶謹言

 七月十二日

                               長  大

                               増  右

                               徳  善

    輝元様 

      人々御中


 毛利輝元は隆元を父とし、元就を祖父にもつ三代目であった。元就は、厳島で陶晴賢を討ち、大内家、尼子家を滅ぼして中国地方を平定した大名であった。元就と言えば、隆元、元春、隆景の三子に諭した三本の矢の喩が有名あり、子たちもその喩を守り通して、戦国の世を生き延びてきたのだった。本家の隆元が早世した後も、後継した幼い輝元を助けて、吉川元春と小早川隆景は盛り立てて支えてきた。毛利本家は、この両川がいなかったら、滅亡の憂き目にあっていたであろう。


 その後、元春は亡くなり、子の広家が継いでいた。また、隆景には嫡子がなく、秀吉は妻ねねの甥にあたる秀秋を小早川に養子として、一族に取り込んだ。輝元が当主になっても、三本の矢の体裁は整っていたが、輝元には、状況を見極め乗り切る力が欠けていた。


 吉川広家は出雲月山富田城にいたが、家康東下に従うため、4日に富田を発ち、播磨の国明石に着いたところで、恵瓊からの使者と行き会った。


「広家殿とここで出会うとは偶然ながら良き事でござる」

「国許へ急ぐ訳は?」

「殿に総大将として豊臣秀頼を補佐し、大坂城に入っていただくため、上洛催促の書状を渡すためでござる」

「それで、恵瓊殿はいずこじゃ」

「殿をお迎えするため、大坂城に向かうものと思われます」


(なにぃ、恵瓊は家康に従うため東下したのではないか。三成の言いなりになりおって。毛利家を潰すつもりか)


 広家は急遽大坂に立ち寄ることにした。

「恵瓊殿!」

「これは広家殿、よい所でお会いいたした」

「そこもとを追いかけてきたのだ。聞きたいことがあっての」

「こちらも話がござる」

「お主、三成の話に乗り、家康と刃を交えようというか」

「その事でござったか。ちょうどよい。わしが水口城下を通りかかったときに、長束殿から話があると呼ばれ、立ち寄ると何と三成殿がおったのじゃ。そこで、家康が上杉討伐を見計らい、逆に家康追討の旗揚げをすると打ち明けられた。思わず、血が沸き踊り申した。しかし、総大将が三成殿では、兵が集まらぬ。で、座一致でわが主輝元殿に総大将を引き受けてもらうことにいたした。是非に、広家殿にも加わっていただきたい。いや、加わっていただこう」

「正気の沙汰か!今や天下の趨勢は徳川殿で動いておる。秀頼殿が元服いたしても、家康殿の天下は揺ぎなきものとなっておる。ここで、動いては、それこそ豊臣家は滅ぼされてしまうぞ」

「毛利殿が総大将となり、秀頼様の元、旗揚げいたさば豊臣恩顧の大名は、こちらに参集するは明白。さらに会津には天下無敵の上杉勢5万が控え、家康は挟み撃ちでござる。いかに、家康殿とて思いのままにならぬことを刻むでありましょう」

「何を夢みたいなことをいっておるのか。現実をみるがよかろう。天下の器は家康殿以外にない。ここで争うは、天下を再び戦乱の世としてしまうぞ」

「夢に向かって進むのも、われらが勤めでござる。夢はかなう時もあれば、かなわぬ時あり。それは時の運。万一諦める時は、死を迎えるときと覚悟しておる所存」

「勝手な振る舞いは、主家を滅ぼすだけじゃ」

「わしの目に狂いはない。わしは坊主じゃ。先に光明が見えるのじゃ」


(何としても毛利殿の上洛を阻止せねばならぬ)


 広家は椙杜元縁すぎのもりもとよりを広島に急行させた。広島では、恵瓊の遣わした使者が、輝元に決起の書状を届けていた。当然、輝元は重臣を集めて協議はした。反対する老臣はいたが、血気盛んな者は、好機来たりと大阪行きに賛同した。輝元はどうともなかったが、決定的な反対意見がなく、大阪行きを決めた。もし、広家がこの場にいれば、何が何でも押しとどめたであろう。


 毛利家中には、恵瓊の行動に対し不審のあまり、榊原康政らに対して、わが殿はこの陰謀に関係ないことを書状にして送っているのだ。


 広家の使者が広島に着いた時には、もう大阪へ向かった後だった。海路大坂に船出した輝元は16日夕刻には、大坂城に入った。そして、家康方の留守居であった佐野綱正つなまさを追い出して、西の丸に入った。

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