穴から這い出て群がるもの、引き摺り込むもの
アイオイ アクト
前編 群がるもの
これから語る話は、私の人生最悪の経験である。
ただ、現実に発生したかどうかは物証に乏しく、ストレスの多い少年時代を送っていた私が見た幻覚、あるいは統合失調のような症状だったかもしれない点を予め申し上げておく。
今から二十数年前、私が中学一年生だった頃。
その日は東京の下町と呼ばれる地域の一角で、私の曾祖母のお通夜が執り行われていた。
曾祖母の家の仏間には祭壇が組まれ、曾祖母が眠るお棺が安置された。
昨今あまり見かけなくなってしまったが、この当時は東京でも自宅で葬儀を行う事が少なくなかった。
古き良き日本家屋は便利に出来ていて、仏間と廊下を隔てる障子戸を取り外し、廊下の雨戸を全て開け放つと、外から仏間へと続く大きな開口部を作る事が出来る。
その開口部から、沢山の人が抱えたお棺を運び込めるようになるのだ。
仏間の正面に向かって左隣には、広めの居間があった。右隣には、襖で隔てられたいくつかの部屋があった。
その日は葬儀で人が集まれるように、右隣の数部屋の襖は取り払われ、広い宴会場のようになっていた。
私にとって、初めて経験する自宅葬が始まった。
小さい頃から私にはいわゆる霊感らしき感覚が備わっていたが、葬儀を怖いと感じた事は無かった。
葬儀の最中に良からぬものを見たり感じたりする経験は、一度として無かったからだ。
だが、曾祖母の葬儀は、例外中の例外だった。
葬儀には多くの人が出入りしていた。
家の外の狭い道は、マイクロバスや車で渋滞が起きていた。
直系の親族だった私は仏間の左の居間に通され、焼香する参列者をただ眺めていた。
子供だった私に手伝える事は少なく、ただ小さな子供の面倒を見るくらいしか出来なかった。
曾祖母との別れを惜しむ暇も無く、私は子供達の持っていたゲームボーイで一緒に遊んだり、おしっこがしたいという子がいれば人混みをかいくぐってトイレへ連れて行ったりしていた。
しかし、一人だけ気になる子供がいた。
私立小学校の学生服と思しき服を着た男の子だけは、なぜか床の間の隅っこに立っていたのだ。
「こっこっこっこっこ……」
砂壁を指でこつこつ叩きながら、それに合わせて「こっこっこっ」と、ずっと呟いていたのだ。
私はその男の子に恐怖を感じ、床の間から降りなさいと注意出来なかった。
他の子供達から声をかけられたりしていたと思うが、その子はまるで聞こえていないかのように、そこから動かなかった。
「待たせてごめんね」
母親らしき人が、その子を床の間から抱え上げた。
その時、私は心底安心した事を覚えている。
正直、その子が良からぬ何かかもしれないと思っていたからだ。
しかし、その子の母親と思しき人は面識のある人だった。
その子は母親に縋り付くと、心底苛ついたような声で「帰る!」と連呼し始めた。
お母さんはその子を抱き上げ、人でごった返す仏間へと向かった。
「ああーやああー!」
その子の絶叫が響いた。母親は慌てて何が嫌なのか問いただした。
「お部屋いやあー!」
と、その子は叫んだ。
無理もない。遺体があるの部屋は、小さい子供には怖いだろう。
私はそう解釈したのだが、母親はそれを失礼と受け取ったようだった。
「ばあばがあそこでねんねしてるの! 嫌なんて言わないの!」
母親は彼の叫びなど無視して、仏間に出来た列をかいくぐって玄関へと向かった。
その時、私は見てしまった。
母親は背を向けているが、抱かれた男の子は私の方を向いていた。
その男の子は力の限り、懸命に両腕を振り回していた。
母親は人混みの中で暴れる男の子に怒りを覚えたのか、「暴れないで!」
と、声を荒らげていた。
しかし、私には見えていた。
男の子が癇癪を起こして暴れていたのではなく、母親の体に掴みかかる「何か」を、懸命に振り払っていたのだ。
ほんの数瞬だったが、私の目に映ったのは、全身が赤く、ヌメヌメとした裸の子供だった。
毛の無い頭の上から手足の先まで、濃い赤のペンキを大量にかぶったような姿だった。
人混みの中、それが何体も仏間をうろうろしていたのだ。
逃げないと。
私はそう直感したが、葬儀の真っ最中にそれが叶う筈もなかった。
落ち着け。大丈夫だ。
あの化け物達は小学校低学年の子供にも振り払える程度だから、大丈夫だ。
私はそう自分に言い聞かせる以外、何も出来なかった。
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