広島・島根紀行

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第1話 一日目 広島

 目が覚めると夜が明けていた。私が乗っている夜行バスはバスタ新宿発広島駅南口行だ。夜行バスに乗ったのは初めてであったが、乗り場がわかりやすく助かった。バスタ新宿のおかげである。もしも以前の分散していた乗り場であったら、迷っていただろう。座席は隣とある程度仕切られていて、光避けのフードが付いている。夜行列車の座席よりも設備は良い。しかし、流石に乗車時間十二時間超は堪えた。

 今回の旅は広島県と島根県を巡る。主軸に三江線乗りつぶしを置きつつ、観光も取り入れたプランの予定だ。

 2017年5月29日、午前8時30分。予定よりも二十分ほど早く広島駅前に着いた。広島に来るのは2013年以来である。原爆ドームとか平和記念公園とか厳島神社とかは見たので、今回は行かないことにしている。

 広島駅から予定よりも一本早い電車に乗れた。8時41分発の可部線あき亀山行は新型の車両である。前回来たときは国鉄時代の古い電車ばかりだったので、格段の進歩に思える。思っていたよりも乗客が多く、座ることは叶わなかった。

 可部線は二面性を持っている。否、持っていた、と評すべきであろう。可部線は元々私鉄が可部まで営業していた路線を国が買収したのが始まりである。飯田線や南武線と同じ経緯だ。可部までは当初より電化されていた。その後、国鉄が三段峡まで延伸する。こちらは非電化であった。計画では浜田まで延伸するつもりであったが、国鉄の経営悪化や分割民営化で叶わず、可部~三段峡は2003年に廃線となってしまった。

 普通ならそれでおしまい、残念だけど仕方がないね、めでたくなしめでたくなしになるのだが、可部線の場合は違った。可部の一つ隣であった河戸駅の周辺の人口が多く、元々そこまでの電化案があった。廃線時にも電化工事費用が地元負担であればJR西日本は存続させるとしており、また地元の市民活動も活発であった。2011年に広島市は復活させることを表明。その後も踏切の問題などがあり、何度か開業が延期されたが、2017年3月のダイヤ改正に合わせて河戸改めあき亀山まで延伸したのであった。

 広島は三角州の街だ。分流した太田川を何度も渡り、横川8時46分着。ここで山陽本線と分岐し、可部線に入る。単線のため、交換の為に四分停車。8時50分に発車した。

 駅を出るとすぐに太田川の放水路を渡り、線路は上流に向けて北上を始める。市街地を行くこと二十分弱、大町に着く。大町は新交通システムのアストラムラインとの接続駅だ。頭上をコンクリート橋が跨いでいる。まだアストラムラインには乗ったことが無い。乗りたいものだが、今回はお預けである。

 広島を出た頃と比べてすっかり空いた列車は、徐々に狭まってきた平野を更に北上する。前述したとおり、可部線は元々私鉄だったため、駅間距離が比較的短い。発車してはすぐに止まる。左手に山が迫ってきているが、この辺りが2014年の豪雨による土砂災害で甚大な被害を出した地域である。

 9時27分、可部着。ここからが復活区間になる。車窓には住宅街が広がり、確かに需要はあるだろうな、といった印象を受けるが、平日の昼間なだけに乗客はほとんどいない。可部の次は河戸帆待川で、これは復活の際に新設された駅である。踏切を渡り、9時32分に終点あき亀山に着いた。あき亀山まで乗っていたのはせいぜい十人もいなかったと思う。自分と同じ目的と思われる人が目についた。

 あき亀山駅は一面二線の島式ホームと三本の側線を持つ。ホームから外へは側線の外側を地上通路で繋いでいる為、端頭式のような雰囲気を感じた。駅舎は真新しいが、当初から無人駅を想定したもののようで、切符の自動販売機が一台だけ置かれているのに寂しさを覚えた。駅から太田川の上流方向を見ると山が迫ってきており、市街地の端であるのだと思わされた。

 往路と同じ電車に乗って広島に戻る。あき亀山発9時43分。行きとは逆に、乗客が増えていく。広島着10時25分。

 次は呉観光に向かう。次の呉線は10時30分発の快速安芸路ライナーだ。車両は可部線と同じ新型だった。座席は埋まっていたが、補助席が使えたのでそこに座る。ドアの窓から車窓が見られるので、座面が固いことを除けば申し分無い。

 広島を出ると、右手にJR貨物の広島機関区が広がる。ここから山陽本線で東に六駅行くと、大山峠にさしかかる。駅間で言うと瀬野と八本松の間で、この区間は山陽本線の中では最大の難所である。貨物列車には登坂が難しい勾配であり、広島機関区にはその区間で後ろから押し上げる機関車が配置されている。関東では見ることができないだけに、私からしてみれば珍しいものだ。写真に撮る時間は取れなかったが、目には焼き付けておいた。

 安芸路ライナーの最初の停車駅は海田市である。ここで山陽本線から呉線に分岐する。しかし、広島から離れた駅で分岐する路線が多い。長い間、呉線は広島から分岐していると思い込んでいた。

 海田市を出ると、陸上自衛隊の駐屯地をかすめて海に向かう。坂という簡素な名前の駅を過ぎると、右手に海が広がった。瀬戸内海には馴染みが無いが、海を見ていると否応にも島が目に映るのが太平洋や日本海ではないことを感じさせる。その中でも一際大きいのが江田島だ。江田島は明治に海軍兵学校が置かれて以来、海軍・海上自衛隊の教育現場として知られている。現在は海上自衛隊の第1術科学校と幹部候補生学校がある。一部は見学出来るそうなので、そのうち見に行ってみたいものだ。

 呉には11時04分に着いた。これから観光のターンである。今回の呉観光の軸は、「大和ミュージアム」と「てつのくじら館」に置いている。まずはてつのくじら館に向かうが、その前に呉中央桟橋ターミナルに向かった。「呉艦船巡り」という港内のクルーズのチケットを買おう思ったのだが、いざターミナルに着いてみると平日は12時便が欠航で、13時便のチケットは12時半からの発売であった。その時間にまた来ることにして、今度こそてつのくじら館に向かう。

 ターミナルとてつのくじら館の間に大和ミュージアムがあり、屋外展示である戦艦陸奥の主砲やスクリューなどが見られる。陸奥は1943年に呉沖合の柱島泊地にて謎の爆沈を遂げており、現在展示されているのは戦後の引き揚げ調査で回収されたものである。陸奥の主砲はここ以外にも横須賀のヴェルニー公園などにも展示されている。

 そこから正面を向くと目に飛び込んでくるのは潜水艦の巨体だ。てつのくじら館、正式名称「海上自衛隊呉資料館」の「てつのくじら」はこの潜水艦のことだ。これは元々海上自衛隊で実際に運用されていた潜水艦「あきしお」を退役後に展示用にしたものである。海上に浮かんでいる潜水艦は幾度も見たことがあるが、全容を見ると改めてその大きさを実感させられる。

 てつのくじら館は三階建てになっており、一階が海上自衛隊の歴史、二階が機雷掃海、三階が潜水艦についての展示となっている。潜水艦はともかく、掃海はそうそう話題に上らない分野であるから、興味深い。

 そもそも海上自衛隊の歴史を遡ると、旧海軍から海上保安庁を経た掃海部隊が基礎の一つにある。太平洋戦争末期に日本近海にばらまかれた機雷は未だに残っており、現在でも時折発見されるという。二階の展示室には機雷の模型の他に、その除去をする掃海艇、掃海艦の装備も展示されていた。それらは掃海艇で実際に使用されていたものである。以前、一般公開されていた掃海艦「はちじょう」を見学した際にはどう使うのかよくわからなかったものが、ようやく理解出来た。

 三階の潜水艦に関する展示では、海上自衛隊創設以来の潜水艦の模型や、艦内のモックアップなどがある。ヘッドホンで音を聞き、何の音か当てるゲームが興味深かった。普段、本でソナーマンの話を読んでいてもいまいちイメージが湧きにくいが、実際の音はこんな感じなのか、と実感できる。

 その先にはさっき外から見た潜水艦があり、中に入ることができる。展示品とはいえ、実物の中に入るのは初めてだ。本物かどうかはわからないが、機器類もちゃんとある。操舵室には潜望鏡が二本あり、覗くと呉港に停泊する巡視船が見えた。

 てつのくじら館を出ると艦船巡りのチケットを買うのに丁度良い時間になっていた。再び大和ミュージアムの前を通り、ターミナルへ。チケットを買ってしばらく待っていると乗船手続きが始まった。

 桟橋からは手前の貨物船が壁となっている。松山行と記憶しているフェリーが出港した後、艦船巡りの船も出港した。

 貨物船を通り過ぎると灰色の艦船が見えてくる。この時は水上艦が九隻、潜水艦が八隻いた。最も手前に泊まっているのが練習艦「せとゆき」と掃海母艦「ぶんご」である。

 せとゆきは元々はつゆき型護衛艦の十番艦として就役したが、旧式化に伴って2012年に練習艦へ種別変更された。練習艦とは、士官教育での遠洋航海に用いる為の艦船で、現在海上自衛隊にはせとゆきの他に「かしま」「しまゆき」「やまゆき」がある。しまゆきとやまゆきはせとゆきと同様にはつゆき型護衛艦からの転用であるが、かしまは練習艦として建造されたものだ。

 ぶんごは前述の通り掃海母艦である。掃海母艦とは、てつのくじら館の展示にもあった掃海艇、掃海艦の支援をする艦艇だ。掃海艇や掃海艦は護衛艦ほど大きな船体ではないため、長距離の航行や作戦を単独で行うのは困難だ。そのような時に前線で物資補給や掃海艇、掃海艦の乗組員の休憩場所になるのが掃海母艦である。ぶんごはうらが型掃海母艦の二番艦であり、掃海母艦としての役割以外にも機雷敷設艦としての能力も兼ね備えている。艦尾のハッチがそれで、そこから機雷を敷設するそうだ。うらがは横須賀配備であるので何度も見たことがあるが、ぶんごは初めてであった。

 桟橋を挟んで向かいに停泊しているのは護衛艦「うみぎり」と練習艦「やまゆき」である。うみぎりはあさぎり型護衛艦の八番艦である。あさぎり型護衛艦ははつゆき型護衛艦の発展系で、ヘリコプター格納庫が拡大しているのが特徴だ。護衛艦の発達途上に当たる艦であるため色々言われることが多いが、私ははつゆき型やあさぎり型も好きである。一番はあきづき型だが。

 それらの隣の桟橋に目を向けると、目に映るのは一際大きな艦だ。全通甲板を持ち、一見すると空母の様、いや実際にヘリ空母と呼びたくなるいずも型護衛艦二番艦の「かが」である。かがは2017年3月に就役したばかりの最新鋭艦で、見るのは二度目だ。前回見たのは二月でまだ艤装中だったので、艦籍を得てからは初めてである。一番艦いずもは見学もしたことがあるので目新しいというわけでもないが、全長248mには圧倒される。海上自衛隊の保有する艦船の内でも最大だ。艦尾のSeaRAMと呼ばれる対空ミサイルがよく見えた。

 桟橋の向かいには護衛艦「いなづま」と護衛艦「あぶくま」である。いなづまはむらさめ型護衛艦の五番艦である。むらさめ型は現在の汎用護衛艦の基礎となっており、護衛艦隊のワークホースと言える。準同型艦のたかなみ型まで合わせれば計十四隻で珍しいというほどのものでもないが、呉配備だとなかなか見られないもので、いなづまを見るのも初めてであった。どうしても差が出てしまうものである。

あぶくまはあぶくま型護衛艦の一番艦である。あぶくま型はあさぎり型やむらさめ型と比べて小型で、当初から沿岸海域での運用を前提としている。見たことがなかったわけではないが、あぶくま型は横須賀に配備されていないので新鮮であった。

 新鮮というと、丁度接岸しようとしている敷設艦「むろと」と少し離れた所にいる音響測定艦「ひびき」も新鮮に見える。どちらも呉にしか配備されていない艦だ。そもそも敷設艦は一隻しかいない。敷設艦というと、ぶんごの様に機雷を敷設するかのような想像をしてしまいがちであるが、そうではないのは確かだ。では何を敷設しているかというと、これがいまいちわからない。水中聴音装置と言われているが、戦略上機密とされており詳細は不明である。音響測定艦は日本近海に於いて潜水艦の発する音の情報を収集する艦であり、海上自衛隊では唯一双胴型を採用している。こちらも敷設艦と同様機密であり、情報は少ない。

 潜水艦は現用のおやしお型とそうりゅう型がいた。これらはどちらも横須賀で見られるため、隻数が多いこと以外はあまり驚きではなかった。

 横須賀では見にくい艦船を見ることができて、呉の海に出た甲斐があったというものである。横須賀は海上自衛隊以外に米海軍も見られるのに対し、呉は海上自衛隊の珍しい艦船がいる、といった違いがあって面白い。

 艦船巡りから降りて、昼食を食べに行く。どんな店がどこにあるのか知らないので即席で調べると、道の反対側にある土産物屋の二階に良さそげな店がある。そこで鯨の竜田揚げを食べた。今時鯨なぞ滅多に食べられるものではない。食べられるときに食べておきたい質である。美味しかった。

 それから大和ミュージアムに向かった。三度目の正直である。正式名称を呉市海事歴史科学館といい、別に戦艦大和に的を絞っているわけではない。実際に呉の歴史や呉で建造された艦船についての解説もある。まぁ、その中で最も有名なのが大和なのだが。入ってすぐの開けた場所に置いてある十分の一スケールの大和の模型は有名だろう。実際に見ると、模型でも大きさに圧倒される。さっきから圧倒されてばかりである。下から見ると、装甲板の曲線がなめらかで美しい。実物を見てみたい……、というのは無理な願いであろう。模型で我慢するしかない。

 呉には呉海軍工廠が置かれており、戦艦建造の中心地であったという。隣の広にも海軍工廠があり、航空機を製造していたというのは知らなかった。歴史フロアの展示はどれも目を引くものであったが、最もインパクトがあったのは戦艦金剛に搭載されていたボイラーである。建造当時に搭載されていたもので、改装時に下ろされた内の一つが建物の暖房用ボイラーとして平成五年まで使用されていたそうだ。そんな最近まで使われていたとは驚きであるが、非効率なのではという気もしてしまう。

 歴史フロアから順序通りに行くと、次は大型資料の展示室である。ここには九三式魚雷や零式艦上戦闘機、大和型や長門型の砲弾といった通常兵器から特攻兵器の海竜、回天などまで展示している。当時を体験したわけではないのであまり無責任なことは言いたくない。ただ、必死になったらもうお終いなのではないかと思う。

 大和ミュージアムにある零戦は六二型というタイプだ。これは太平洋戦争最末期に作られ、量産型としては最後の型になった。爆弾の懸架装置を備え、戦闘爆撃機としての運用を想定している他、特攻機としても用いられたという。国内に現存する六二型はこの一機のみであるため、珍しい。海外を含めても二機しかない模様。私が靖国神社で見たのは五二型だった。

 企画展「海底の戦艦大和」も見た。呉市が2016年に行った海底調査の結果について展示されている。個人的には大和が二つではなく三つに割れていたということが驚きであった。これまでの通説では沈没時の爆発で船体が二つに分かれたとされていたが、新調査によれば三つに割れているそうである。記憶を修正しなくてはならない。それ以外にも、残されていた大和の設計図などの展示も興味深かった。

さて、今回目標にしていた二つの博物館の見学を終えたが、まだ時間に猶予がある。アレイからすこじまに行ってみることにした。

 アレイからすこじまへは呉駅前からバスで移動する必要がある。駅前を17時05分に出るバスに乗った。市街地を抜け、湾の東を南下する。道路は高低差が激しく、呉が山に囲まれた土地であることを実感させられる。旧海軍が呉に鎮守府を置いたのは、三方が山である為防御がしやすいというのも理由の一つであった。

 二十分ほどで潜水隊前というバス停に着く。そこがアレイからすこじまだ。特に施設があるというわけではない、海沿いの道、というか公園である。バス停名の通り、すぐ脇に第一潜水隊群司令部があり、公園から間近に潜水艦を見ることができる。横須賀では見られない、呉ならではの光景だ。丁度夕日がさして、水面に反射している。バスに乗ってくる価値のある光景だった。

 再びバスに乗り、来た道を戻る。今度は渋滞していて少し時間がかかった。途中、上から造船所を見下ろせる場所がある。そこが旧呉海軍工廠であり、大和が建造された場所だ。現在は民間の所有になっており、見ると護衛艦が入渠していた。調べてみると、あぶくま型護衛艦「とね」らしい。降りて写真に収めるか悩んだが、結局降りなかった。

 呉を出たのは18時26分だった。今度は国鉄時代から走っている車両である。しかし、混んでいて座れなかった。車窓からは陽光の残滓が漂うような瀬戸内海が見える。戦前、呉線から軍港が見えると機密上悪いとのことで、呉近辺では客車の鎧戸を閉めさせられたという。そのようなことが無くなって良かった、と一ファンとして思わざるを得ない。これを罪とするなら、軍港があることでの功もある。軍港は当然大きな乗客需要のある場所であるから、東京から呉まで直通の急行が運行され、大型蒸気機関車が入線出来るよう幹線並みの線路規格だったという。

 単線で交換をしながら四十五分、広島には18時47分に着いた。今日の宿は三次である。すぐに乗り換えれば19時05分の芸備線三次行があるが、頼まれている土産を買わなくてはならなかった。売り場が限られているため、数日前に営業開始した新駅舎の中を探し回ること二十分、買えた頃には次の25分発も発車していた。その次は20時07分発の快速みよしライナーである。三十分暇なので、路面電車で紙屋町まで往復しようかと思ったが、調べてみるとその余裕は無かった。間が悪い。諦めて駅前の停留所で発着するのを写真に撮っていたが、ひっきりなしに来る電車は種類が豊富で面白い。各地から買い集められた車両の他、自社発注や低床車に連接車と様々だ。飽きることのない三十分だった。

 芸備線快速みよしライナー三次行は国鉄型の気動車による三両編成だった。夜だし空いてるだろうと高をくくってホームに向かうと、座席は埋まり立ち客までいる状況だった。通勤需要があるということは素直に喜びたい。

広島を定刻に発車した。可部線も呉線も広島から少し離れて分岐したが、芸備線は広島から直接分岐している。覚えるのが楽でよろしい。夜の帳が降りた住宅地を走って行く。快速といっても広島を出てしばらくは各駅に停まる。駅に停まる度に乗客が降りていく。

 二駅目の戸坂の辺りから太田川の左岸を走るようになる。午前に乗った可部線の丁度対岸だ。開けた感じがあるので夜でも川はわかる。

 五駅目の下深川まで各駅に停車し、乗客の大半はここまでで下車した。私は空いた座席に座る。列車は速度を上げ、太田川の支流、三篠川沿いに北上していく。

芸備線は広島から三次を経由し、岡山県の備中神代に至る路線だ。途中、三次で三江線、塩町で福塩線、備後落合で木次線と接続している。備中神代からは伯備線に直通し、二駅先の新見まで行く。歴史的に見ると、広島から塩町の先の備後庄原までは私鉄の芸備鉄道が、備後庄原から先は当時の鉄道省が敷設している。広島近辺は私鉄が多いなぁ、という印象を抱く。

 結構行ったけど意外と家があるなぁ、などと思いつつ一時間。いつの間にか分水嶺を越えている。この辺りでは河川収奪が起きている。元々太田川水系だった地域を江の川が奪った形である。峠がそんなに高くないので、どうもはっきりしない。

21時31分三次着。夜は景色が見えず面白くない。三次まで乗っていた乗客は十五人程度だったと思う。

 今夜の宿は駅から歩いて十分ほどのビジネスホテルだ。道中、スーパーやファミレスなどが見受けられる。三次の人には悪いが、思っていたよりも発展していた。

 宿の部屋に荷物を置き、夕食を食べに再び外へ。流石に空腹である。フロントに近くで郷土料理か何かを食べられる店はないか尋ねたが、時間が時間だけにもう終わっているらしい。もらった地図を頼りに、まだ開いているというお好み焼き屋を目指した。

 広島のお好み焼きは以前食べたことがある。麺を入れるのが特徴だと思っているが、三次のお好み焼きはその麺が辛いらしい。唐麺という唐辛子を練り込んだ麺を使うのだという。私が入ったお好み焼き屋は時間帯もあるだろうが客は私一人だけだった。店主のおじさんはテレビを見ていて、私が頼んだ唐麺入りのお好み焼きを焼き終えるとまたテレビの前へ戻っていった。私が辛いお好み焼きを食べている最中に聞こえてくるのはゴミ屋敷の話である。とやかく言うほどでもないが、飲食店でそのチョイスはどうなのだろう……。

 翌朝は早いので、帰りがけにコンビニで翌日の朝食を買い、すぐに寝た。

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