Synchronicity
油照り、というのだろう。じりじりと焦がされて行くような苦しみ……一滴の水分すら補給し得ない状況に置かれているような感覚……今日は彼はサミュエル・ベケットの本を図書館で借りたのだけれど、読みながら活字が全然頭に入らなくて同じ日に残雪の小説を読みたくなって、読み進めた。すると何故か安部公房の小説を無性に読みたくなって、未だ読んだことがなかった『砂の女』を買い求めたのだった。そうしたらポール・オースター『ガラスの街』を読みたくなってしまい、これは図書館で借りて両者を併読する内に『ガラスの街』の主人公の孤独な佇まいに惹かれて彼の行動を追い求めることになってしまった。その後仕事の始業時間が来たので仕事に入った。
意識を止めたいと思うことがある。眠りだけが意識を止める唯一の手段だとするならば、この世はなんと残酷に出来ていることなのだろう。頭の中でひしめき合う観念……それは厳密に言えば眠りの中でも続いており夢として現れるわけだが、だというのであるならば意識は止められないものだと語るしかなくなる。止められない無限運動が続く意識を唯一止める方法があるとするなら、それは死ぬこと、あるいはその死のギリギリの地点まで意識を追い詰めてしまうことなのだろう。彼はそんな試みを三度行ったことがある。世間で言われるところの「オーヴァードーズ」というやつだ。三度……三度目は胃洗浄まで行ったというが全く記憶に残っていない。
頭の中が弾け飛ぶような体験……それを彼は三度味わった。三度だ。それはきっと人よりも多いのだろう。時間もなにもかもスキップしてしまうような体験……多分盤面に傷をつけて音を飛ばせて実験的な音楽を作るミュージシャンの気散じにも似た、戯れとしての自己破壊。彼はリストカットを行ったことは一度もない。自分の腕から血が流れるのを彼は正視出来ない。その程度の繊細さなら持ち合わせている。あるいはそれは臆病さなのかもしれないのだが、リスカに依って生まれるアドレナリンの快感といったものが彼には想像出来ない。そんなエミネムのリリックのような出来事がこの世にあるのだろうか、と沈思黙考する。
だから、強いて言うならば本を読むことは他人が産み出した思考のリズムに自分の思考のリズムをシンクロさせて行くことに依って、自分の思考を他者と同調させて意識を飛ばす――それは「フロー状態」と呼ばれるものなのかもしれないが――ことなのだと彼は考える。突き詰めて言えば、思考停止にも似た稼働。彼はそのようにしてこれまで他者の思考に自分を同調させて、他者の思考に憑依されて自己を放擲することを繰り返して来た。映画にも音楽にも感じられない快感……思考が織り成すものを伝える最も簡便な手段が言葉だとするのであれば、それは紛れもなく本だけが味あわせてくれるものなのだと思う。
彼女の話をした方が良いのかもしれない。彼女のことを好きになった理由、「特別な感情」を抱いてしまった理由が他でもなく彼女の言葉遣いだったと言えば、それは幼稚に過ぎるだろうか。不自然な敬語、しかし言い淀みのないソリッドな言葉。思考に例えばレコードの盤面の一分間の回転数を意味する BPM というものがあるのだとしたら、彼の 33 回転の思考と比べて彼女の 45 回転の思考はテンポが良く、次々と溢れ出て来る言葉にすっかり彼は魅了されてしまったのだった。言葉が棒のように語り連ねられる……というのはマックス・ブロートがフランツ・カフカを評して語った言葉だと聞くが、そんな感覚を彼も感じたのだ
彼女の言葉の歯切れの良さ……裏返せば(おかしな表現になるが)彼は彼女の言葉しか見ていない。彼は彼女を正視出来なかったのだから、彼女が彼好みのルックスなのかどうかさえ彼には分からない。そのようなものは、と彼は思う……淀みない言葉の魅力の前では、彼女がどのような姿態であろうと別に構わないではないか、と。それが重要なことなのだろうか。ルックスを重視するだけが「特別な感情」あるいは恋の必要条件ではあるまい。彼は彼女の佇まいのことを思う。白いブラウス。スカートの色までは忘れた。正座して、じっとメモを取りながら思いついたことを淡々と整理して行くその素振り/口振り……それが「特別な感情」を産み出すに充分な条件でないとしたら、一体なにが充分な条件だと言うのだろう。
彼は彼女と直接語らったことはない。以前にも書いたがスティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』を渡した時に少し喋った程度だ。本を渡し、彼らしくない早口な口調で「読みたくなければ読まなくても良いから」と押しつけるようにして渡した、というのが彼が記憶するファースト・コンタクトだ。そのやり取りの中だけに既に彼は彼の下心を含ませる思惑があったわけだが、彼はそれだけのこと、つまり「本を貸す」ということだけの中に彼なりになにかを伝えられたらという思いを込めていたわけだ。それが伝わったのかどうかは彼女に訊くしかない。
彼女に会えるのがあと八日後……八日。その日々を油照りの思いで過ごさねばならないことは既に書いた通りだ。一体人は、恋の病(?)の中でどれだけのアルコールを摂取するのだろう。気散じとしてのお手軽なオーヴァードーズ……彼には諸事情がありそれも禁じられている。だから残された手段はスマホを開いて SNS を眺めたり、毛繕い的なやり取りをしたり(「宮迫博之のことどう思う?」といった、リアルとは無縁の話題だ)、せいぜいその程度だ。彼は興味が無いせいでテレビも見ないし漫画も読まないので、そんなことだけでしか人とコミュニケート出来ない。
世の中にはあらゆる情報が溢れている。あらゆる……しかし、人の経験知に依って出来上がった理屈はなかなか情報として流通しない。口当たりの良いサクセス・ストーリーや自己啓発本の類の中に溢れ出してしまい、それよりももっと肝腎なことは文学の中に埋もれてしまう……ここまで書いて、ポール・オースターと安部公房の共通の主題である「失踪」というキーワードについてなにも語っていなかったことに気づくのだった。次に書ける時が来れば、そのことについて書くかもしれない。それまでに安部公房『燃えつきた地図』を読まなければ……。
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