第4話 信頼

 城下町に集まっていた多くの人々は、フライアとオデルの逃亡で生じた混乱、そして度重なる砲撃の音にすっかり正気を失い、それぞれが安全な場所を求めて逃げ惑っていた。

 その人ごみの激流の中で負傷した人々が、兵士の誘導で城の医務室に運ばれて来ていた。

 イアラは次々と訪れてくる患者にも動揺を見せることなく、「あらあら、こんなにたくさん」といつもの調子で対応していた。

 幸い打撲やかすり傷といったものばかりで、イアラの魔法が必要なほどの重傷者は、まだ運び込まれていない。


(それにしても、外の国からの侵略者、か……)


 イアラは窓から見える空を見つめ、心の中で呟いた。

 半分だけ開かれたその窓の隙間に、非常に視認しがたい透明な糸があった。それは壁を伝い謁見の間の窓へと続いているのだが、それに気付いている者は誰一人としていない。

 糸を使い、離れた場所の音を聞くことができるイアラの能力のことは、フライアはおろか、城の誰も知るところではない。

 穏やかで、捉えどころのない城の専属医。しかし彼女にも、混蟲メクスとしての悩みや葛藤があったのだ。


(これは、まだまだ私の仕事は終わりそうにないわねえ。むしろこれからが本番、か)


 イアラは膝にすり傷を負った子供の手当てをしながら、馴染みの混蟲たちの顔を思い浮かべる。糸から送られてくる情報は、今のところ不安を煽るようなものばかりだ。


(みんな。どうか、無茶はしないでね)


 祈りながら、イアラは目の前の子供の頭をそっと撫でた。







 エドヴァルドらが地下へ向かった直後、ラディムとフライアがちょうど城に到着した。

 混乱のただ中にある城下町を後目に、ラディムは城のテラスへと下り立った。テラスで待機していた兵士らの驚愕は相当なものだったらしく、二人を見てもしばらく言葉が出てこない。


「父は謁見の間ですか?」


 フライアが問うと、兵士らは呆けながら首を縦に振る。


「ありがとう」


 フライアの礼の言葉が彼らの耳に届く前に、既にラディムは駆けだしていた。どこに行っていたのか、なぜパレードの途中で逃げ出したのか――などと、質問責めに遭うのを避けたかったからだ。

 城内もかなりざわついていた。階下からは怒号に似た兵士の声と、いくつもの足音が絶え間なく聞こえてくる。

 ラディムは躊躇することなく欄干を踏み越え、吹き抜けを垂直に落下する。二階まで落ちた所で翅を動かし、走り回る兵士らの頭上を越え、謁見の間まで一直線に飛んだ。

 大きく開かれた扉の向こうには、二人の王が椅子に腰掛けることなく佇んでいた。王を囲う顔ぶれは、大臣などの役人達だった。そこから少しだけ離れ、少数の兵士らが緊張した面もちで彼らを見守っている。


「お父様!」


 フライアの声で、一気に視線が彼女へと集まる。それぞれが驚愕を顔に描いていた。

 フライアの白いはずのドレスは、今は地味なドレスへと変わっている。ノルベルトはその瞬間、全てを理解した。

 どのような言葉をまずかけるべきか、ノルベルトは悩んだのだろう。何拍か置いた後、ようやく瞬きをする。


「フライア。とりあえず無事で何よりだ」

「あの……ごめんなさい……。たくさんの方にご迷惑をおかけしてしまいました。でも、私たちにはちゃんと考えがあって――。ううん、今はそれよりも――」

「海を、見たのだな?」


 簡潔に問うノルベルトに、二人は黙したまま頷いた。


「あれはアルージェ国だ……」


 悲痛な声で答えたのはエニーナズだった。

 フライアもラディムも息を呑んだ。外れていて欲しい予想は、残念ながら当たっていた。

 しかしオデルの話では、レクブリックはアルージェに攻めいられるかもしれない――という段階だったはず。その国がレクブリックを越え、なぜテムスノーへと来ているのか。


「どうして……」

「私にもわからぬ。だが間違いなく、我らレクブリックの所為であろうな……」


 大変申し訳ない、とエニーナズは肩を落とした。


「わかっているのは、彼らは軍事大国の名に偽りのない、危険な存在だということだけだ」 

「エドヴァルドらは彼らを食い止めるため、既に地下に向かった」

「――!」


 得られる情報は驚愕するものばかりで、咄嗟に言葉を失う。

 フライアはラディムの顔を下から覗き見る。これを聞いて彼が黙っていられるわけがない。案の定、彼は強い決意を湛えた目をノルベルトに向けていた。


「俺も、行きます。……ここに来る前にフェンに会ったんです。既に彼らも下に向かっています」


 既に彼の返答はわかっていたのだろう。ノルベルトは目を伏せ、小さく「頼む」と告げた。

 ラディムが扱える魔法の豊富さは、ノルベルトの耳にも届いている。彼の能力は大きな力となるだろう。

 だが、フライアと共にラディムの成長を見守ってきたノルベルトとしては、とても複雑な胸中であった。フライアの心を救ってくれた彼に対して、既に実の息子のような感情さえ抱いていたのだ。交戦があるとわかっている場所に送り出すことは、本当は避けたい。しかし、そのような私情を挟んで良い立場にはない。


「お前には、負担ばかりをかけてすまぬな……」


 苦しげに吐かれたか細い言葉は、しかし確実にラディムの耳に届いていた。彼は穏やかな笑みを作った後、その場で片膝を下り、頭を下げる。


「俺を無条件に城に置いてくださったこと……ずっと感謝してきました。混蟲の俺の力が今、役に立てるのなら」


 何でもやる――。

 顔を上げたラディムの顔には、強い決意があった。

 ノルベルトは彼の心を受け取った。今はただ、無事に戻ってきてくれるのだと信じるほかなかった。


「そうだ。フェンが、応援の兵を地下に送って欲しいと言っていました」

「わかった。残っている者たちを送ろう。そしてフライアよ。お前はすぐに研究室に隠れるのだ。あそこなら早々に見つかることはないだろう」

「なっ……? なぜですかお父様!?」

「危険だからだ」

「だったら尚さら、魔法が扱える私が隠れるわけにはいきません。私も――」

「自惚れるな!」


 ノルベルトの叱責に、思わずフライアは肩をビクリと震わせる。

 それは、今までフライアが聞いたことのないノルベルトの声だった。雷鳴の如き鋭い声に、謁見の間はたちまち静寂に包まれる。


「お前が使える魔法は確かに便利であろう。だが、武器を持っている人間に真正面から対抗できるものか? それだけではない。お前は封印の魔法を一度扱うだけでほとんど動けなくなってしまうほどの体力、魔法力しかない。ラディムのように鍛錬を積んできていない、ただの非力な少女だ。そんなお前がこの状況で、本当に役に立てると言い切れるのか?」


 ノルベルトの言葉を受け、フライアの目を薄い膜が覆っていく。

 父の言う通りだった。フライアは体力もなければ、武器を持った人に対抗できるような魔法も扱えない。だからこそ、はっきりとそれを告げられて悔しかったのだ。

 混蟲なのに、役に立てない自分が。

 フライアは白く華奢な手を強く握りしめる。やり場のないやるせなさを、そこに閉じこめることしかフライアにはできなかった。



 ノルベルトは目を伏せる。口に出すことはできなかったが、フライアを隠すことにはもう一つ目的があった。

 フライアの体の中で保管している『紅の宝石』の存在を、アルージェ国に気付かれぬようにするためだ。

 千五百年前の遺産――。

 混蟲たちにとっては忌々しい存在でしかない、魔道士が作った記録媒体。

 だがそれは人間にとって、歴史的宝になることはまず間違いないだろう。

 混蟲が真の意味での『人間』を取り戻すには、紅の宝石に描かれている記録が何より重要だ。千年以上も守り続けてきたのだ。今さらここで失うわけにはいかない。


「……お父様は、どうされるのですか」


 おずおずと訪ねるフライアであったが、既に自分の立場を承知したのだろう。それ以上、異論は口にしなかった。


「お前の傍にいてやりたいのは山々だが、私はこの場から逃げるわけにはいかぬ」


 今まで、外の国からの侵攻を受けたことなどない国である。率先して戦の指揮を取る者がいない。

 本来ならば、それは兵士長であるフェンの仕事なのだろう。だが、現在彼は敵の侵攻を止めることを優先し、地下に向かっている。


「テムスノーの、王だからな」


 小さく笑みを浮かべるその顔は、既にいつもの穏やかさを取り戻していた。


「わかり……ました……」

「研究室までは、俺が付いていく」


 ラディムに促される形で、フライアは謁見の間を後にする。そんな二人を、その場に居た者たちは頭を下げて見送った。







 地下牢へ続く格子状の扉の鍵を、フライアは静かに回した。

 既に何度も研究室には行っているが、今日ほどこの薄暗い道が、不気味に見えたことはない。そんなフライアの心を察したかのように、ラディムが口を開いた。


「俺はフライアの扱える魔法が少ないことに、正直安堵している」

「え……?」

「人を傷つけるような魔法は、やっぱりお前には似合わねえよ。まぁ仮に使えても、自分で自分の頭を爆発させそうだしな?」


 軽口に、ようやくフライアは小さく笑った。もう、薄暗い道は怖くなかった。『いつもの』道だ。

 研究室に着いてすぐ、ラディムは部屋のランプの火を点けて回る。闇に包まれていた部屋は、夕日色に照り映えた。

 二人の大きな影がゆらめく中、ラディムはフライアの頬を両手で挟んだ。フライアは思わず悲鳴を上げそうになってしまった。

 だって、この体勢は、もしかして――。

 脳内に描いた想像を必死で振り払う。こんな時に、こんな気持ちになってしまうことが酷く後ろめたい。

 だがラディムの表情は、どこまでも真剣だった。あぁ、勘違いをしてしまったと、フライアの心はまたチクリと痛んだ。


「フライア、俺の目を見ろ」


 薄紅色の目と、コバルトブルーの目が、互いに引き寄せられるかのように交差する。

 ラディムの目は『全部』きれいだとフライアは思う。空のように澄んだ色。そしてもう一つの目は、今はランプの色を受けてオレンジ色に染まっている。

 初めて会った時、ラディムの複眼はアクアマリンのようだった。宝石みたいだと思った。心からきれいだと感じた。それを伝えたら、彼の目からは涙が出てきてしまったけれど。

 なぜか、フライアは泣きそうになってしまった。

 どうして今、昔のことを思い出してしまうのだろう。でも、奥歯をグッと噛んで堪える。きっと今泣いたら、また「泣き虫」だとからかわれてしまうだろうから。


「……守るから」


 フライアも、この国も。

 傷つくのも、傷つけるのも、全てお前の代わりに背負うから。

 だから――。


「だからここで、おとなしく良い子で待ってろ。俺を、信じろ」


 溢れる思いは、きっと全て言葉には出せなかった。それでも、フライアは彼の心の声を汲み取った。


「『良い子』だなんて。私、もうそんなふうに言われる年齢じゃない」


 まだ小さいかもしれないけれど、ちゃんと大きくなってるんだから――と、フライアは自分の手を軽く胸に当てて見せた。そこで頬を赤く染め、顔を逸らすラディムの反応は折り込み済みだった。おまけとばかりに、いたずらっぽく笑ってみせる。きっと複眼で見えているだろうから。

 あぁもう、と少し悔しそうに頭を掻くラディムに、フライアは笑顔のまま告げる。


「でも、待ってるよ。信じてるから」

「……良い子・・・だ」


 紫紺の髪をくしゃりと撫でてから、ラディムはフライアに背を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る