漱之介。

「先輩」

 芳賀俊介は憂鬱だった。明日が試験の日だったからだ。試験と名の付くものたちとは、高校でお別れするものとばかり思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしく、大学でも定期的に奴らの恐怖に晒されている。

 芳賀は悩んでいた。なぜ悩んでいるのかというと、それは今回の試験が単に学力を問うタイプの試験ではなく、創作の試験だからである。

 文学部不要論が吹き荒れる昨今、それでも文学部に縋りついて来る者は多く、明確な意思のある輩からただ何となく入学して来る輩まで多種多様な人物が芳賀の大学にも在籍している。そして、創作することを目的にしていない、楽に単位を取ろうとしているぬるい奴らの前に立ちはだかるのが、この創作の試験なのだ、と芳賀は思う。

 「目」というお題に沿って自由創作する。これが今回の試験の内容だった。芳賀は生まれてこのかた文学的な何かを創作したことは一度たりとも無かった。文学部で創作の講義を取っているのだから、何かを創作するということは逃れることのできない宿命である。とはいうものの、技術も経験も、あまつさえ創作意欲もない芳賀にはそんな宿命を呪うことが精一杯で、級友たちが次々とアイディアを考えついているのをただ恨めしげに見ているのが現状である。何しろ惰性で文学部に入った男なのである。この講義を取ったのも、仲の良い友人が同じ講義を取ったことと、先輩から楽に単位を取れることを伝えられていたからだった。しかしながらこの芳賀、変なところで真面目な人物なのだ。せっかく創作をするのなら自分も文学部の端くれ、才能を感じさせる創作物を生み出し、いつも後ろの方の席で寝てばかりいる男の存在感を見せてやる、と決心した革命の時を芳賀は試験前日の午後一時十八分、学生食堂で迎えたのである。

 芳賀は取り敢えず課題について考えてみた。しかし、アイディアなど浮かぶわけがない。何しろ時間が無さすぎる。いや、時間がないのは自分自身が前々から構成を練っていなかったことが悪いのだが、今となっては後の祭り、時間がないと嘆く他ない。

 そもそも「目」とは何なのだろうか。教授は目という漢字さえ使えば、それが網目の目であろうとも、碁盤の目であろうとも目次の目であろうとも良いと言っていた。芳賀にとっては「目」はそのままの目であり、ただ単に視覚を司る器官でしかない。見るためにあるもの、それが目だ。

 目、目、目。目といえば金目鯛の煮付けは美味しいよなぁと、ふと思った。基本的に魚は好きだが、中でも金目鯛の煮付けは絶品だな、と芳賀は思う。金目鯛は目が金色なのだろうか、煮付けにされている彼しか見たことがないから分からない。煮付けにされた彼の目は白だ。というか魚の眼は何故白になるのだろうか。死ぬからだろうか。いや、それなら鮮魚コーナーのサンマやらアジやらの目も白目でしかるべきだ。熱を加えるとそうなるのだろうか。不思議だ。それにしても金目鯛の煮付けは何故あんなに美味しいのだろうか…

「おい、どうした。死んだ魚のような目をして」

 突然、天から聞き覚えのある声が降り注いだ。死んだ魚?えっと、それってつまり…

「に、煮付けですか?」

「はぁ?」

 声の主は同じサッカーのサークルに所属している先輩、塚原だった。そうだ、違う違う。魚のことを聞きたいんじゃない、自分のことだ。

「俺、白目剥いてました?」

「…芳賀、お前大丈夫か?」

 そうだ。死んだ魚のような目とは、覇気がなく、生気を感じられない目のことを表す語句であって、何も焼き魚や煮魚のような白目を指すものではない。

「あ、いや、すいません。考え事してて。」

「なんか思い詰めてたぞ。恋の悩みか?彼女と何かあったのか?」

 塚原はテーブルの向かいの席に座り、身を乗り出して聞いてきた。どうして恋の話になると人は嬉々として話に入ってくるのだろう。一種の娯楽なのだろうか。それでいて恋が成就した暁にはリア充爆発しろ、と言われるのだから想い人などいない方が良いのではないかと思ってしまう。

 ましてやこの先輩は所謂スピーカーだ。この人に恋の悩みなど相談したら、次の日には大学の全員がそのことを知られ、ネット上にはまとめサイトが作られ、次の試験には芳賀の好きな人は誰でしょう、という設問が加えられると言っても過言ではない…さすがに過言だ。まぁ、今の悩みは恋の悩みなどではないのだから、恐れることは何もない。

「いや、今度創作の試験があって。アイディアが思いつかないんですよね。」

「そうか。何かお題とか形式とかないのか?」

「目っていう漢字に沿って書くという条件の他は、全部自由ですね。」

  塚原の顔から興味の色が失われていくのがありありと見えた。興味がないなら話題に乗ってこなければ良いのに。「俺には分からねぇわ」とひとこと言ってくれればそれで良いのに。何故話に乗ってくるのか。先輩とは後輩の相談に乗るものだ、とでも思っているのかもしれない。そうに違いない。

 塚原は良くも悪くも後輩の面倒をよく見る先輩だ。悪くいえば後輩への絡みがしつこい。そういうのが好きな後輩もいるが、嫌いな後輩だっているのだ。芳賀は、嫌いな後輩だった。先輩は先輩で、しっかり後輩の面倒は見るべきだとは思うが、それはサークル内でのことであって、プライベートにまで口出しされては堪らない。サークル内だけに友達がいるわけではないし、先輩とだけつるんでいたいわけでもないのだから、後輩をやたらと飲みに誘うのはやめてほしい。まぁ、奢ってもらえるからその点は嬉しいが。とは言ったものの、芳賀は純粋にサッカーをしたいだけで、活動後の飲み会であったり、わちゃわちゃ集うだけの合宿であったり、ましてやプライベートでサークルのメンバーで遊びに行くなどということは求めていないのだ。求めていない者に無理やり押し付けるのは押し売りではないか。消費者庁に訴えねばなるまい。

「俺には創作はよくわかんねぇけどさ…」

 出ました。「よくわかんねぇけどさ」よく分からないのなら分からないと言って欲しい。分からないなら分からないで別の、実りのある話題に切り替えればいい話なのだから。

「ほら、俺は経済学部だけどな。普段は見えない数字っていうのが目に見えると、意外と社会って面白いってわかるんだぜ。」

 自分の専門分野に持っていこうというのか。創作には活かせそうもない話だが、興味はある。創作には活かせそうもない話だが。

「へぇ〜。もっと詳しく話してくださいよ!」

「なんつって、俺も専門家じゃねぇからな。目に見えないものが見えるようになったら、世界って面白くなるんじゃないかって思ってな。」

 なるほど。それは一理あるかもしれない。目は見えるものしか見えないが、見えないものが目に見えるようになったら面白いはずだ。間違いなく、面白い。

「そういや芳賀、こんどのサークルの後に飲み会あるんだけど行くか?」

 始まった。理想の先輩のポーズだ。塚原は「理想」が誰にとっての理想なのかもう一度考え直すべきだ。

「いや、試験も近いですし、遠慮しておきます。」

「そっかぁ、残念だなぁ。じゃあさ…」

 まずい。全てを断り切るのは無理がある。ここは引き時だ。

「すいません先輩。バイトに遅れてしまうので失礼します。」

「ん、あぁ。頑張れよ」

 苦手な先輩ではあるが、塚原は先輩だ。一応しっかりと、丁寧に挨拶しておく必要があるだろう。苦手な人物だからといって、邪険に扱ってはいけない。今よりもっと面倒臭い事になったら、それはそれで困る。ここは、丁寧に。思いっきり建前でいいのだ。これは本心ではない、建前だ。

「すいません。いつも相談に乗ってもらっちゃって。また何かあったら頼らせて頂くかもしれないです。じゃ、またサークルで。」

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