第4話 家康と利家

 秀吉が後事を託した人物は徳川家康と前田利家であった。利家は秀吉にとって織田信長からの、言うなれば知った仲であったが、家康は同盟者としての存在から、秀吉の政権に入ったという経緯があり、また、ここまでの与えられた格の違いが格段にあった。


 石高にしも家康は約240万石、利家自身の石高は23万石、子の利長、利政の石高を加えても76万石に過ぎず、上杉景勝の92万石、佐竹義宣の80万石に比べれば少ないのである。利家自身も家康より景勝の方を意識していたようである。


 「利家夜話」にはこんな話が載っている。


 聚楽において御殿が3つ出来上がり、重陽の御礼の時に、利家と景勝が同時刻に訪れた。利家の太刀は村井又兵衛が捧持し、景勝の太刀は直江山城守が捧持した。奏者番はどちらを先に通すが迷った。直江山城守は景勝の位を述べてこちらが先と言ったが、利家はとんでもない景勝と差し違へても譲れぬ、として村井は直江に近づき、上杉の位は仰せの通り上ではありますが、太閤殿下は昔は小身であったが、手柄をたてて、天下をお納められた。この利家は官位亞相あしょうなれど、手柄を立てて三国の主となった。位も少将となっており、今日の御礼の順番など無用であろうと述べた。これには景勝も直江も返す言葉なく、奏者番も納得して、利家を先に通した。

 だが、座して待つ席の順番は利家は景勝より下座になっており、利家の機嫌は始終悪く、それに気づいた太閤殿下は徳善院を召して事情を聞いた。すると、利家と景勝の官位云々ということを聞き、利家を大納言に昇進し、家康を内府に昇進して、これにより双肩が誕生したのである。


 家康としても、前田利家は豊臣恩顧、旧織田家臣からも信頼されており、ないがしろに出来ない存在であった。それだけ、利家は若い頃から武勇に優れ、他の武将の面倒をよく見たからであった。 さて、秀吉が亡くなり、9月3日付にて五大老五奉行の連署にて「敬白霊社上巻起請文前書之事」で始まる誓詞をあげた。


一、秀頼様御為おんためを存じ候者そうろうものは、諸傍輩しょほうばいに対し、私に遺恨いこんを企て、存分に及ぶべからざる事

一、此の連判の衆中しゅうちゅうに対し、誰々讒言ざんげんの子細これある共、同心申すべからずそうろう、何時も直に申しことわり、それに隨うべくそうろう、自然相届かざる儀承り候者そうらはば隔心かくしん無く異見せしむべくそうろう、事により同心これなくそうろう共、遺恨には存ず間敷まじき

一、傍輩ほうばい中、其の徒党を立つべからざるそうろう公事篇くじへん喧嘩口論の儀、之ありと雖も、親子、兄弟、縁者、親類、知音、奏者たり共、依怙贔屓えこひいき存ぜず、御法度ごはっとの如く覚悟いたすべき事

一、此の衆中しゅうちゅうのうわさあしざまに申し聞けらるじんこれあるに於ては、則ち其の申し主をあらはし、互いに申し届けべくそうろう、左様にこれなくそうろうて、拾人の外、別人を近づけ、此の衆中のうしろ事あしざまに取り沙汰申す間敷まじき

一、諸事御仕置き等の儀、其の敬重をけっし、十人の衆中多分について相究むべき事

一、拾人の衆中と、諸傍輩の間に於て、大小名によらず、何事につけても、一切誓紙取りかはすべからず。此くの如く相定むる上は、若し誓紙取りあつかい仕り候衆そうろうしゅうに至ては、其の徒党を立て、逆意のもと、眼前に候條そうろうじょうおのおの相談仕り、曲事くせごとに仰せつけらるべき事

一、秀頼様に対し誰々悪逆の子細これありと雖も、出しぬきの生害これあるべからず、その罪科の通り申し届け、理りの上を以て御成敗あるべく、たとい其の身にげのび候共、其の在所へおしよせ御成敗加えらるべき事            以上

右条々若し私曲偽りこれあるに於ては、かたじけなくも此の霊社上巻起請文の御罰おのおの深厚しんこうに罷り蒙るべきもの也、よっ前書まえがき件の如し

  慶長3年9月3日

                    輝 元   長束大蔵大輔

                    景 勝   石田治部少輔

                    秀 家   増田右衛門尉

                    利 家   浅野弾正少弼

                    家 康   徳 善 院


 戦国時代、誓詞が武将間で頻繁に交わされたが、その神前仏門に誓った約束は、反故にするのが、習いにような感じもあった。一種の安心を得る為でもあったが、いざとなったら違いるのも常にあったと言わざるを得ない。だから、この奉納した誓詞が大量に現在にまで残っている。誓詞を交わしていっときのお互いの心を読み合うのも戦国諸将の生き残りの策だ。


 秀吉が亡くなった時、上杉景勝だけは枕元に不在だった。これは、この年の正月に越後、佐渡等91万石から会津120万石への移封が命ぜられて、会津での政務に忙殺されていたからである。大国の上杉氏が移動するには、色々な実務を必要とする。一万にも及ぶ家臣の移動は大変であり、石田三成自身が越後に足を運んで、実務の手助けをしたといわれる。このときに親交を深めたのが、重臣の直江兼続であった。また、春日山城には新たに堀秀治が入り、村上城には村上忠勝が、新発田城には溝口秀勝が入ったが、上杉景勝は半年分の年貢を徴収して移動したため、新領地に赴いた際には、徴収する年貢が無かったのである。堀氏は年貢の返還を訴えたが、景勝は先の蒲生氏の先例にならったまでのこととして、その要求をつっぱねたのである。上杉と堀との軋轢あつれきが生じた。このことも後々の会津征伐に影響を及ぼしてくるのである。

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