There She Goes

踊る猫

恋する男

彼、の話をしよう。


と書いて、何故この文章は「彼」という三人称で書かれなければならないのかを考える。彼、でなくても良いのだ。「彼」でない人間……例えばヨーゼフ・Kやグレゴール・ザムザ、ムルソー、竹原秋幸、あるいは――「彼、の話をしよう」と書いたこの一文の書き手が想定している――阿部和重『アメリカの夜』の小説の主人公の中山唯生。そういった名前を持つ書き手であっても良いわけだ。なんなら「私」でも……だが、この文章の書き手は「彼」という三人称で語ることを欲している。「私」であってはならない。その理由は「彼」、「私」、あるいはこの文章の書き手にさえも分からない。


「彼」と呼ばれるのであるならば、当然のことながら肉体的には男か女かどうかを問わず、精神的には「男」であるべきである。あるいは、そうあるはずである……「彼」がそう呼ばれることを喜ぶかどうかは別として/もしくはそう呼ばれることが相応しいかどうかは問わず。兎に角この文章の書き手は、主人公を「彼」と呼ぶことを望む。そして、これから書き連ねられることは「彼」に纏わる何事かであるはずである。小説とはそういう風にして始められなければならない。


……と書いて、ここでまた逡巡する。「彼」は、あるいは「私」は(もしくは端的にこの文章の書き手は)「小説とはそういう風にして始められなければならない」と書いた。ということなのであればこれから繰り広げられることは「小説」なのだろうか。だというのであれば、それはどういう定義においてだろうか。さほど「小説」というものを読んだこともなく、ましてや読んだ量より遥かに少ない量の「小説」と思われる文章しか書いたこともない「彼」(や「私」や……etc.)の書く、ざっくり言えば「この文章」は、「小説」と呼ばれるに相応しいのだろうか。


だが、ともあれ書き始められたものは書かれなければならない。あらゆる書き手は恐らくこのような、一見すると斬新なようでありながら実は単に極めて陳腐でしかあり得ない問いを軽々と乗り越えて、書き進めて行くのだろう。「小説」を……彼には(もう「彼」という言葉をめぐるグルグルとした問いは繰り返すまい)そのような問いを追及するだけの根気はないし、またそれだけの教養もない。彼はサミュエル・ベケットでもなければフランツ・カフカでもない。あるいは松浦寿輝や丹生谷貴志でも、ポール・オースターでも後藤明生でも、誰でも良いわけだが数多と居る、「小説」と「小説」でないものの境界線の上に立つ書き手でもあり得ない。彼は彼である。それだけは確かだ。


さて、今日起こったことを彼の視点から書くことにしよう。彼は午前中はピザトーストを食べた。そして午後に思いつく様々な本を手に取った。大西巨人『神聖喜劇』、フランツ・カフカ『変身』、スタニスワフ・レム『ソラリス』、テッド・チャン『あなたの人生の物語』、ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』……今の彼のような人物、差し当たっては佐野元春の歌の題名を借りれば「恋する男」のような人物、にも関わらずそれを――それが「恋」と呼ばれるべきものかどうかは後日また考えよう――伝えられない人物、だからあらゆる活字が頭に入らないで苦しむ人物には「それまで読んだことがないような作品が頭の中に入るのではないか」と薦められたからである。だから食わず嫌いで済ませていた SF を手に取り、ページを繰った……ページを繰るだけで終わってしまった。


それにも飽きたので LINE で知人とやり取りをしている内に「リアルで会わないか」という話になり、緊急にリアルで相互に話すことになった。彼が、彼の言葉を使えば「特別な感情」と呼んでいる感情、恐らくは「恋」と呼ばれるだろう感情の話をすると彼の相手は、「『恋する男』においてそうしたことは当然のことではないか」と語ったのだった。「恋する男」?……なにはともあれ「特別な感情」の持ち主は、その「特別な感情」を否定しようとするのではなく、受け容れて、それを楽しむようにと言われたのだった。


楽しんでやり過ごそう……ラカンやジジェクに明るくない彼は「それは『享楽』なのだろうか」とこれまた陳腐な問いを思いついてしまったわけだが――村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』的なフレーズを使えば「踊り続けるんだ」と表現すべきだろうか? そんな心理の最中であっても――ともあれ(この「ともあれ」という言葉が頻出していることに読み手が嫌気が差していることは、駄文の最初の読み手である彼が一番良く分かっているが他に語彙がないのだ)その苦悩や焦燥、あるいはそれらを産み出す根源である「特別な感情」をエンジョイすることを薦められたわけだ。そして、言われたのだ。「『小説』を書いてみたら?」と。


青木新門という人物の言葉を思い出した。「人は自分と同じ体験をし、自分より少し前へ進んだ人が最も頼りとなる」……それで、「特別な感情」を体験した人、「少し前へ進んだ人」である彼の職場の先輩に仕事中に雑談としてこの出来事を語った時に(むろん、彼はこんなに巧く全てを説明したわけではなく拙く語ったに過ぎないが)、「兎に角その体験を楽しもうよ」と答えられたのだった。「先輩」としてのアドヴァイス……そして、彼は「『小説』を書いてみようかと思っている」と語ったのだ。そしたら「書いてみたら?」と同じ答えを与えられた。


「書いてみたら?」……というわけで、「彼」が取り敢えず書いているのがその産物である。ここまでの流れを読み直して、やはり、と思ってしまう。彼は……「これは『小説』か否か?」と。この文章を書かれるのが「彼」であるのか、この文章が「小説」なのか、この「特別な感情」が「恋」なのか。三種類の問いが残ることになる。この問いに取り敢えず留保の念を抱き続けること。この文章の書き手はそれをこそ、この文章の読み手であるあなたに対する最大の誠実さとしての枷として引き受けることにしよう。それに対する留保。もしかしたらこれから書く「彼女」の話が、そうした留保への返答となるのかもしれないし、ならないのかもしれない。

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