第5話 魔法のハウ・トウ
星の光も届かぬ深い森の中。
ぱちぱちと枯れ木の割れる音を上げながら燃えるたき火の前で、一人の男が炎の明かりを頼りに紙面に鉛筆を走らせていた。
「かくも恐ろしきは“雷に打たれた男”、伝承に違わぬ力を以て電撃を撃ち、我を射抜きたり。周到なるその者は拳銃から弾を抜き、あちこちに投げ放ちたり。我、六つの銃弾のうち一つを紛失し、残る弾は五つのみとなる、……と」
書いている内容を全て口に出しながら男、マックジョイは経験した事を綴り終えると、改めてその内容を読み返す。
「……駄目だ、こんなの俺がダサすぎる」
彼は自分で書いた報告書を投げ出し、背中から地面に倒れこんだ。
「こんなレポートそのまんま出したら俺は左遷だ!最悪クビだ!せっかくスパイなんてイカす仕事に就けたのに、これじゃ手ぶらで帰る羽目になる!」
ひとしきり喚いた後、彼は両足を高く上げ、反動をつけて上体を起こした。
「よっ、と……。何としてでもあの勇者もどきをふん縛って捕まえにゃあ、俺の出世に響いちまう」
そう呟くと、彼は腰に差した拳銃を取り出し、リボルバー部分を引き出した。
弾倉に込められた銃弾は五つ、空きが一つ。
空きの部分を見つめ、彼は苦虫を噛み潰したような顔になった。
ジルトールではまだ銃弾の効率的な量産体制が整っていないため、持参した弾はこれが全てである。
彼は銃を戻すと再び大の字になり、暗い空を見上げた。
足元で上がるたき火の煙が空に昇って闇に吸われる様子をひとしきり眺めた頃、再び呟く。
「しっかし面倒だよなぁ、国王様はなーにを考えてんだか。“勇者もどきは必ず生け捕りにせよ”なんてなぁ」
彼の疑問に答える者は、誰もいない。
「ぶえっ、きしぃ!」
荒也は宿屋を兼ねた酒場の席で盛大にくしゃみをかまし、その後盛大に鼻水を啜り上げた。
「えーいチキショー」
彼にとっては癖になった悪態をつき、そこで白けた目を向ける三人に気付く。
この時彼は気付かなかったが、酒の入ったカップを持つ他の客達までもが、何事かと荒也の背に目を向けていた。
特に胡乱な目を向けていたのは、荒也達のいる酒場の角の席から一番遠いカウンター席に座る、顔面が刃物傷だらけの禿頭の大男だった。
一人で飲んでくつろいでいた所を荒也のくしゃみで台無しにされて機嫌を悪くしたのは明らかで、周辺にいた他の男達がその気迫に押されて息を殺していた。
彼等からの責めるような視線を背中に受ける荒也本人はこれに気付かない。
唯一カウンター席を見る事ができるアーシーだけが気付き、はらはらし始める。
「……もうちょっと遠慮してやってよ」
そう荒也に言ったのは彼の対面、酒場の一番角の奥まった席に座っていたククリマだった。
荒也は最もだと思い「すまん」と謝る。
そこでひと段落ついたと見られたのか、他の客達が談笑に戻り、さほど広くない店内はすぐに元の活気を取り戻した。
大男も視線を荒也達から離し、自分のカップに目を戻した。
アーシーは周囲の注目から解放され、ふうぅと静かに息を吐く。
あちこちに設けられたランプの火が、昼間とは違う色で酒場を彩っている。
仕事明けの男達でごったがえす酒場にふさわしい、がやがやした店内の一角で荒也達四人は机を囲んでいた。
「どうも噂されてるような気がすんだよなぁ」
「噂風邪ですか?」
「こっちにアンタを知ってる人なんてそうはいないでしょ」
相槌を打ったアーシーの向かいで、エリザが面白くもなさそうにふんと鼻を鳴らした。
「いいからそれ、ちゃっちゃと食べなさいよ。皆がアンタを待ってるんだから」
そう隣から言われた荒也は、渋い顔をして自分の前に置かれたものに視線を落とした。
底の深い皿に注がれた豆のスープと、平皿に置かれた楕円形のパン。
スープの液面は底に溜まった豆によっていびつに盛り上がっており、立ち昇る湯気は控えめ。
パンはというと片手に収まらないくらい大きいのだが、生焼けのような白い色をしている。
端から三分の一ほどがすでに食べられているが、その断面は穴だらけで、粘ついたような、だれた質感を晒していた。
「そりゃあ分かっているんだが、夕飯には厳しいメニューだぞ。パンは味気ねーし、スープの味ももの足んないしよ」
苦言を呈する荒也。
それを宿屋兼酒場の店主である、愛想の悪い太った中年女性が聞きつけ、カウンター越しにじろりと彼等を見る。
気付いたアーシーが彼女に黙って何度も頭を下げ、女店主の視線はようやく逸らされた。
エリザはアーシーのそんな様子に最初は眉をひそめていたが、ようやくアーシーが訴えるように指差す方向を見て、ああ、と小さく声を上げて頭を上下させた。
そんな二人の様子をよそに、ククリマが空になった自分の食器の前で両肘を突き、両手に顎を乗せて小声で荒也に同意を示した。
「……まあ気持ちは分かるけどね。塩っ気ないし」
ククリマの隣に座るアーシーがそれを聞きつけ、疑問を抱いた荒也にも分かるように話し始めた。
「それは仕方ありませんよ。ヒジャは内陸地ですし、今まで塩の輸入はナバンに頼っていましたからね。そのナバンがジルトールと同盟を結べばこちらとの交易は縮小されてしまいます。今後、塩の不足は免れませんよ」
荒也が素朴な疑問を口にする。
「岩塩とかは?採れねーの?」
「残念ながらそうした話は聞きませんね」
「うぅん、そうか。それじゃ、スープは仕方ないのか。まぁ、安かったしなぁ。……問題はパンか」
パン、の名前が出た時、エリザの片方の眉がわずかに上がった。
「パンの何が問題なの?」
「ん?いや、俺のいた国ではパンってもっとコシのあるものだったからな。それしか知らないからそう思うのかもしんねーけど、もそもそしててちょっと抵抗があるんだ。しかも味気ないし」
荒屋の説明を聞いて、エリザの眉が元の位置まで下がる。
事情を聞き、理解と共感を示した様子だった。
「スープに浸けて食べるのよ」
「いや知ってるよ。道すがら同じパンをちょくちょく食べたからね?俺の事アホだと思ってる?」
「……味の違いは分からないみたいね」
エリザは呆れたようにため息をついた。
「どういう事だ?」
「ものが違うのよ。このパンと、保存食のパンは」
そう言って、エリザは自分の麻袋から保存食のパンを取り出すと、荒也の前に差し出し、彼の持つパンと並べてみせた。
保存食のパンの方が焼き色がついており、見た目がよい。
「さっきも言ってたけど、今この国では塩が足りないの。パンを作るのにも、塩は必要なのよ」
「あ、そうなんだ。初めて知った」
「それくらい知っときなさいよ。持ってきているこのパンは塩無しででも出来るんだけど、生地をじっくり時間をかけて発酵させて作るの。でも、この店のパンは塩を使って作るものを塩無しで作ってしまっているから、生地は膨らみきらなくて食感もだるい。もそもそしてるから、確かに食べ切るのに苦労はするのよね」
女店主が再びカウンター越しにじろりとエリザを睨んだ。
エリザは背中に受けるその視線に気付かず、なおも続ける。
「保存食のパンはしっかり噛めば小麦の風味がしっかり出るの。でもこのパンは塩があってこそ出る味がないから、これだけではとても食べられないものになってる。もしこれが自家製なら、近くのパン屋と契約を結ぶか、作り方を覚えなおすかする方を勧めたい所ね」
エリザがそこまで言った時、女店主はすでに彼女の後ろにいた。
不機嫌な顔でエリザを見下ろし、静かに声をかける。
「ずいぶんパンに詳しいねぇ」
その声は話に聞き入っていた荒也やアーシー、ククリマの肝を冷やした。
しかしエリザだけは動じず、当たり前のように振り返って女店主を見上げた。
「ええ、どうぞ」
持っていたパンを店主に差し出し、一言。
「このパン、私が作ったの」
荒也達の視線がエリザに集まった。
「初耳」
「私もです」
ククリマが無言で二人に頷いた。
女店主はいぶかしんだ様子だったが結局パンを受け取り、眉根をひそめたままパンを見た。
パンの縁を、そして裏を見た末に、おもむろに齧る。
食い込んだ歯の間から白いパンの線維が引き伸ばされ、すぐに千切れる。
女店主は黙々と咀嚼を続ける。
その様子を見ている荒也達三人は、試験の合否を待つようなきわめて居心地の悪い沈黙を噛み締めていた。
エリザだけは緊張した様子もなく返事を待っている。
やがて女店主がパンを呑みこみ、そのまま待つ事少し。
言うべき言葉を選ぶような沈黙だったが、その表情が不意に変わる。
口の中に現れた、パンの風味を確かめる顔になり、その後エリザを見下ろす。
「……確かに」
その言葉は、にこりともしない女店主の口から洩れた。
エリザの口の葉が、わずかに上がる。
荒也達三人は得られた返事が肯定的なものであると分かると、深く静かにふうぅ、と息を吐き胸を撫で下ろした。
すると、女店主が不意にエリザの手首を掴み、強引に引き始めた。
引かれたエリザはたたらを踏みながら腰を上げ、カウンターへと引っ張られる。
「ちょ、ちょっと!?」
「色々教えてもらうよ。一切合財ね」
言いながら女店主はぐいぐいとエリザを連れ出し、カウンターの奥へと引っ込んでいった。
その間、助けを乞うようにエリザが空いた手を荒也達へとばたつかせていたが、荒也達は関わると面倒そうだと察し、無表情で彼女に手を振り見送った。
二人の姿がカウンターの奥にある調理場に消えるのを見届けた後、荒也が総意を代弁する。
「あれだけ大口叩けば、そらそうなるわな」
アーシーとククリマが黙ってこれに頷いた。
「ところでシャシャって、パン焼けたの?」
「そんな記述は無かったかと。でもあの子、言うだけはありましたよ。正直、ここのパンは食べるのに難儀しましたからね」
「皆して俺より早く平らげてるけどな」
荒也は空になっている二人の皿を一瞥して、自分のパンにかじりついた。
粘ついたような柔い歯ごたえの後、一口分が彼の口内へと転がり落ちた。
スープを口に含み、無理やりパンとスープとを絡めて嚥下した後、正直な感想が彼の口から漏れる。
「あいつのパン、美味い」
ククリマがこれに頷いた。
「道理で数をこなしちゃう訳だよねぇ。私もう道すがら八個は食べたもん」
「それはあなたが食いしん坊だからですよ」
アーシーの窘めるような言い方にククリマはむっとしたが、返す言葉もなくふてくされたように顎を机に載せた。
彼女の態度を咎める様子もなく、アーシーが荒也に尋ねる。
「代理さん、私達は先にお部屋に失礼しましょうか?」
「いや、悪いけど残っててくれよ。呑兵衛の園で一人はつらい」
正直な理由はアーシーはくすりと笑った。
「それに、こっちはフード被ったまんまなんだ、何か起こっても最悪気付かんかも知れん」
実際、今の荒也の視界はフードに制限されており、横も見辛い。アーシーもそれを察し、気持ち程度だが机の上で荒也の方に身を寄せた。
「まあ、確かに。今朝みたいにジルトールが鉄の蠅で空からやってくるかもしれませんからね」
「いや、アレだけはないと思う。断言できる」
「なぜです?」
「今は夜だからさ」
その言葉に、アーシーとククリマが興味をもって荒也を見た。
「あのヘリ、さっき鉄の蠅って呼んでたヤツな、あれを飛ばすのは人間だから、目で見える目印がものすごく重要なんだ。自分のいる場所の、高さや広さを測るためにな。空中を飛ぶから、三次元の情報が絶対不可欠って訳だ。ところが夜だと、この辺は空も陸も真っ暗で地平線も見えないときた。思い付きで行動すりゃ不慮の事故で墜落したり、荷物を落とす場所を間違えたりするかもしれない。だから、夜にヘリがこの辺に降りたり荷物落としたりはしないと思う」
そう聞かされたアーシーは、分かったような分からないような、ただ感心するようにはあ、と荒也に相槌を打った。
「詳しいんですね」
「半分くらいあてずっぽうだよ。ただ、そう間違ってはないと思う」
そこまで言って、荒也はついに残ったパンの端を口の中に放り込んだ。
スープの皿を持ち上げてその中身を口に注ぎ、念入りに咀嚼を始める。
それから少し経って彼が口の中のものを飲み込んだ後、ククリマが顔を上げて荒也に尋ねた。
「代理さんってジルトールのものに色々詳しいみたいだけど、何で?」
「俺のいた世界でも、同じようなものがあるんだ。俺が特別詳しいってわけじゃないぞ。写真や漫画でしか見たことがないモンばっかりだ」
「シャシン?」
「マンガ?」
「オーケー、配慮が足りなかった。記録でしか見た事がないって意味だ」
「はあ。異世界って色んなものがあるんですねぇ」
アーシーが、関心するべきなのだろうが驚きの大きさを把握しかねているような反応を返す。
そんな彼女に対し、荒也は少しだけ顔を近づけた。
「こっちからも皆に聞きたい事があるんだが、いいかな?」
「ええ、どうぞ」
「どうも。……今更だが、三人とも、なんで俺に同行してるんだ?」
質問されたアーシーがククリマと顔を見合わせ、揃って首を傾けた。
ククリマが荒也に尋ねる。
「どういう意味?」
「いや、俺のやらされてる事って、よく考えなくても命懸けだろ?俺は元の場所に帰るために嫌でもやらにゃぁならんが、三人はどういう事情でこんな旅に出たんだ?国に集められたって言っても、嫌だったら断れるんじゃないの?」
そう言われたアーシーは、あきれたように肩をすくめふう、と息をついた。
「本当に今更ですね」
「聞く機会がなかったからな」
「……確かに断る権利はあります。ですが、そうもいかないんですよ」
「と、いうと?」
「私達はオモカゲ様から面通しを受ける事で先人の技を使えるようになります。当然といえば当然ですが、顔は生まれ持ったものであって選んで獲得したものではありません。先人の技は、選ばれた者だけが持ち得るものなのです」
「そう聞くとかっけーよな」
「カッケーが格好いいという意味ならそうなのでしょうが、そう気楽な話ではありません。選ばれた者には、周囲からの信頼や期待が集まります。何もせずに日々を過ごしていると、周りからのそういった感情が、次第に反感や失望に変わるんです」
そこまで言われて、荒也は合点がいった。
「ああ、嫌でも、って訳か」
「そうです。顔を隠し続けて生活する訳にはいきませんからね」
「一応報酬はもらえるんだよ。でも、正直割には合わないよね」
ククリマがそうぼやくと、アーシーは目を丸くして彼女を見た。
「あれだけ貰えれば、半年は遊んで暮らせますよ?」
「私は学費で飛んじゃうんだよ。誰に似てようが学費の免除はされないしさ」
「学費?お前、学校通ってんのか?」
荒也が驚いてククリマに尋ねた。
「うん、エルドレル大魔法学院。魔法使いの通う学校ではエリートの行く所だよ」
アーシーが学校の名前を聞いておお、と感心したように声を上げた。
「それは知りませんでした。大賢者エンディオマと同じ顔だとは思っていましたが、流石ですね」
そう言われると、ククリマの顔に曇りが差した。
荒也がこの反応に疑問を抱くと同時に、アーシーが気づいたようにあ、と声を上げる。
「い、いえ、違いますよ?先人の知恵や技に頼って入学試験を通過したとは……」
「うん、分かってるよ。アーシーさんがそう思うのも無理ないもん。面通しは学校に入ってから受けたし、もちろん自分の実力で合格したんだけどね」
ことさら明るい声で言うククリマだったが、胸を張って自慢するような様子はなかった。
年齢に似合わない乾いた笑みを浮かべた彼女に、荒也とアーシーは彼女の苦労を察し、罪悪感を覚える。
「と、ところで、俺魔法を見た事ないんだよ。俺のいた場所ではおとぎ話にしか出てこない代物だったからな。どんなものか、よければ見てみたいんだけど」
荒也の提案に、アーシーが乗る。
「そ、そうですね!私も是非、見てみたいです」
二人はちらりとククリマの反応をうかがってみる。
ククリマは真顔になって少しだけ首を捻ってみせたが、やがて首を直し、うんと頷いた。
二人は彼女が話題に乗った事に安堵する。
ククリマが腰に巻いたベルトにつけた小さな革の箱に手を伸ばす。
蓋を開けようとしたその手が、途中で止まる。
「どっちがいい?」
問われた二人は疑問を抱く。
「どっち、ってどういう意味だ?」
「私と、大賢者エンディオマ。どっちがいいの?」
短いその問いかけは、せかすような響きが多分にこもっていた。
面食らうアーシーが口を開きかけた時、割り込むように荒也が言った。
「お前がいい。ククリマので頼む」
アーシーが荒也の方を見る。
荒也には彼女がどちらをつもりだったのが、その表情から読み取れた。
小声で彼は彼女に言う。
「何を言おうとしてんですか」
「す、すいません。エンディオマといえば、数々の伝承で並ぶものなしと言われた偉大なお方でして、つい……」
荒也はもの言いたげな目を彼女に向けたが、すぐにククリマへと向き直った。
返事に対する反応を見る彼の前で、ククリマは依然動かない。
「……私のでいいの?」
「おう。魔法がどんなものなのかはよく分からんが、自信はあるんだろ?」
やがてククリマはにひひ、と笑った。
「もち」
言って、彼女は小箱を開けた。
そこに詰まっていたのは、同じ形と大きさに切りそろえられた、紙の束だった。
ぴんと張ったその紙の束を見て、荒也は気付く。
「カードか」
「そ、そしてこれが、あたしの鼻」
そう言って、彼女は最も外側に位置していた一枚のカードを手に取って二人に見せた。
その札の淵には複雑な模様が走っており、中心の空白にはただ一つ、シンプルな三角形が描かれている。
「……はな?」
「鼻。ほら、この鼻だよ」
彼女は自分の鼻を指差し、そのカードを顔の横に並べて荒也に見比べさせた。
三角形は正三角形から少しだけ高さを増したような二等辺三角形であり、彼女の鼻の形とよく似ていた。
「……困った。分からん」
その感想に、ククリマがむっとする。
助け舟を出したのは、アーシーだった。
「魔法は数枚のカードによって実現し、行使されるんです。その際、カードの配置は顔に見立てられるんです」
あ、と荒也が声を上げ、手を叩いた。
「なるほど、それでか。鼻が一番重要なんだな」
ククリマは満足したように頷いた。
「そ。鼻は顔の中心にあるからね。魔法では、鼻を自分自身と証明するものとして、その周りに他のカードを並べていくの」
ククリマが自分の鼻と呼んだ三角形のカードを、テーブルの中心に置いた。
荒也とアーシーは、食器を端へよけてやる。
「鼻を置くのが始まり。次に、目玉」
ククリマは小箱から別のカードを二枚出し、それを鼻のカードの両側に並べた。
「右目と、左目。目は使いたい魔法に求められる細かい条件を表すの」
ククリマの出した二枚のカードには、片方に四角形、もう片方には平行な二本の直線がそれぞれ描かれている。
「記号の説明は後回しね。次に置くのは、額」
彼女は別のカードを取り出し、今度は鼻のカードの上辺に置いた。
それには、渦巻きが描かれている。
「額はものを考えたり悩んだりする頭に位置するから、どんな魔法を使うかを決める一番重要な条件を表すの。最後に、口」
一枚のカードが、十字を完成させるように鼻のカードの下辺に置かれた。
「口はものを言うためのものだから、魔法を発現させるために最後に置くの。主に魔法の程度の大きさとかを表すから、使う時は一番慎重に選ばなきゃなんないの。規模の大きい魔法を安定させるのにも重要なの」
そう言って、彼女は口にあたるカードを指した。
そこには小さな、針の穴くらいの円が描かれていた。
「これらを揃えた後、最後に言うべき呪文を言って、それで私はようやく魔法が使えるって訳。この五枚の配置が魔法の基本。魔法によっては配置に例外もあるし、簡単な魔法なら鼻と額だけで使えるけどね。分かった?」
超能力の開発に使うようなカードが十字に並んでいるのを見ながら、荒也は長かった説明を整理する。
「うーん、と。要するに、目で見た条件に合う魔法を額で考えて、口に出して魔法が出来る。って事でいいのか?」
「だいたいそんなイメージでいいよ。記号の意味と組み合わせが面倒くさくて、そのせいで学校で学ばなきゃなんないからね」
「ちなみにこれだと、どんな魔法になるんだ?」
「え」
ククリマが戸惑いの声を上げた。
「え、て何だよ。まさか考えずにカードを並べた訳じゃないだろ?」
ククリマは、それにすぐには答えなかった。
「え、ええと、四角のマークが囲む事で、二辺のカードが上下、だったかな?渦巻きが風で、この円は小さい事を表すから……」
途端に説明が覚束ないものになりだし、ククリマに戸惑いが表れだした。
「……難しい魔法なのか?」
「い、いやいや、そんな事ないよ?ただこの条件で出る魔法は、ええと、んと……」
考えがまとまらないといった様子で、彼女は口ごもる。
「……わかんないのか」
「も、もうちょっとで分かるの!記号の意味は合ってるはずだから、この並びだと、うーんと……」
未だ結論が導き出せないでいるククリマに、ふとアーシーが呟く。
「鼻を変えてはどうでしょう?」
え、と荒也とククリマが声を上げた。
「鼻って、つまり本人を表すものだから……」
「ええ。試しに、大賢者エンディオマ様のものに変えてみたらわかるかもしれませんよ」
これに最初、ククリマは難色を示した。
自尊心をひどく害しているのが、その表情によく表れていた。
やがて観念したように、ククリマは別のカードを小箱から取り出した。
そのカードには、一つの三角形が描かれていた。
「これも鼻なのか」
「うん、大賢者エンディオマの、ね」
面白くもなさそうにそう言って、ククリマは鼻のカードを置き換えた。
すると、あ、と彼女が声を上げる。
「そうだ、風の玉だった。四方上下に風を溜めて、小さな風の玉になるんだ」
先ほどまでが嘘のように、彼女ははっきりと断言した。
その即答ぶりに、荒也が戸惑いと呆れを交えたように呟く。
「鼻を変えると分かるのか……」
「まぁ、気付きも人の持つ才覚ですからね……」
ククリマはこれに、ばつの悪い顔をする。
「しかしこれ、さっきの鼻とどう違うんだ?」
荒也がエンディオマの鼻のカードに顔を近づけ、まじまじと見る。
その彼の視界に、ククリマが自分の鼻のカードを並べてみせた。
「よーく見て。エンディオマの鼻は、私と違って底辺がちょっとだけ外に出てるの。実は四角形なの」
言われて荒也は気付いた。
遠目からは確かに同じ三角形に見えるが、エンディオマのものは鼻の穴が並ぶ下辺がほんの少し、見逃しそうな程度に外側に突き出ているため、凧のような四角形になっている。
「あ、ホントだ。分かりにくっ」
「うん、あたしもそう思う。完全に似てるって訳じゃないから、鼻も別になってるの」
「え、瓜二つでなくても力が使えるのか?」
「うん。すっごく似てるってオモカゲ様が認めれば面通しで力がもらえるの。何から何までそっくりってあり得ないでしょ、生き物なんだから」
そりゃそうか、と荒也は納得した。
「意外と融通が利くんだな」
「魔法はそうもいかないけどね。個人の気質による相性ってあるから」
相性、というのが荒也は気になったが、さらに込み入った説明を聞く羽目になりそうだと思い、あえて理解したような顔で黙って頷いた。
「それで、この魔法は今ここで使っても問題ない奴なのか?」
「一応ね。……制御できれば、だけど」
ククリマはそう言って、鼻のカードを置き換えた。
それを見て、アーシーが驚く。
「え、代えるんですか?」
「だって、代理さんがあたしの魔法が見たいって言ったんだもん」
むくれたククリマに、アーシーはあ、と気まずそうに声を上げた。
「そうでした……、すみません」
「ん。じゃあいくよ」
ククリマはんん、と咳払いした後、鼻のカードに手をかざすと、軽く息を吸い、その後言葉を紡ぎ始めた。
「『囲え、塞げ、そして巡れ。意味するものは風にあり』」
ククリマの呟きは、それまでの彼女のものとは違う響きのものだった。
感情を抑えたおごそかな語り口は、十代前半の少女のものとは思い難い。
更に信じがたい事に、十字に並べられた五枚のカードが、徐々にぼう、と光を帯び始める。
なおも続くククリマの言葉に応じるように、光は徐々に強くなる。
「『巡れ、巡れ、そして集え。小さきもの、それ、球となれ。求められるは固き球』」
光る十字の中心、つまり鼻のカードの真上で、針の穴ほどの小さなものが現れた。
それは辺りの空気を吸い上げるかのように風の流れを生み出し、その風が荒也やアーシーの頬をなでる。
風が小さなものに集まり、それは大きくなり、やがて自身の形状を荒也達の前で露わにした。
それは薄緑色をした、薄い糸の玉のようなものだった。
ククリマの前で落ちる事なく空中を揺蕩い、そして密度を増していく。
風の塊のようだと、荒也は思った。
「『形よ、質よ、存在よ。変われ、そして定まるべし』」
ククリマの言葉に従うように、風はなおも吹き、薄緑色の球は今度は縮み始め、密度を増し始めた。
今や彼女の両手は風の塊に添えられ、なすべき形を示すように全ての指が広げられていた。
今やピンポン玉程度の大きさになった緑色の玉は、彼女の手の中で激しく振れている。
「『軽くあれ、激しくあれ。しかし止まる事なかれ。然れば名を得、呼ばれたり。その名、すなわち……』」
彼女がそこまで言った時、ぱん、と音を上げて緑色の玉は彼女の手をすり抜け、跳んだ。
「あ」
ククリマのその一言で、荒也とアーシーは魔法の失敗を悟った。
打ちあがったそれを目で追い、上を見上げる。すぐにその視線は下に、左に、右にと跳び回るものを追ってあちらこちらに向けられる。
緑色の玉は棚に並ぶ酒瓶や壁に生えた燭台のろうそくといった障害物を全て避けながら、壁や天井を跳ね回るのだ。
他の客達が飛び回るそれに驚いて席を立ったりカップを持ち上げたりした。
「うおぉ、何だ!?」
「あっぶねぇ!」
たちまち酒場は望まぬ驚きであふれかえった。
風の球はしばらく酒場中を跳び回っていたが、ついに薄く開いていた窓の一つから酒場の外へと飛び出していった。
酒場はあっけにとられたように静けさを取り戻し、十字に並べられた五枚のカードからも光が失せた。
いち早く我に返った荒也とアーシーが、座ったまま慌てて周りに頭を下げる。
「お騒がせしました。どうもすいません」
「ご迷惑をおかけしました」
「いやぁ、構わんぞ。珍しいものが見られて、得した気分だよ」
そう言ったのは、荒也達から遠いカウンター席にいた、顔面が刃物傷だらけの禿頭の大男だった。
酒場で一番迫力のある風貌の持ち主の言葉に、他の客も「おお、そうだ」と口々に賛同し始める。
そんな中で、大男はカップを持って席を立ち、荒也達の席に近づいた。
荒也は間近まで来た大男を見上げ、思わず半開きになった口からおお、と感心したような声を上げた。
大男の体格は遠くから見た時の印象よりも大きい。
裸の上半身は鍛え上げられた筋肉で膨らんでおり、あちこちに傷が見受けられる。
その傷の数が、大男が渡り歩いてきた戦場の数を表しているかのようだった。
「さぞや名のある方とお見受けしますが」
「お、分かるか兄ちゃん?」
「いや、異邦人なのでさっぱりです」
「なんだ、残念だな。傭兵のガンザンといえば、ちったぁ知れた名だと思ったんだがな」
言葉ほどは残念そうでない大男に、ククリマが縮こまって目を伏せる。
「ごめんなさい……」
「いや許したからな?怖がらなくていいんだぞ嬢ちゃん」
ガンザンがそう言うが、ククリマは彼とは目を合わさず、ちらちらと対面に座る荒也と隣のアーシーとに助けを求めるような視線を向け始めた。
視線に気付いた二人が、ガンザンの注意を引こうと話しかける。
「そうだ、あなたは誰に似てるんですか?」
そう尋ねたのは荒也で、これにガンザンは目を丸くした。
「……俺に言ってんのか?」
「え、ええ。オモカゲ様に、ええと面通しって言うんだっけか、を受けたりしたんじゃないんですか?」
荒也が最後まで言い終わらないうちに、ガンザンがぶふっ、と吹き出した。
そして大笑いした後、なおも笑いを抑え切れない様子で話しだす。
「俺の顔見りゃ分かんだろ?こんな傷だらけじゃ、誰にも似てないっつーの。昔は木こりの誰だったかに似てたが、こんな顔になった後にゃあ、オモカゲ様から木こりの技も取られちまった」
「え、取られた?」
「おうよ。珍しい話じゃねぇぞ。オモカゲ様の衛星に見つかって、面が変わったと見なされりゃ先人の技を失うんだよ。薄情な話だよなぁ」
明るい話しぶりでそう言うと、ガンザンは手にしたカップを口元で傾けた。
「が、ガンザンさんはお一人でいらっしゃるんですか?」
アーシーの問いかけに、ガンザンがおお、と返事を返しながら彼女に目を向ける。
「って、うおお、聖女様じゃねぇか。なんでこんな所に?」
「あ、巡礼中なんですよ。この方々は旅の楽団で、ご一緒させていただいてるんです」
荒也は忘れかけていた自分達の表向きの顔を思い出し、ぽんと手を叩いた。
「そいつは大変ですな。フードの兄ちゃんが楽団の団長なのか?」
「はい。団長として、報酬はびた一文拾い損ねはしないという使命があります」
「男だったらもうちょい高い志持てよ……」
あきれた様子だったがガンザンは荒也達に好感を持ったらしく、その場を去らず話を続けた。
「しかし、あんた等も運が悪いな。今時分、この辺を巡礼しようなんてな」
「やはり、ナバンの方はぴりぴりしていますか」
尋ねたのはアーシーで、ガンザンはおお、と頷いた。
「そりゃぁな。ジルトールに近い村や国境付近の貴族連中は皆自分が戦に巻き込まれるんじゃないかと気が気でないみたいでな。まぁ、そのおかげで俺達みたいな傭兵が仕事にありつけるんだけどな。貴族様々だ」
言われて、荒也は改めて他の客を見回した。
よく見れば多くの者が体格が良く、足元には剣を立てかけている。
ガンザンの顔ほどではないにしろ、むき出しの腕や足に刃物傷の走っている者も多い。
物々しい顔ぶれに、荒也は思わずガンザンに言う。
「ここはまだヒジャのはずでは?」
「もうヒジャだよ。戦線はここまで来ているんだ」
荒也の口が堅く結ばれた。
「ま、戦に巻き込まれないよう、せいぜい気を付けるんだな。傭兵崩れが金品目当てに襲ってくる、なんて事もあり得るからな」
そこまで言って、ガンザンは持っていたカップをくっと一気にあおった。
「……ご忠告、感謝します。ですが、私達の行先は変わりません」
アーシーが答えると、ガンザンはそうか、と頷いた。
特に気を害した風でもない。
「それもいいんだろうな。だが今、世の中は荒れている。何が起こるか分かんねぇ。気を付けるこったな」
それだけ言うと、彼は荒也達に背を向け、自分の席へと帰っていった。
それを見送りながら、荒也は呟く。
「……急がなきゃならないな」
「ええ」
アーシーが神妙な顔になって頷き、ククリマもまた硬い表情になって首を縦に振った。
「俺の知らない所でジルトールの戦力が減ったりしてねーかな」
「そんな都合のいい事起こりませんよ。行動あるのみです」
たしなめるようなアーシーの一言に、荒也は黙って眉をしかめた。
焚き火に枯れ木を継ぎ足し、マックジョイは炎の中でぱちぱちと割れる枯れ木の音に耳を傾ける。
音を聞きながら、彼は両手で拳銃をいじりその弾倉を引き出す。
弾丸の収まる空洞は六つ、込められた弾は五つ。
マックジョイはそのうち一つを取り出し、それを目の高さでまじまじと見た。
「弾はあと五つ、無駄にはできないな……。ん?」
自らを戒めるように呟いたその時、彼の目が動くものを捉えた。
何事かとそれに意識を向ける。
闇の中から現れたものは、炎の明かりを受けてその色が明らかになる。
それが緑色の小さな球体だと気づいた直後、真向から突っ込んできたそれは彼の視界の中心に飛び込み、彼の額に激突した。
「おふんっ!?」
衝撃が頭の芯を揺らし、一撃で彼の意識を刈り取る。
何が起こったのか、理解する暇もなかった。
マックジョイがのけぞり仰向けで倒れつつある中、彼の額で跳ね返った緑色の玉は空中へ上がり、放物線の頂点に達した途端霧散し、消え失せた。
ちょうど彼がどう、と地に倒れたのと同時の事だった。
彼の手から弾丸がこぼれ、ちりんと音を立てて落ちた後焚き火の元へ転がっていく。
彼が倒れて少しした頃、弾丸はぱんと音を立てて、あらぬ方向へと飛んでいった。
朝を迎え、酒場を兼ねた宿屋の前で荒也達四人は集まった。
最後に宿を出たエリザは眠そうな目をこすり、他の三人と向き合う。
「んぅぅ、おはよう……」
「えらく遅かったな。なんでだ?」
「あのおかみさん、すごく勉強熱心だった……。細かい所まで根掘り葉掘り聞かれた……。メモ書かされ過ぎて手首痛い……」
エリザはそう言って右の手首をさすった。
彼女の眼の下には隈ができている。
開き切らずにいる瞼をどうにか軽くしようとするように、彼女は左の手で目元をぬぐった。
「おお……、なんか、大変だったんだな」
荒也が同情を示すが、エリザは黙って彼を一瞥するだけだった。
返事をする余力もないらしい。
「でもしょうがないよ。エリさんのパンおいしいもん」
ククリマがそう言うと、エリザの口元が緩んできた。
「ま、まぁね。昔から自分で作ってたし」
これに、アーシーが尋ねる。
「そうなんですか。作るのがお好きで?」
「それもあるけど、家の手伝いで……」
そこまで言うと、不意にエリザは口をつぐんだ。
視線をそらし、苦虫を嚙み潰したような顔になる。
その反応から、アーシーはまずい事を聞いたのかと不安を覚える。
気まずい沈黙が降りかけたその矢先、口を開いたのは荒也だった。
「とにかくもう行こう。観光気分もちょいと失せてきた所だ」
他の返事を待たず、彼は歩きだした。
それをククリマが慌てて追い、エリザが離れていく二人の後を遅れて追いかける。
「あ、あんたに言われたかないっての!」
追いついたエリザが、ククリマのすぐ後ろにつく。
「言っとくけど、今後ずっとタダで食わせてもらおうなんて思わない事ね!」
「え、金取んの!?」
「えっ……」
「え、ククリマちゃんはいいよ!?なんでショック受けてるの?」
「俺はショックだ!」
速足で遠ざかっていく三人の話す様子を聞きながら、アーシーは満足げに笑みを浮かべる。
先を行くのは荒也、話題の中心も荒也だ。
「やはり、お人柄がよい方ですね。酸も無駄になりそうです」
感慨深げに頷いた後、アーシーは自分が置いて行かれているのに気付き、慌てて三人の後を追うのだった。
蒸し暑く薄暗い廊下を、一人の中年の男が速足で歩く。
歩くたび、身にまとっている甲冑が全身のあちこちで噛み合い、耳障りな音を立てるが男は気に留める事なく突き進む。
彼にとってその音は二十年以上慣れ親しんだものだ。
窓の外では雲よりも重く沈んだ色をした煙が空全体を覆っているのが見える。
陽光を遮らんばかりに厚いその煙がジルトールの上空に留まっているのは、昨日今日に始まった事ではない。
あちこちで空高くそびえ立つ煙突からは、今日も煙が吐き出されていた。
喉の奥に張り付いたいがらっぽい物を吐き出そうとするように、男は殊更に大きく咳き込む。
その後、彼はたどり着いた目的地の前で改めて背筋を伸ばし直した。
それはジルトールの王城の中にありながら、さながら城壁に設けられたもののように大きく、分厚い鉄の扉だった。
規則正しく並んだ鋲が、その扉の重厚さや分厚さを一層引き立てている。
高くそびえ立つ分厚い扉を挟むように並ぶ二人の兵士が、男を見て踵を合わせ、手にした槍の先を上に向けて背筋を伸ばす。
「「騎士団長、お疲れ様です!」」
二人の兵士が口を揃えて男に言うと、男は手近にいた方の兵士に目を向ける。
「国王陛下に謁見したい」
「かしこまりました。少々お待ちください」
兵士達は顔を見合わせ、自分達の背後にあるものにそれぞれ向き直った。
それはどちらも人が入れそうな大きさの鉄の箱で、斜めになった上部の面には上下に伸びる平行な溝が二つと、それぞれの溝から生えた鉄の棒があり、揃って上に伸びている。
鉄の棒同士は横に渡された取っ手でつながっており、二人の兵士はその取っ手に手をかけた。
「レバー、下ろすぞ」
「せーのっ」
二人は同時に、レバーと呼んだ鉄の棒を溝の上から下へと一気に引き下ろした。
がこん、と音がしてレバーが下がる。
その後、ぷしゅう、と蒸気の吹き上がる盛大な音が壁の向こう側から上がった。
それに続いて太い鎖の噛み合う鈍い音が響き、張り詰めたそれが軋む音に混じってごり、ごりと鉄の歯が擦れ合う音が規則的に上がり始めた。
その音に合わせるように、巨大な鉄の扉がゆっくりと開き始めた。
蒸気機関によって開いていく扉の隙間から、謁見の間の様子が見えていく。
天井の高い石造りの暗いその空間の中心を、入り口から伸びた赤い絨毯が走っている。
空間の奥には階段状の高い壇があり、その頂きには真っ白で簡素な造りの玉座が設けられていた。
玉座に座る王の姿も、そこにあった。
その出で立ちは、騎士団長の知る歴代のどの王よりも特異で、奇妙だ。
代々慣例として着られた赤いマントではなく、分厚い黒いマントを羽織っておりその全身を覆い隠している。
丈の長いそのマントによって指先はおろか首筋さえも見せていない。
特に異常なのは、顔を仮面で隠していることだ。
つるんとした表面に凹凸はなく、目にあたる部分には小さな点が彫ってあるだけの白い仮面だ。
人間の顔としての特徴に乏しく、空を飛ぶオモカゲ様の衛星よりも人間味がない。
地位を証明するための冠をかぶっていなければ、得体のしれない狼藉者にしか見えないであろう。
暗い玉座の間の中にあって暗闇に溶け込もうとするかのような姿でありながら、被っている白い仮面は一層目を引くものだった。
がこん、と一際大きな音が上がり、鎖や歯車の音が止む。
扉が開き切ったのだ。
高所に設けられた明かり窓以外の光源は、玉座の間にはない。
今代のジルトールの国王は虚飾を否定する主義であり、王族の権威を象徴するような代物は、ほとんど置かれていない。
唯一形式に則ったかのように残された絨毯の上に、騎士団長と呼ばれた男は足を乗せ、玉座へと歩み寄った。
物の置かれていないその広大な空間に寒々しさを覚えながら、玉座に至る階段の前で膝を付く。
「申し上げます、陛下」
騎士団長の声を張ったその言葉に、仮面の王は身じろぎせずに応じた。
「述べよ」
老人のようにしゃがれているが、決してか細いものではない声。
仮面越しのそのこもった声は感情が読み取れず、聞く者に警戒心を抱かせるものだ。
騎士団長もまた、身のすくむのを感じていた。
他国の人間から魔王などと呼ばれているのを思い出し、うまい事を言ったものだと密かに感心する。
「ヒジャにて降下作戦を行った部隊からの連絡が途絶えました。また、新たな“雷に打たれた男”がヒジャからこちらに向かっているそうです」
騎士団長はヒジャに潜り込ませたスパイから受けた報告を国王に伝えた。
「……四人目、か」
王の言葉に、騎士団長ははい、と頷いた。
「その四人目は新たな従者三人を従え、こちらに向かっているそうです。それぞれ聖女リリエンヌ、早撃ちのシャシャ、大賢者エンディオマといった優秀な顔ぶれです」
騎士団長は報告の内容を一部省いて説明した。
報告してきたスパイが期せずして真っ向から挑んで敗れた事や、支給された銃弾六発のうち二発を紛失した事など言おうものなら、どんな反応が返るか分からない。
「いかがしましょう、陛下?」
騎士団長は尋ねた後、半ば想定している答えを待つ。
「四人目のみ捉えよ。他は任せる」
その返事は、騎士団長にとって予想通りのものだった。
同じ返事を聞いたのは、今回で四回目だ。
次に、王が尋ねる。
「三人は、どうだ?」
それが既に捕えている三人の捕虜の事だと、騎士団長にはすぐに分かった。
「一人目はどうにかまだ堪えています。二人目は衰弱死寸前、三人目は未だ労働を拒否し続けていますが、じきに従うでしょう」
王は報告を聞き、小さく首を縦に振った。
仮面で表情が読めないからこそ、そうした小さな反応は対面する騎士団長にとってありがたいものだった。
王が理解しているのを確認してから、騎士団長は報告を終えようとする。
「では、私はこれで……」
「実験隊を出せ」
騎士団長は耳を疑った。
「……今、なんと?」
「実験隊を出せ、と言ったのだ。」
王の発言に、騎士団長は血相を変えた。
「ほ、本気ですか!?あのような得体のしれない連中を……」
「先の三人は全て実験隊が捕えたのだ。知らぬ訳ではあるまい」
騎士団長は反論する言葉を失い、口をつぐむ。
「一人でよい。お前の部下として自由に扱え」
騎士団長は拒否を示そうとするが、そんな権限が自分にはない事は分かっていた。
「……了解しました。して、誰にしましょう?」
王は満足げに小さく頷いた後、マントに覆われた手で顎に触れて考え込むような姿勢を取った後、その手を戻した。
「ベルジェにしろ。奴なら、お前もさほど苦には感じるまい」
王の見透かすような言葉に、騎士団長は息を呑んだ。
仮面越しの、見えるはずのない目に、有無を言わさぬ強いものを感じる。
対峙する者を屈服させる、本能に訴えかけるものが確かにそこにあり、騎士団長にはそれが自分を押しつぶしにかかるようにすら思えた。
「……お気遣い、感謝いたします」
従う事で、彼はようやく重責から解放された気がした。
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