キョウホン

夢渡

至る経緯

 一冊の本がある。何の変哲も無い本が、何の変哲も無い机の上にだ。


「警部。現場の検証終わりました」


 若い警官が報告を終えて踵を返す。日常風景の一部であった図書館には立ち入り禁止のテープが張られ、制服を着た番犬が所狭しと鼻を鳴らす。

 ガラス張りの外界には野次馬達がひしめき合い、まるで新商品の発売開始に乗り遅れまいとぎらつく視線を屋内に注ぎ込む。

 相手からすれば此方がそうなのであろうが、外に集う彼らの方が、檻を揺らす猿でしかない。


 話を戻そう。眼下には本が置かれている。

 そして机の傍らには人型のテープが転がっている。名前も知らない女性の型だ。人目の多い真昼間の図書館で、彼女はその綺麗なうなじをめった刺しにされて息を引き取った。

 別段猟奇殺人とまではいかないだろうが、それが日常かと問われれば――あぁ違う。そんな事はどうだってよい事なのだ。目の前の本。これだけが重要で全てなのだ。


 事件解決の糸口だから? いいや違う。凶器に使われた訳でも無ければ、ダイイングメッセージや犯人からの挑戦状という訳でもない。

 内容はちょっとした推理小説で、確かに若い女性が被害者として登場しているが、その手法も動機もテープ姿の君とは異なり、模倣犯の教本とはまた違う。

 証拠といえば証拠には違いないのだが、もとより事件は解決しており、既に無用の長物だ。


 ならば何故この本が重要なのか――それは【本】であるからだ。


 小説やミステリーというジャンル。本の内容について賛否を送りたい訳ではない。本という媒体そのものが重要だ。

 手に持ち、開き、情報を脳へ送るという行為そのものが重要だ。


 例えばちょっとした童話を読むとする。兎を追い、不思議な経験を経て、気が付けばそれらは夢か誠か……それがどちらか、それ以外かというのは読む側によって変化する。

 鼻で笑う者は本を投げ捨て、共感する者は不思議の国を追い求めるのかもしれない。一方はそれが絵空事だとして、一方は未知なる世界だと――そう、他者の提示する情報を読み込み、自分の体に合う毒へと馴染ませるのだ。


 知識を毒と例えるならば、学ぶ事は悪なのか? そうではない。

 知識は人が人である為に必要なものだが、こと教わるという点においては、すべからく他者の思考が付随するのだ。

 それは状況次第では身を守る盾や矛となりえるが、自身を蝕む諸刃の武具でもある。何故なら他者の思考というものは、個から見れば狂気以外のなにものでもないのだから。


 人によれば飛躍しすぎだと言うのだろうか? その思考こそが異常だと切り捨てるのだろうか? そう判断する事こそが、既に狂気を取り込んでいると言うのに……


 男女が本を読む。同じ本。例えで出すなら恋愛小説が甘酸っぱくて良い。

 男は物語の中で描かれた恋愛観に共感し、同じ本を読む女に恋心を抱いたとしよう。だが女はそんな恋に魅力を感じなかったのか、夢見がちな男の好意を拒絶する。

 落ち込む男性の姿に別の物語を読んでいた女性が運命だと男に近づき声をかけるが、女性の姿が物語を引きずる彼の瞳にかなわなかったのか、その行為を無下にしてしまう。

 それだけでちょっとした恋愛小説とも捉えられるが、全くもって無い話ではないだろう。所謂というやつだ。


 そうだ、価値観を変えてしまうのだ。他者の思考というのは、本当にいともたやすく価値観を変化させ、行動を操作する。元からそういう奴だったと話を締めくくってしまうのは容易いが、そういう【奴】だった彼らには、彼らを構成する今までの人生の中には、本当に他者の思考から学び基準としたものは無かったのだろうか。一から十まで、自分だけで知りえる情報で構成された人間など、それこそ夢物語ではないだろうか。

 そしてそんな容易く個を変質させてしまう他者の思考が、知る前の自分には無かった基準狂気が、毒ではないと断言は出来ないだろう。


「そろそろ引き上げるぞ。あの野次馬共をなんとかしておけ」


 知らなかった基準は知る前までは狂気だ。知らなかった発想や思い描けなかった世界は、個にとって狂気でしかない。

 難解すぎず陳腐すぎず。己が紐解ける知識レベルの狂気に侵され、毒への適正と耐性如何では、時に自身すらも理解出来ない狂行へと走る。

 だがそこに善悪の区別は無く。あるのは人間社会というにおいて、排斥されるか否かという事だけ。それが狂行へ走った個だけに留まるか、伝えた他者まで及ぶかは、また別の天秤達ではかるのだろう。

 故にこちらを見据える魔導書は、個によっては教本であり、経本であり、狂本なのだ。今回は珍しく、狂本の適正者が開いただけの話。


「ほら、そろそろ行くぞ」


 厳つい顔した群れのボスが手を引き先導する。

 後から小走りについて来た犬の一匹は、私の顔を隠す様に毛布を被せる。

 猿たちの喚き声を潜り抜け、車へと辿り着くと、ようやく感じた両手首の重さに、私の興味は露と消えた――


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