人生は上々だ

グスタフ・ヤノーホが自分自身が青年期だった頃に晩年のカフカと交際した記録を綴った『カフカとの対話』という書物がある。そこから戯れに引いてみる――「人は自分自身から逃れることはできない。これが運命です。ゆるされた唯一の可能性は、見物人となって、弄ばれているのがわれわれだということを忘れることにあるのです」……そういうものなのだろうか。何度も何度も読み返したせいで表紙がボロボロになってしまった『カフカとの対話』を眺めながら彼はそう考える。カフカ自身がユーモアのセンスを備えていたことがあのような作品を生み出したのだ、と考えてみる。


もう本は買わないと決めたはずなのだけれど、彼は三冊本を買った。島崎藤村『藤村詩抄』『藤村随筆集』そして太宰治『走れメロス』……藤村の詩は甘くて、普段ならこんな甘ったるい詩なんて受け容れられないはずなのに今の彼には七五調のリズムもあってか心地良く入って来た。これも恋なのだろうか……それを女友達にメールしたら「そうかもね。」と六文字の返信が帰って来たのでまた彼は恥じ入りたい気持ちになったのだ。ともあれ彼からはそれ以上詫びのメールを入れていない。『恋する惑星』を観てからまたなにかあれば書こうかなと思っている。


例えば太宰治『ダス・ゲマイネ』に登場する冒頭のフレーズ。「恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった」……その言葉が彼を戸惑わせる。太宰と言えば『晩年』から読み始めないといけないという強迫観念があった彼は、その『晩年』が読めなくてだから太宰を読めていないのだけれど、新潮文庫版の『走れメロス』を買いそこから太宰に入ろうと思うようになった。「女生徒」を読みたかったのだけれど他にも面白い短篇が乗っているようなので、読むのが楽しみだ。藤村をそして太宰を読めるということはまた、彼の中で変化が起こったのだろう。


彼は自分の中で変化が起こりつつあるのを感じる。結局彼は「自分自身から逃れることはできない」。だというのであれば彼は「見物人となって」彼自身を観察するしかない。それがこのテクストということになるのだけれど、彼は何処まで自分自身を観察しているのかについて考えてしまう。彼の身に起きたことを、彼ではない人間として観察すること――なかなか難しい問いだ。ともあれ彼は彼の身に起きたこと、考えていることを描写し始める。描写し始めると次々と変化していく事象を捉えにくくなるのだけれお、それでも彼はそういう営みを止めようとしない。


刻一刻と変わり続ける自分、「恋する男」としての自分の変化を微細に描き切ろうとすること。例えば今日彼は島崎藤村の詩を読めるなんて思ってもいなかった。どんな言葉も受けつけない精神状態で、藤村の詩だけは例外的に読めたのだ――どんな時にもそんな心情を代弁してくれる言葉というものはあるものだな、と彼は思う。だとすれば彼はまだ絶望するには早過ぎる。結局一生を棒に振るとしても、彼は彼の心情にフィットする言葉を探したい。例えば活字が読めなくてしょうがなかった去年の夏にたまたまカフカや高橋源一郎『虹の彼方に』を読んでハマったような経験をまた味わいたい。彼はマラルメとは違う。まだ読めていない本は沢山ある。


彼女のことを考える。彼女はどんな本を読んでいるのだろう? 彼女自身は早熟な読書家だったと聞くが……例えばポール・オースターは読んでいるだろうか? 彼は読書量を誇れるような人間ではないのだけれど、例えば『ガラスの街』(再読が必要だが)について彼女はどう考えるのか知りたいと思う。彼女は彼女の個性、という言い方が不適当だとしたら批評眼を以て彼に言葉を語ってくれるだろう。そうして語り合いたいと思う。サイレント・ポエツの歌詞が身に沁みる。「In The End Our Talk Is Toy」……結局言葉はオモチャなのだろう、そのオモチャを自由自在に使いこなしたいと彼は叶わぬ夢を見ることになる。


彼の気持ちは既に来月にお会い出来る(かもしれない)彼女のことで一杯だ。「未来はねえ 明るいって」……ここでまたフィッシュマンズを持ち出すのは我ながらどうかしていると思いつつ、しかしそれが彼という人間だから止めることが出来ない。古本屋で買った件の藤村の『藤村詩抄』を読みながら、ふと島崎藤村をきちんと読んでみるのも悪くはないかなと思っている。『破戒』程度なら読んだことがあったのだが、この機会に『夜明け前』まで読み進めてしまいたいなと思ってしまっている。むろん頭の中に入るかどうかは心許ないが、やってみようと思う。


恋する人(?)とお会い出来ないという苦しみ……それを浄化しようと思って(あるいは逆に病をこじらせているだけなのかもしれないのだけれど)彼は藤村や太宰を読み、そしてこの文章を書き続けているのだった。滑稽なことだろうか? 社交辞令を言われるまでもなく、彼は自分の書いているものに満足出来ていない。巧い作家の面白い作品ならカクヨムにも幾つも転がっている。彼が書きたいのはそんなスマートな「小説」ではない。高橋源一郎が阿部和重との対談で語っているように、「文学」に似ていない「小説」を探している。これが、出来栄えはどうであれそういう「文学」に似ていない作品であれば良いなと思っている。


これを書いているのは午前四時半。ふと目が覚めて、パソコンの電源を入れてから小説(?)を書いていないことに気がついたので書いているのだった。これからもう少し寝ないといけない。藤村の詩を暫くは読むことになりそうだ。あとは池澤夏樹編集『日本文学全集』で「近現代詩歌」を借りて読むとか……甘い詩が今の彼の中に入って来るというのは彼にとっての変化なのかどうか? ここで問いは堂々巡りを始める。書くことが自分の混沌を整理するプロセスだというのであれば、彼は混沌の中に溺れてしまわないように、混沌の中で自分を見失わないようにするのに精一杯だ。この「感じ」……そこで彼は千葉雅也氏の次のような言葉を思い出す。

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