センチメンタル


彼は自分の中に感情というものがあるような気がしない。感情というもの……いや、ないわけではないのだろう。あると言えばある。怒り、悲しみ、喜び……ただどんな感情も結局は一時的な痛み――あるいは蚊に刺されたような痒み――にも似た他愛のないものとして処理してしまう。だから残存するのはぼんやりとした、この世の中全体に対する憎悪だ。例えば黒沢清『CURE』に登場する間宮のような……自分というものが酷く空疎に出来上がっているような気がしてならない。彼はあるいは生きていること自体が苦痛なのかもしれないし徒労なのかもしれないのだけれど、それを自分で掴めているとは言い難い。


彼は時々「疲れてる?」「しんどそう」「頑張ってるね」と言われる。そうなのだろうか? 苦しいのだろうか。そういうわけではないのだけれど……どちらかと言えば他人からそういう言葉を貰うことの方が――むろん、労いの意味があることは分かっているのだが――彼は疲れてしまう。その言葉に依って彼は初めて「自分が疲れているのかもしれない」ことを考えてしまうのだ。そうすると、突然自然な呼吸が出来なくなるように苦しくなる。だから顔に苦痛を出さないように気をつけているのだけれど、彼の佇まいは彼より正直なのかもしれない(あるいは、彼より饒舌なのかもしれない)。


前にも書いただろうか? 外部から与えられたモノを取り入れて、それを咀嚼して吐き出すだけのこと……彼が書いているものも生きていることも、突き詰めて言えばそういう素材を提供するためなのだろうと思う。おかしな言い方になるが、ある種の職人として……クリエイティヴィティ/独創性というものをなんら持たない、コピーのコピーのそのまたコピーのようなものを産み出すために存在するだけの人間。そういう人間は突き詰めて言えば自我がないということにも通じるのだろう。自我、つまりプライド……自我があってこそ生じるプライドが、それ故に彼には存在しないのだ。


彼は「ある種、内面が空白のような部分がおありだなあと感じることがあります」と言われたことがある。「空白」……自分というものを追い求めて行けばしかし何処にたどり着くというのだろう? 何処にも行けないのではないか……外部に自分が偏在するという考え方を彼は(何故か)採らない。自分自身は自分の例えば脳内や心臓や……といった場所にあるのだ、と考える。極端に言えばそれは点として存在するのではないか、とも。自分は確かにここに居る。彼はそう考える。だけれど、それは恐らく世界の側が彼に働き掛けて来るから(話し掛けて来るから、書いて来るから、送ってくるから云々)生まれるのであって、森羅万象がない場所で自分が居ることを彼は考えられない。


彼は良く「変わっている」と言われる。「変人」である、と。もっと言えば「個性的」だとか、酷い表現も様々……彼女と出会ったのは発達障害当事者と家族の会(もっとユニークな名前があるのだが、流石に明かすわけにはいかない)でだったのだけれど、彼女の佇まいに惹かれたのは多分彼女が「変わっている」からだったのだろう、と思う。伸び伸びとしていた、と語ると彼女に失礼だろうか。彼女もまた彼のように「変わっている」と言われもっと酷い表現を投げ掛けられたのだろうと思う。彼が彼でなくなりたいと思うのと同様の、こんな「空白」の自分をどうにかしたいという(丸ごとイニシャライズしてしまいたいという)思いを抱いているのかもしれない。


でも、と思う。そうなってしまったら/彼女が彼女でなくなってしまったとしたら、一体なにが起こるのだろうか。とどのつまりそこからは、前にも書いたかもしれない掛け替えのない「一個の宇宙」が消滅してしまうことを意味するのではないか。彼女がそのままそこに居てくれるだけで世界は神秘的だとさえ思わせるような、独特のオーラを持つ存在が消えてしまうことではないか、と(誰もが知ることだろうが、世界は神秘的なものが存在するから素晴らしいのではない。世界それ自体が神秘的で素晴らしいものなのだ)。


彼は彼が「変わっている」とは思わないし(周囲の方が理解不能だ)、それどころか「彼自身がそこに居る」とも思わないのでそこにくっきりとした存在感を備えた彼女が居ることの重みを感じる。彼自身が誰かにとってそんな風な人間であるのだろうか、ということをも考える。彼は色恋沙汰らしきものに巻き込まれたこともあるのだが――それは女性からの一方的な幻影の投影に過ぎず、彼はどれほどの痛痒も感じずそれどころかそんな心理を誰かから寄せられることの意味をも感じなかった――今回のような経験は慣れていない。ただそこに居るだけで尊い誰かを思う……これが恋なのだろうか?


彼の書くものが堂々巡りをしていることを彼は自覚している。気分を切り替えて是枝裕和『空気人形』を観るつもりだったのだけれど、それも遂に出来なかった。このような心理状態は、しかしいずれ終わるものなのだろう……いや、彼は一体幾つになったと言うのだろうか? だが彼と同い年の女友達は、それを自然なものであると語る。幾つになっても変わることがない感情……そうなのかどうなのか、それは彼には分からない。だが、ともあれこの感情を持つことの辛さ(この感情が「辛さ」をもたらすものであることは彼も認めざるを得ない)を抱え込みつつ、日々を暮らさねばならない。


もう一度、己に向かって問い直す。これは恋なのだろうか? それとも、病理の一種に過ぎないのだろうか? 分からない。分からない……なんなのだろう? 「あなたに分からないのなら私にも分からない」と、二度目にこんな感情を抱いたことを伝えた相手は語ったのだが……今度の彼女はそれを整理してくれるのだろうか? 理知的に、そして明確に……。

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